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思想のメロディ(随筆集)  作者: 藤原光
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自らに与えられた名前と自己認識の関係性について(前編)

 名前とは者や人物に与えられた言葉のことである。私はある特定の他者を呼ぶ際には、その特定の人物の名前を口から発するし、また特定の他者から呼ばれる際には、他者の口から私の名前が発せられる。

私達は自らに与えられた名前というものを持っている。これは私と他者が、私と他者を区別するための呼び名として、常日頃から使用しているものだ。では名前とは、このような利便性に基づいてのみ、私の名前として、役割を果たしているのだろうか?

私は自らに与えられた名前と自己認識の関係性について、その重要な関わり合いを、数学的実験で発見することができた。これからその成果を、思い残すことがないように、私の実験ノートを見ながら記していきたいと思う。

まずは名前と自己認識の関係性を分析するに伴って、自己認識の定義を再確認する必要が出てくる。自己認識とは言葉通りで、自己を認識する心的行為である。では自己認識によって、認識される自己とはいったい何であるのか。自己とは私自身のことであり、社会学や心理学では自己同一性、アイデンティティと呼ばれていたりもする。自己認識における認識作用を観察するためには、認識という動作に対して能動的且つ受動的存在である自己を、私は微々に至るまで解体する必要があるのだ。

 そもそも自己を形作っているのは、自己の過去における時間であることに誤りはないだろう。私の自己というものは、過去における時間が存在しなければ、今ここに提示されることのないものである。ここで私が簡潔に説明したいことは、私達の自己というものは、過去における時間によって形作られていて、その時間の存在しないことには、自己という主観的概念は存在しないということである。

 では自己を認識する認識について再確認してみよう。自己を認識するときの認識とは、時間によって形作られた自己を、現在における観点から心理的な眼差しを向けることである。これはしっくりとくる定義だ。もちろん認識とはいつにおいても現在的なもので、現在における観点から離れられない私達が、過去や未来の観点から、認識という心的動作をすることは不可能である。

 次に私は認識という動作に潜んだ、魔物のような神秘性について語らなければいけない。自己に向けられた認識とは、それが完全な認識であるという根拠が一つも存在しない。そもそも自己という観察対象自体が、漠然とした時間によって形作られた、具体性が余りにも欠けている存在である。更に絶対的な精神分析が存在しないのと同じ理由で、自己という他者とは区別された概念を観察するためには、あらゆる学問上の問題が内的にも外的にも発生する。そのような神のみぞ知るような得体のしれない存在者を、私達はどの程度まで正確に認識することが可能であるのか。

 認識の程度とは非常に抽象的なものである。しかし具体性には欠けているものの、抽象的ではあれ、認識という一つの認識が行われていること自体は、言うまでもなく事実であり、私が私を認識しているという真実は確かに存在する。

 これから自己認識における思考実験を始めよう。まずは現在における程度の知れない自己認識の度合いをXとする。では認識している自己に関する情報を数値化して、このXから減算していく。

Ex)X-1,X-10,X-99……

 上記の例は、現在における私の自己認識の程度から、自己に関する情報を数的に減らしていることを意味する。すると私の自己認識は、自己に関する情報を失ったことにより、減算させられた自己の程度だけ、自己認識の程度が先ほどよりも減少することになる。これは一見、無限的な減算にも感じてしまうが、実はそうではない。そもそも認識という動作自体が、認識対象を必要とするものであるので、認識対象が消滅してしまった際には、私の認識という行為も消滅してしまうことになる。そのように考えられると、数値化された自己に関する情報は、いつしかXと同等の数値となり、自己認識という行為はゼロとなって消滅することになる。

 ではいったい、その数値がXと成る直前の数字とは何であるのだろうか。その直前の数字を考慮することで、私は私という自己存在、自己認識の限界を認識する大きなヒントを知りえるかもしれない。

 しかしここで大きな問題が生じる。私に関する情報を失った私とは、どのような情報を失ってしまったのか、その明確な判断をすることはできないのである。こう考えると自己に関する情報を数値化すること自体に疑問を抱くことになる。自己を数値化した場合は、1が100であったり、100が1であったりなど、自己認識における数値化された自己に対する正確性が、自分でも混乱してしまうほど余りにも不安定になってしまうのだ。

 この問題を解決するために幾つかの仮定を設定してみよう。

 自己認識をしている私から何者かが、私の自己に関する情報を好きなだけ抹消するとする。私はどの記憶が抹消されたかは知る由もない。すると私の自己認識は何らかの変化を示すはずである。

まずは私のことに関する全情報を抹消されたとしよう。自己認識は一度、中断されてしまうはずだ。しかし私は自らの心的動作を感じることで、私と他者の区別をすることはできるので、このときも私という主体性は失われないことになる。そのために一度、中断された自己認識はまた再開されるだろう。しかしこの心的動作は自己認識が一度中断されたとき、Xが0となった地点から行われることになるので、このときの主体性とは、私が数秒後の未来において、自己認識における認識という行為を回復させたことによって、再度、自らに与えられることになる。これを私は自己認識の回復作業と呼ぶが、この作業が行われる前の状態の認識程度はゼロのままである。このときのゼロである自己認識のことを、私は自己認識ゼロの状態と呼ぶ。これを数式で表すと以下の通りになる。

   X-X=0

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