【陸上自衛隊 ⑴】
二〇三三年 一月 七日 午前九時三十分
東京都渋谷区、スクランブル交差点。
死なない。
死なない。
死なない。
死なない。
死なない。
隊員の命が、またひとつ落ちる。
けれど対するヒトガタは一体も死なない。
「う、わ、あああぁあああぁ!!」
隊員のひとりが絶叫を上げながらM9機関拳銃を乱射する。火花が爆ぜるような音を撒き散らしながら発射された銃弾の雨はヒトガタの全身にくまなく当たり、ヒトガタの表面が飛散して肉片と血飛沫とが視界を彩る。一分で千二百発近くもの弾を連射することのできる陸上自衛隊の所有する火器装備のひとつだ──この緊急事態を前にM9を用いることが決定づけられたのだ。
だがそのM9も、M9を手にする隊員で編成された部隊も──既に意味を成していない。
がちりと弾切れを知らせる手応えを感じて絶叫していた隊員の顔がさあっと蒼褪める。もたつくように弾倉を交換しにかかる隊員の目の前で、肉片と血飛沫を飛び散らせていたヒトガタの体が──再生していく。
「くそっ……なんなんだよこの化物っ!!」
隊員は悪態を吐く。
共に渋谷区へ乗り込んだ仲間たちは既にやられてしまっている。首をねじり切られた同期、胸部を潰された先輩、下半身を失って泣き咽んでいる後輩──そこにあるのは、地獄だけであった。
なんでこうなるんだ、と隊員は絶望的な気分になる。
日本を守りたい。
国民を守りたい。
家族を守りたい。
そんな瑞々しい気持ちで自衛隊に入隊したのはいつのことだったろうか。隊員はこれまで多くの場面で活躍してきた。大震災や豪雨被害などの時には災害救助のために睡眠時間を惜しまず削って活動し続けていたし、常日頃から有事に備えて厳しい訓練を積んできてもいた。その誇りを胸に、隊員は日々を生きてきていた。
けれど今、その誇りは絶叫と絶望とにまみれ、絶命によって失われようとしている。
なんでこうなったんだ、と隊員はまた思う。
日本に突如現れた未確認生命体、それを前に日本中は混沌の極みにある。九州地方の北部に関西地方の北部、そしてここ東京。三ヵ所に突如現れたヒトの形をしている化物、それによる襲撃が始まってどのくらい経つだろうか。
情報は錯綜し、犠牲者は増加する一方でヒトガタは一体も討ち取れていない。
その絶望的な状況の中、また隊員のM9ががちりと弾切れを知らせる。ああ、と隊員の口から諦めの息が漏れる。
最期に想うのは、千葉に住まう家族の姿。
最期に願うのは、家族の無事と幸福だけ。
M9の連射によって崩れに崩れてしまった表皮部をじゅくじゅくと再生させながら隊員に向けて先端を刃のように尖らせた触手を伸ばしたヒトガタに、隊員は目を閉じる。
「死ぬ暇があったら弱点探せ!!」
ばごんっ、と爆薬が爆ぜるような轟音がしたのとその怒声が響いてきたのは、ほぼ同時であった。
それにはっと隊員が目を開けてみればヒトガタの胸部に巨大な風穴が、開いていた。あんなに連射しても表面の肉をこそげ落とすだけで精一杯で、それもすぐ再生してしまうヒトガタの体に──頭を通せるくらいの風穴が、ぽっかりと開いていた。
「え……」
「チッ、これでも死なないか。じゃあ胸部は関係ないな──……」
ざり、と隊員の前にひとりの女性が立つ。
自分よりもずっと体格の小さい女性の登場に隊員は自衛隊としての義務感からか、驚くよりも先に女性に向けて逃げろと口にした。けれどそれを女性は鼻を鳴らして一蹴する。女性の黒真珠のような目が隊員をねめつけてきて、その眼光の鋭さに隊員は思わず息を呑んだ。
「一匹も倒せない弱いやつがわたしに指図するな」
「え……」
「こいつらは死ぬ。死なないんじゃなくて、死ににくいだけで確実に死ぬ。だがその死に繋がるポイントがまだ掴めていない」
そう言いながら女性が指差した先に視線を向けてみれば、驚いたことに──ヒトガタの死体がガードレールに引っ掛かっていた。腕は千切れていて、頭部はひしゃげているし上半身と下半身が分離してしまっている。引き千切られたのか、何本もの触手がアスファルトの道路の上に散らばっていた。
そして何よりも、今隊員が対峙しているヒトガタと違うのは──その傷口が、少しも再生しようとしていないという点であった。つまり──完全に死んでいる。
今現在、隊員と女性の前にいるヒトガタはびくんびくんと痙攣しながら胸部に開けられた風穴を再生していっているところである。それをじっと注視しながら女性は両手を広げて指先を熊手のように折り曲げた。その指先は、赤黒い。
「あっちで死んでいるやつ以外にも二体殺したが、どれもこれも何故死んだのかいまいち掴みきれなかった。おいお前」
「っ、な、んだ」
自分よりも遥かに年下であろう若い女性の乱雑な言い方を、けれど隊員は咎める気にもなれなかった。こんな状況だからというのもあるが──女性に対する畏怖のようなもので逆らう気が微塵も起きないのだ。本能がそうさせるのか、女性を前に隊員の体は自然と萎縮の動きを見せてしまう。
「わたしがアレの弱点を探ってやる。だからお前たちはアレと戦うことよりも守り、避難することを考えろ」
弱いくせに無駄死にしかしない戦い方をするな──そう言って女性は地を強く蹴り、ヒトガタに向かって一直線に駆けていった。
止める気には、なれなかった。
そして止める気になれなかったのが正解だと、直後に思い知った。
アレも化物だ。
鉄筋ビルの壁をいとも容易くぶち抜くことのできるヒトガタの腕を片手で受け止め。
ヒトの頭を豆腐の如く握り潰すことのできるヒトガタの手に握り込まれても潰れず。
ガードレールを紙のように伐り裂く刃の如き触手を髪の毛を抜くように引き千切り。
銃弾の雨を喰らわせても表面を少しこそげ落とすだけであったヒトガタの体を抉り。
女性が地を蹴るたびに地面が割れ震え、女性が腕を振るうたびに空気が震え爆ぜる。
「う、ぁ」
びちゃりと引き千切れたヒトガタの触手が傍に吹き飛ばされてきて隊員は怯えたような悲鳴を出す。
足が、竦む。
目の前で繰り広げられているのは──現実なのか。あるいは夢なのか。
人外と人外の戦いを前に隊員はどう動けばいいのか分からずただただ身を竦ませることしかできなかった。
「工藤!? 何をしている!!」
「ッ……神社さん!」
突然自分の名を呼ばれ、背後を振り返ってみればそこには隊員が入隊当時より世話になっている先輩隊員の姿があった。
神社倭──四十代半ばを過ぎてなお未だに最前線で活躍する精悍な陸上自衛隊隊員である。隊員以上に赤黒く染まってしまった迷彩服に身を纏っていたが怪我はしていないようでその動きに澱みはない。
「動けるのはお前だけか?」
「は……はい」
「ここは戦に任せて一旦退くぞ。生存者を運べ」
「いくさ?」
「ああ、神社戦──あそこで戦っている人外だよ。俺の姪っ子なんだ」
どうやらヒトガタと今現在、血生臭い戦いを繰り広げている女性の名は神社戦と言うらしい。
「とんでもないタイミングの時に旅行に来ちまったアイツにゃ可哀想だが──アイツが東京にいてくれて助かった」
化物に対抗できるのは、化物しかいねぇからな。
倭はそう言うと隊員を急かして生存者の搬送に取り掛からせた。
「戦! そいつらの対処法分かったらすぐ教えてくれ! 俺が全隊に通達する!」
「わかった。やまとくん、こいつらは人間を標的にしているようだから人間しか襲わない。だけど目がほとんど見えていないようだから人間の位置は匂いと声で関知しているようだ」
「匂いもか。分かった」
そこで叔父と姪の会話は終わり、再びヒトガタと戦い始めた戦を横目に倭は息のある生存者を探すべく駆け出した。それを追って隊員ももたつきながら走り出す。
「神社さん──あの女性は一体」
「声を顰めろ。戦も言ってただろ? あの化物は匂いと声に反応する」
「は……はい」
「戦は普通のOLだよ。見た目だけな」
実態はあの通り、人外だ──そう言って倭はくっと口を吊り上げながら倒れ伏している人間たちの首筋に手を当てては目を伏せて次の人間に移っていく。
「体のつくりが普通の人間とは違ってな。だから戦はあんなにも強い」
「──……あんな人間がいるなんて、思いませんでした」
「だろうな。だから戦を知っている奴らは戦のことをこう呼ぶよ」
〝最強〟と。
シンプルながらもとても分かりやすく、単純ながらも的確なその通称に隊員はああ、と納得したように吐息を漏らす。そんな様子を見て倭もニヒルに口を歪ませながら神社戦という人間について想いを馳せる。
最強。まさに戦のための言葉だ。
最強と謳われる世の屈強な格闘家や兵士たちが時折テレビやネットで話題になるが、それを見ても倭は茶番にしか思えなかった。身近に──ごく身内に本物の〝最強〟が存在しているからこそ。
「この化物どもも恐ろしいが──俺は姪っ子の方が恐ろしいよ」
ヒトという枠から外されてしまった存在。
ヒトというカテゴリーに拒絶されたヒト。
ヒトであり、ヒトであらざる存在。人外。
それが神社戦なのだ。