自分が理想とする執筆について
私はどうも焦りすぎるので駄目だ。例えば読書にしても、常に並行して五冊ほどを読んでいるが、そのような向き合い方で、一作家の心と真面目に向き合えているのだろうか?しかしこの習慣は止められず、なんせ学びたいことは沢山あるが、寝坊助の自分であるから、睡眠時間を惜しむような超人技ができない。そして読書がこんな状況であるので、執筆に関しては散々である。私は毎日、何か執筆をしていないと落ち着かない。仕事や用事で忙しい日などは、胸に大きな苛立ちが湧き立ってくる。私はこの苛立ちが何であるのかを、今、冷静になって分析しているのであるが、この苛立ちとは焦燥以外の何ものでもないはずだ。
私は人生の慰めとして、文学的芸術を楽しんでいるはずであるのに、いつの間にかその慰めが焦燥の種に変わっている。この種が咲かせる花とは何ぞやと考えるが、そんな自分が余りにも滑稽に思えてきて、私はこの思考を中断させてしまう。
気分気ままから生じた散歩の道中で、私はふと一つの考えを巡らした。人生で後一つしか作品を残せないならば、いったい自分はどのような作品を築き上げるのだろうかと。私は元々、作家志望であるので、恐らく長編小説でも練り上げるのだろうか?しかし人生の最後にならないと、書き始めることができない小説とは、いったいどのような小説なのだろうか。そんなにも偉大なものが自分にあるならば、今に書いてしまえばいいだろう。それができないのだから今がある。なら私はきっと、最後の残された時間には、膨大な文字数から成る遺書くらいしか書けないだろう。それも殆どが悔恨による記述に違いない。
命懸けという言葉があるが、どうせならいつも、そのような心境で執筆をしたいものだと思う。きっと人から尊敬される作家は、いつも命懸けで執筆をしているはずだ。私みたいに焦りながら執筆を続けて、次から次へと文章にしたい対象を変え続け、一つの思想に長く留まることを知らない者の言葉を、いったい誰が信用して読んでくれるだろうか。しかしこの焦りを捨てることの難関さも自分は理解している。きっと私はまだ精神が若すぎるのだろう。精神が熟せばきっと、命懸けの創作を実現できるような、精神的余裕を手に入れることができるのだろうと考える。それならば私に足りないのは精神的な加齢だろうか?
私は一時、芥川龍之介の小説を好んで良く読んだが、その中でも「あの頃の自分の事」は、自らの記憶において強烈な色彩を放っている。芥川龍之介が松岡譲を訪れた場面、私はあの時に芥川が見た松岡の寝顔が忘れられない。以下に小説から一文を引用する。
その時ふと松岡の顔を見ると、彼は眠りながら睫毛の間へ、涙を一ぱいためてゐた。
私はこの文章を初めて見たときから、自らの抱く文学への情熱に疑念を抱いている。
いったい私は本当に、この芸術と真剣な態度で向き合えているのだろうか?
「莫迦な奴だな。寝ながら泣く程苦しい仕事なんぞをするなよ。体でも毀したら、どうするんだ。」――自分はその心細さの中で、かう松岡を叱りたかつた。が、叱りたいその裏では、やつぱり「よくそれ程苦しんだな」と、内証で褒めてやりたかつた。
これは私がこの小説で最も愛する文章である。そしてこれらの言葉は、松岡の寝顔を見た者が芥川であるからこそ生まれた言葉だ。また彼も一作家として、創作に苦しむ者の理解者なのだから。私もこれ程、真面目に文章を書きたいなと、一年に何度か、ふとこの文を思い浮かべては、今の自分についての考察を始めるのだ。そしてその考察がつい最近、自らに起こったのであるが、今の自分は果たしてどうだろうか。さっぱり分からない。ーーー以上。




