王女の結婚-3-
忙しなく動き回っていた水夫達は、風を読み帆を畳むタイミングを計っていたようだ。
号令が発せられると、伝令役の水夫が小さな旗を振る。それを合図に全艦の帆が一斉に畳まれ始めた。
勢いのついた船は急速に減速しつつ、湾内へと進入して行く。
湾の中ごろでほぼ止まりそうな艦隊に、港から出航して来た小型船が多数近づいて来た。
ぎりぎりまで近づくと、次々にロープの付いた錨を投げて寄越した。
「下船のご準備を」
クリストファーが声を掛けてきた。存外強張った声音であったが、彼もこれからの事に緊張していたのかもしれない。
「姫様、どうぞこちらへ」
背後からの声に振り返ると、鍔の広い帽子を手にニッコリと微笑む伯爵夫人が待っていた。
危なくないようにメインマストの位置まで下がると、ドレスと同じ淡いグリーンの帽子を手際よく被せられる。
「いよいよでございますね」
「そうね」
「普段通りでよろしゅうございますよ。可愛いわたくしの生徒は、とても優秀ですから」
「そうかしら?よく授業をさぼっていたわ」
「図書室で本を読んでいらっしゃいました、王女には不要な難しい本を」
「でも、これから役に立ちそうよ」
柔らかな微笑みを絶やさない伯爵夫人が、帽子のリボンを結んでくれる。
帽子の角度を調整しながら、瞳を覗き込まれた。
自分にしか見えない状態で、夫人がこっそりと耳打ちするように囁く。
「船を下りた瞬間より、わたくしは姫様の家庭教師では無く一従者となります」
「それは」と続けようとするアリシアの言葉を、海風に乱れた髪を直す振りで遮り夫人は続ける。
「我々のことは、国から持ち込んだティーカップやオルゴール等と同じとお考え下さいませ」
壊れた時はそれまでと……と、帽子に付いた造花を整える際に耳元に囁かれた。
有事の際には置いて行け、もしくは代わりは幾らでも居るのでいつでも切り捨てよ、と言っているのだ。
「風が強いので、造花といえども花弁が飛んでいきそうですわね」
驚きに言葉が出ないアリシアを他所に、何事も無かったかのように下った夫人が、心配そうに頬に手を当て風に揺らめく花を見ていた。
船を降りれば、そこは自分たちの常識が通用しない異国なのだ。
これから先、何が起こるか誰も想像出来ない、長年自分の師を務めてくれた彼女の忠告だった。
だが、死が待つかも知れない遠い異国にまで付いてきてくれた彼女達を、そう簡単に手放すつもりも無ければ、みすみす見殺しにする気も無い。
「そうならないよう最善を尽くすわ」
アリシアの返答に、夫人が少しばかり瞳を開いたのち膝を折り頭を垂れる最礼の形を取ったのを見た双子も、その後ろで同じように膝を折った。
「アリシア・フィリア・デル=パルマ様、大蜃皇国・天帝陛下へのお輿入れ、誠におめでとう存じます」
「おめでとう存じます」
先導する小型艇に曳かれ港に接岸したのか、軽い衝撃があった。
水夫と人足が忙しなく動き回り、船と陸地との間に渡り板が取り付けられると、兵士達から青空を裂くような雄叫びが上がる。
クリストファーが差し出した左手を取り、船から降りるため赤いビロードが敷かれた橋の上に足を乗せると、兵士達から号令が飛んだ。
『大蜃皇国!』
『万歳!万歳!万々歳!!』
何万もの大軍の声と、風に靡く色とりどりの軍旗の数に気圧される。
こんな数は有り得ない。その大群は、最後尾の隊列など見えるわけもなく、ひしめき合っていた。しかも、これが全軍では無いのだ。正に大国と呼ばれるに相応しい。
そんなことを考えながらアリシアは、震える足を気取られまいと前だけを見据え一歩を踏み出した。
歩き始めた彼女を合図に、一人の兵士から号令が起こる。
『天帝陛下!』
『万歳!万歳!万々歳!!』
一斉に上がる地鳴りのような声の中、竦む足を叱咤し殊更優雅に見えるよう、ゆっくりと橋を渡り切るアリシアの様子を観察する者が居た。
皇国側の書記官だった。
若草色のドレスと同じ色の帽子から零れる金髪と、冬の池に降り積もる新雪のように白い肌。
瞳は大きく猫のようであり、鼻梁は高く西の兌県出身者に似ている。緊張のためか少し青ざめた頬とは反対に、瑞々しい薔薇で染めたような紅い唇は薄い。
彼が書き記す書状には、事細かにその時の彼女の顔立ちと様子が記されていた。
そして最後に「瞳の色は、見たことのない不思議な色である。玉のように輝き、時に翠のようで青にも見え、琥珀色にもなる。例えるならば、光りを受けて色を変えると言われる西王母の玉勝の如く、ただただ見惚れるばかりなり」と締め括った。
それが誰の元へ届くのかは、この書記官も知らされていないし知る必要も無いものだ。
ただ、彼は命じられた事を遂行するまでなのだが、最後に「この玉勝をめぐり、争いが起こるやもしれない」と書こうとし思いとどまった。
この姫君は、これから陛下の後宮に入宮するのだから、争いなど起こりようが無い。
書状が書きあがるのを待つ兵士に預けると、彼が素早く馬に跨りそして慌ただしく発ったその背中を見送ったのだった。