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郡上八幡 少し昔の不思議な話~麻の葉~

作者: こにゃんこ

 今年初めての浴衣を着ながら、富貴子は隆夫のことを思い出していた。

 隆夫は富貴子の別れた亭主だ。生まれも育ちも美濃だったが、郡上の踊りが好きだった。夏になると、踊りのある日はしょっちゅう、美濃から郡上まで踊りに来ていた。郡上在住の踊り好きたちとも仲が良く、それが縁で富貴子とも知り合い、結婚するに至った。

 交際中は二人で踊りに出かけ、並んで輪に入り、踊り仲間に冷やかされながらも、楽しい時間を過ごした。二人きりでいる時も、いつも隆夫は優しかった。

結婚する時、富貴子は郡上を離れるのは寂しかったが、隆夫はしょっちゅう踊りに来ていたので、踊りには一緒に行けると思っていた。夫婦で踊りに行けるのなら、それはそれで楽しいかもしれないと思った。

 ところが、結婚してからの隆夫は、手のひらを返したかのように富貴子を支配しようとした。何か一つのことを、「こうしろ」と言ったら、すぐに富貴子がそうしないと怒鳴って怒った。お金の管理は全て富貴子にやらせておいて、自分の欲しいものに対して、富貴子が「高すぎる」とか、「要らない」と言うと、たちまちに不機嫌になって、一人で飲みに行っては、帰って来ると富貴子がいかに能なしで、やりくりが下手か、延々と並べ立てた。踊りには一緒に出かけたが、機嫌のいいのは他の人が一緒にいる時だけで、二人になると、誰それとはしゃべるなとか、お前は他の男と話すときは機嫌がいいとか、訳のわからない因縁をつけてネチネチといじめた。それが嫌で、富貴子は以前のように踊りにいきたいとは思わなくなった。

 実際のところ、隆夫は、見栄っ張りの浪費家で、極端なヤキモチ焼きだった。欲しいものがあると、すぐに買わなくては気が済まなかった。それが身の丈に合った物でなくても、一度欲しいと思うと、富貴子が金を用意するまでしつこかった。富貴子はいつも隆夫の見栄のせいで出来た支払いに頭を悩ませていた。

自分はそんな自分勝手なくせに、隆夫は富貴子がしたいことや、会いたい人については、いちいち干渉しては束縛した。自分がよく知らないことやよく知らない人に、富貴子一人が関ることが気に入らなかった。つまりは、どんな小さなことでも、富貴子のすることは、事前に隆夫の許可が必要だったのだ。

 サラリーマンの隆夫の収入は、月に一度しかない。入ってくるお金が決まっているのだから、富貴子は節約に節約を重ねた。まだ子供はいないので、いっそ働きに出ようかと何件か面接には行ったが、結婚したばかりの若い女など、すぐに妊娠して辞めてしまうだろう、という雰囲気が、面接担当者からありありと見て取れたので、勤めに出るのは諦めた。隆夫は、自分の好き勝手のせいで家計が火の車なのに、世間からは「嫁を遊ばせて、食わせてやっている」と思われたいのか、富貴子が勤めに出ることにいい顔はしなかった。そのため、富貴子が就職を諦めた時は、勝ち誇ったような顔をしていた。

 仕方なく富貴子は、内職を始めた。しかしそれも、納期が迫って、夜も仕事をしていると、隆夫は怒った。嫌がらせかと怒鳴り、富貴子が日頃節約していることも、しみったれてみっともない、見ているとイライラして腹が立つといって怒った。それはどんどんひどくなり、それに伴って、富貴子の気持ちはどんどん隆夫から離れていった。

 ある夏の日、隆夫は同僚と飲みに行くと言ったので、富貴子は一人で夕飯を済ませた。郡上ではもう踊りが始まっていた。踊りのカレンダーを見ると、その日は大手町の踊りの日だった。

「一人で踊りに行こう。隆夫となんか行ったって、ちっとも面白うない」

そう思うと、富貴子はいてもたってもいられず、郡上に行きたくて仕方がなくなった。今日行かなければ、もう一生行けないような気持ちさえしてきた。携帯電話などないこの時代、隆夫には何の連絡もいれず、テーブルに「踊りに行きます」とだけ書いた紙を置いて、郡上まで踊りに出かけた。

 大手町に着いて、踊りの輪の中にいる時は、今までにないほど気分が楽だった。隆夫に見張られていると思うこともなく踊れることが、こんなに楽しいとは思わなかった。最後の「まつさか」まで踊ると、顔見知りの踊り中間達と挨拶を交わして別れた。

 と、その瞬間から、富貴子の気分はみるみるうちに沈んでいった。隆夫と暮らす家に帰らなくてはならない。両親の住む実家に泊めてもらおうかとも思ったが、もう時間は十一時になろうとしている。今日郡上に来ることは言っていないし、急に一人で泊まるとなると、また隆夫が怒るのが目に見えていたので、重い気分のまま、車を走らせた。

 踊りから帰ると、夜の十一時半くらいになっていた。玄関に入るや否や、思い切り頬を叩かれた。

 隆夫が玄関に立っていた。鬼の形相で立っていた。そして、立ち上がった富貴子の頬をまた叩いた。髪をつかみ、富貴子が何も言えないでいるのに、何度も殴ったり蹴り飛ばしたりした。富貴子は殴られながら、別れようと思った。なぜ、こんな人のために、食事を用意しなくてはならないのか。美味しいとも、ありがとうとも言ってくれたことはない。いちいち味付けに文句を言うくせに、自分は包丁一つまともに使えないじゃないか。食事の支度だけじゃない、洗濯だって、掃除だって、富貴子が熱を出して寝込んでいても、一度だってしてくれたことはない。懸命にやりくりする富貴子を、しみったれだと馬鹿にするばかりで、自分の浪費癖を直そうともしない。金は天から降ってくるとでも思っているのか。自分は遊んでばかりいるくせに、富貴子が誰かと話をするだけで、嫉妬し、怒鳴りつける。

 もう嫌だ。子供もいないのに、誰のためにこんな我慢をするのか。

 翌日、身の回りのものを持って、富貴子は何も言わず家を出た。郡上の実家で事情を話すと、隆夫の外面しか知らなかった両親は心底驚き、富貴子の身体中に出来たひどいあざを見るや、父は激怒し、母は泣き崩れた。

 両親は二度と富貴子を隆夫の元へやるつもりはなく、隆夫は富貴子の実家に話し合いに来ることは無かった。臆病者なので、怖くて富貴子の両親と顔を合わせられなかったのだ。そのうちに向こうの両親から連絡があり、書類に判を押すだけで離婚は成立した。

 今まで隆夫は、子供の頃からずっとそうしてきたのだろう。困ったら親に泣きつき、親が出て来て話をつけるのだ。親も親で、それでよしとしているのだ。

 富貴子の両親は、隆夫の臆病で無責任な態度に腹を立て、さっさと別れた方がいいと思った。慰謝料も取ってやりたい気もしたが、富貴子から、隆夫の金などろくに無いことを聞かされていたし、金のことで揉めて、離婚時期が先送りになることが一番鬱陶しいと思った。富貴子はまだ若いのだし、金など貯める気になって貯めればいい。自分たちの蓄えもある。そう思うと、隆夫の家の金など要るものか、という気にもなっていた。とにかく、籍を抜くことを最優先にした。あれほど孫の顔を見たいと言っていた両親は、子供がいないのが、不幸中の幸いだと言った。別れるとなればそんなものだ。

 そうして離婚が成立して、すでに三年だ。富貴子はそのまま実家で暮らしている。

 今年で三十になる富貴子の元には、何度も縁談が持ち込まれた。両親は、富貴子が今度こそまともな人と縁付けばいいと願っているようだが、富貴子はもう結婚なんてウンザリだと思っている。

 いつか、この気持ちが前向きになる日も来るかもしれないが、結婚した途端に態度を変えた夫と、それからの抑圧された生活を思うと、次がそうではないと、誰が保障してくれるのかと思えるのだ。

 そう思いながら、地元の小さな会社で真面目に働き、趣味は夏の踊りだけなので、隆夫との生活で減った貯金も、徐々に増えていった。

 そんな時、隆夫が死んだとの知らせを聞いた。踊り仲間からの連絡だった。交通事故らしかった。

 しかし、一度は縁があったとはいえ、悲惨な結婚生活の中で、二度と顔も見たくないと思うほどになっていた隆夫に対し、今では他人以下の気持ちしかなかった。当然、通夜にも葬式にも出なかった。今となっては、ただの大嫌いな赤の他人だ。

 発祥祭(踊りの初日)の今日、浴衣を着ながら、まだ結婚する前、隆夫とも笑い合って話をし、みんなが若く、元気だった頃を思い出していた。まだまだ若いつもりだが、あの時の仲間は、結婚・出産を経て、子育てに忙しく、現在、踊りにはなかなか出て来られない人もいる。

 そこまで思うと、富貴子は一人だけ自分が取り残されているような気分にもなったが、かといって、相手を無理に探してまで結婚したいとは思わなかった。結婚生活というものに、幻滅しすぎているからだ。いつか、もしそういう相手が出来た時に、結婚という形を取るかどうか、それはその時に考えようと思っている。

 着替えが終わり、下駄をはいて外に出た。今日の下駄は、発祥祭に合わせて新調した、白地に緑の唐草模様だ。それを見ながら富貴子は、隆夫はなぜか、麻の葉模様の鼻緒をすげた下駄しか履かなかったな、と思い出した。色の組み合わせや、柄の大小もあるけれど、柄はなぜか麻の葉たっだ。そんなことを思いながら、一人で会場まで歩いて行った。

 会場に着くと、顔見知りの踊り仲間たちに会い、「今年も宜しく」と言い合った。お互いに近況報告などしていると、ふと、後ろに人の気配がした。

 振り向きざまに、一瞬、下駄を履いた足が見えた。が、その次の瞬間には消えていた。後ろに人の姿も無かった。

 気のせいだろうか。下駄の鼻緒は麻の葉模様だった。紺に白の麻の葉だ。

 みんなで踊りの輪に入って行くと、日頃の小さな悩みなど、どうでもよくなった。結婚しようがしまいが、自由に踊りに行かせてくれない男など、金輪際、こっちからお断りだ。

 と思った瞬間、また下駄を履いた足が見えた。麻の葉の鼻緒だ。えっ?と思いながら、視界の端を気にしてみたが、そこにはさっきと同じ踊り仲間が並んで踊っている。

 富貴子は、嫌な気持ちになって来た。麻の葉の鼻緒に対し、怖いというより、思いっきりイライラして、爆発寸前だった。正体ははっきりしないが、富貴子が楽しんでいるのを邪魔しようとしているみたいで、腹が立ってきたのだ。

 何曲か踊り、みんなで休憩をした。カキ氷を食べる者、ラムネを飲む者、それぞれに好きな物を買い求め、楽しく話をしていた。するとまた、すぐ横に、麻の葉の鼻緒をすげた下駄の足がチラリと見えた。そして、見えた瞬間に消えてしまった。

 こいつは絶対隆夫だと、富貴子は思った。私が楽しいのが悔しくて、嫌がらせに来ているのだろうか。それとも、自分以外の男としゃべったりしないように、見張りに来ているのだろうか。まだこの世に未練があるのか。ここにいるから自分も混ぜろと言いたいのか。

 いずれにせよ、例え隆夫が気の毒な死に方をしたとはいえ、それは自分のせいではないし、この期に及んで別れた妻のところに何をしに来たかと、富貴子はふつふつと怒りが込み上げてきた。まだまだ楽しみたかったのかな、可哀相に、一緒に踊りたいのかな、なーんて優しいことは、少ッしも思わなかった。それどころか、死んでからも別れた女房を見張りに来るとは、全く鬱陶しいやつだ。あの足のせいで、今日の浮かれ気分は台無しだと思った。すでに死んでいる隆夫に、死んでくれと言いたくなったくらいだ。

 その日の踊りの間、何度も視界の端に、隆夫らしき下駄を履いた足が見え、見えるたびに富貴子はムカついた。踊りが終わり、中間達と別れて一人で歩き始めた瞬間、また麻の葉の鼻緒だ。

 富貴子は、「見えた」と同時に怒りが込み上げ、思い切り、その足をこれでもかというくらいの勢いで踏みつけた。その瞬間、人の足を思い切り踏んだ感触と共に、

「いってェ!」

という声が聞こえた。

 本物の人間の足であれば、下駄の歯で思い切り踏みつけるなんてひどいこと、とても出来ないが、相手が隆夫だと思ったら、少しの躊躇いも無かった。もっとひどいことを自分はされてきたのだ。

 力を入れた足をそのままに振り返ると、そこには誰もいなかった。自分の足も地面を踏みしめている。

 思えば、隆夫と暮らした数年、喧嘩になっても、殴ったり叩いたりするのは一方的に隆夫の方で、富貴子が手を出してやり返すことは無かった。

 果たして、今踏みつけたそれが、隆夫の足なのかどうかは定かではない。聞こえた声も隆夫かどうか、絶対とは言いきれない。しかし富貴子の気分は、爽快だった。

 あーーーー、すっきりした。

 初めて隆夫に対して鬱憤を晴らしたような気がした。

「邪魔臭いわ、このたわけっ!もう二度と、私のそばには近寄らんようにしとくれ!」

と、薄暗い街路灯に照らされた道路を、肩を怒らせてずんずん歩きながら、富貴子は見えない相手に言い放った。


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