王女の結婚-2-
昼間でも薄暗い船室に、明るい彼女達の話し声と笑顔にアリシアの心も少し軽くなる。
もし万が一、襲撃などに遭った場合を想定し船倉を改造した部屋だ。
そのため日中でも天井から吊り下げられた小さなシャンデリアには、火を灯さなければならないほど暗い。
常に揺ら揺らと左右に揺れる蝋燭の炎は、部屋の中の影を大きくしたり小さくしたりと忙しなく揺らめかせている。
その影が視界の隅をチラチラと動くさますら、今日は眩暈を呼び思わず瞳を閉じるが、すると今度は視界が閉ざされた分、耳が鋭敏になる。
「……ねぇ、船乗り達の声ではなく、海鳴りのような音が混じっていない?」
アリシアは閉じていた瞳を開き、誰に聞くともなしに問いかけた。
「ですが、時化の時のような酷い揺れもありませんし……」
皆で首を傾げていると、扉がノックされた。
扉近くで荷物の片づけをしていたメイヤー伯爵夫人が扉を開けに行くと、人懐こい笑顔を見せる男が立っていた。この船の船長ジェフリー・クーパーだ。
被っていた帽子を取ると零れ落ちる黒髪を気にした風もなく部屋の中へ向かって一礼し、紗の向こう側に居るアリシアに声を掛けてきた。
「失礼いたします。姫様、ご気分がよろしければ甲板までお出ましになられませんか?」
紗のカーテンの向こうからは、返答が無い。
さして気にした風も無く、ジェフリーは続けた。
「大蜃皇国の民が姫様の入港を祝って、集まっております」
アリシアが側に控えるイングリットに目を向けると、彼女が代わりに言葉を発した。
「あれは海鳴りの音では無いのですか?」
「はい。公国の姫君を一目見ようと集まった皇国の民ですな」
こんな機会でも無い限り、高貴な方のお姿を拝見できる日など一生ありませんからな。対岸は港に続くまでお祭り騒ぎですよ、と柔らかく笑ったのが分かった。
アリシアは侍女達へ目配せをすると、大きく一呼吸吐いて立ち上がる為に身体を起こした。
「分かりました。少しお待ちいただけますか?直ぐに姫様のお支度をいたします」
支度といっても、髪飾りの歪みやドレスの皺を直すくらいだが。
アリシアは、手の中のカードをもう一度目の前に翳した。
それには、口を開き各々中央に白・クリームイエロー・黒・べビーピンクの真珠を抱いた真珠貝が四隅に、そして中央には波打ち際に硬く口を閉ざした一際大きなシャコ貝が描かれている。
それを小さなテーブルへと乗せると、静かにカーテンを潜りジェフリーの前へ姿を見せた。
恭しく片膝を床に突き左手を差し出された。
元子爵家嫡男だと、出発前に噂好きな侍女達が話をしていたのを聞いた。
彼の所作は、揺れる船の中でも優雅に見えるから本当の事なのだろう。
差し出された腕に軽く右指を触れさせると、立ち上がった彼に力強く細い指を握られ引き寄せられた。
驚いたアリシアだが、ジェフリーはもう前を向き甲板へ向かって歩き始めるから、がっしりとした体躯の上、頭二つ分も違う男に抵抗するのは早々に諦めた。
狭い通路を通り階段を上ると、潮の香に乗って海鳴りだと思っていた人々の歓声が聞こえてくる。
彼女が甲板に姿を現したのが岸から見えたのか、一際大きな歓声が上がった。
その歓声に甲板で作業をしていた乗組員達も手を止め、略礼ではあるがアリシアに頭を垂れまた各々作業に戻っていく。
そんな水夫達の間を縫って、船首近く今回の護衛も兼ねている司令官のクリストファー・イーディス卿の側へ連れて来られた。
クリストファーは、側にやってきたアリシアとジェフリーに気づくと、コバルトブルーの瞳を一瞬眇めたが直ぐに右手で帽子を取ると、それを胸に当てるように持って頭を垂れる。
現れた金糸のような髪がキラキラと陽の光を反射して、アリシアの方が瞳を細めた。
「我らが姫殿下には、ご機嫌麗しく……」
窮屈なコルセットに、青白い顔色をしたアリシアの機嫌が良い分けがない。
嫌みなのか?と一瞬脳裏を過ったが、この四角四面な性格の男の事だ、本当にただの挨拶なのだろう。
クリストファー・イーディス、歴代海軍の役職に従事する子爵家の三男であり、父と上の兄二人とともに自身も海軍に籍を置いている。
うだつの上がらない兄達と違い、同年代の中では頭の切れる出世頭のはずだ。
そんなエリートが、他国に嫁ぐ姫を“安全な航海航路を使って送り届けるだけ”の護衛任務では、腐るのも無理はない。
その間に兄達や同期は、海賊船討伐や自国へ侵入した敵国の船との交戦などで、武勲を挙げているのだから。
「挨拶はよい」
一国の姫に対するには慇懃無礼と取られてもおかしく無い口調を遮り、アリシアは目の前の海と空を見上げた。
自国の色とは違う柔らかな海の翠と空の蒼に、うっとりと瞳を細めたアリシアに影が差す。
マルグリットが、紗の垂れ下がる日傘を背後から差し掛けて、ジェフリーとの間にそれとなく割って入って来たからだ。
アリシアは、口唇の端をほんの少しだけ上げて笑った。
部屋を出る時に、ほんの少し歪めた眉を読み取ったのだろう、有能な侍女である。
そんな侍女の態度など気にした風も無く、ジェフリーはアリシアから数歩下がりはしたが、側に控えてはいた。
「……綺麗な国」
アリシアは、そんな侍女にも気づかれ無いよう口の中で呟いた。
国には各々色がある。
祖国の海は藍で、空はくすんだ青だった。
この国よりも北に位置し、夏も短かったからだろうか。
ここまでに立ち寄った国々も、少しずつ違っていてどれ一つ同じ色は無かったが、この国の色は遠国より嫁いで来たアリシアを慰めてくれているように明るい色だった。
港に近づくにつれ海鳴りのような民の声は収まり、不思議に思い瞳を凝らすが人はひしめき合うように海岸を埋め尽くしている。
先程と違うのは、規則正しく整列し海からの風に色とりどりの旗をはためかせていた。
「皇国軍です。姫様を皇都から迎えに来られたのでしょう」
「随分と歓迎されてますなあ、濃黄、漆黒、白、薄桃……旗色からいって、禁軍と四人の皇子のものでしょう」
クリストファーとジェフリーが説明をしていたが、アリシアの耳には届いていなかった。
正に圧巻の一言に尽きる。西側の甲冑とは色も形も違う物を身に纏った兵士達の数に、彼らの掲げる色とりどりの旗の数に気圧され、アリシアは身震いした。
まだ皇国の入り口に到着したばかりだと言うのに、何もかもが自国とは違う未知の恐怖に。
「大丈夫ですか?」
顔色の悪いアリシアを気遣い声を掛けてきたジェフリーに、頷くだけの返答をし視線を前に戻した。
ここまでくればもう逃げ道は何処にもない。
やるべき事は、幼い頃から言い含められてきた嫁ぎ先で殺されないように立ち振る舞うこと、そしてこの躰と知識で国王の寵を一身に集め、必ず王子を――皇太子を産むこと。
だが、大蜃皇国では皇子は既に四人も居る。そこに異国の、それも異教徒の妃が皇子を産んだとしても、物の数にも入らないだろう。
ならば、天帝を意のままに操れるほどの、他の追随を許さない寵姫にならねばならない。
――それすら出来ない時は、……後宮からこの国に揺さぶりをかけ、出来るだけ国力を削ぎ西側の脅威を大蜃皇国に向けなければ――
悲壮感すら漂う決意を秘めた瞳で、睨むように港を見つめ続ける十四歳の少女の小さな背中を皆が見つめていた。