【戦とレドグリフ】
二〇三四年 二月 十日 午後十二時十分(現地時間)
ソシエモ諸島モーレア島、水上ヴィラ。
世界に名立たるリゾート地、タヒチ島の隣島であるモーレア島──そこの水上ヴィラの中でレドグリフ・キリングフィールドは海パン一丁でビーチチェアに寝そべっていた。
全身くまなく、隙なく鍛え上げられた肉体には夥しい傷跡が刻み込まれていて、けれどそれはレドグリフの魅力を底上げするアクセサリーにしかなっていない。そんなレドグリフの視線は海に縫い止められて動かない。波が影となって海底を揺らめかせるほどに透明度の高い海、そこでは白いビキニに身を包んだ神社戦の姿があった。
戦のしなやかで肉付きのいい体を海の透明な雫が伝い、弧を描いて海面に融けていく。一年前の死闘のせいで一度はざんぎり頭となってしまった戦の髪も今や肩口まで伸びていて、戦の幼くも可愛らしい顔立ちにとても似合っている。ちらりちらりと揺れる髪の隙間から見えるうなじがまたいい。肉付きのいい体はとても柔らかそうだが、触れれば少しの弾力の先に鋼のような──いや、鋼鉄そのものの硬い筋肉があることをレドグリフはよく知っている。
──そうやって戦の体を舐め回すように眺めていたレドグリフの不穏な視線に気付いてか、戦がこちらを振り返って首を傾げる。
「どうしたの? れど」
「──なんでもないよ、戦」
ただ見ていたかっただけだ──そう言って微笑むレドグリフに戦も何それ、と笑い返して再び海で泳ぎ始めた。
そしてやはりレドグリフはそれを、舐めるように見つめる。
──そんな平穏で至福なひと時が、武骨な着信音によって邪魔される。
「…………」
レドグリフは自然と眉間に皺が寄るのを感じながら手を伸ばしてスマホを手に取る。画面に映るは、親友の名。
「──私たちの時間を邪魔するとはいい度胸だな? クリスタ」
『悪ぃレドグリフ。だが緊急事態だ──地球外種子〝ネメス〟が培養されていることが分かった』
「…………私は休暇中なのだがね?」
『分かってるって。ホント悪ぃ。でも〝ネメス〟を埋め込まれた犬が群れで出現しているんだ』
「〝ネメス〟の研究はこの一年で随分進んだであろう? 私がいなくとも対処できように」
『それがそうもいかねぇんだよ──犬だけなら確かに俺たちだけで対処できる。だが犬の出所と思しき廃病院に地下研究所らしきものがあってな……確認された限りだと虎と熊がいるらしい』
「…………だがなあ」
はあ、とレドグリフはため息を吐く。
せっかくの休暇──戦をもっと存分に可愛がりたい、という気持ちが強い。どうしたものかと悩んでいるレドグリフの腹部にどすん、と衝撃があってレドグリフは視線を上げる。
海で泳いでいたはずの戦がレドグリフの腹部に馬乗りになり、レドグリフを見下ろしていた。レドグリフの倍以上もある体重を持つ戦ではあるが──その重い体も決して折れぬ骨と強靭な筋肉を持つレドグリフには大したものではない。
戦はいつもと変わらぬ無表情でレドグリフを見下ろしていたが、レドグリフにはその顔がとても楽しそうなものに見えた。圧縮に凝縮を重ねた筋肉ゆえに表情筋があまり動かぬ戦ではあるが、決して無感情なわけではないのだ──むしろ喜怒哀楽がはっきりしてる方だとこの一年でレドグリフはよく感じていた。
「いく」
さ、と続けられるはずだった単語は戦の唇に呑み込まれて消えた。
しばらく戦の舌が遊ぶようにレドグリフの口内を泳ぎ回り、やがて満足したのか身を起こしてレドグリフをまっすぐ見据え──にこりと薄く微笑む。
「しょうがないよ、れど」
──だってみんな、弱すぎる。
ふたりの〝人外〟と、全人類。
このふたつの間に存在するどうしようもないほどに深く──決して埋まることのない圧倒的にして絶対的な溝を指摘して戦は笑う。
決して人類を嘲っているわけではない。
見下してはいるが、嘲ってはいない。
──だって、仕方ないのだ。しょうがないのだ。
戦の言う通り、しょうがないのだ。
「ああ、そうだな」
──世界はあまりにも虚弱すぎるからな。
仕方ない。
そう言ってレドグリフは笑い──戦の後頭部に手を這わして引き寄せ、その唇に咬みついた。
強すぎる。ゆえに、弱すぎる。
強すぎる彼らにとって世界は、弱すぎる。
強きは弱きを理解しなければならない──ゆえに彼らは弱きを決して嘲りはしない。見下しはしても、嘲りはしない。
だって仕方ないのだから。
「──そういうわけだ、クリスタ。何時間後だ?」
戦の口内をたっぷり蹂躙してからレドグリフはスマホに耳を押し当て、含むように笑う。そんなふたりの様子をまざまざと耳元で聞かされ続けていたクリスタは電話口の向こうで遠い目になっていたが──レドグリフにはどうでもいいことである。
『……あと三時間ほどで軍用機がそっちの空港に着くはずだ。そしたら乗り込んでくれ』
「分かった。では、それまではゆっくりするとしよう」
そう言うが早いかレドグリフは通話を切ってスマホを放り投げ、戦と体勢を入れ替えて戦に馬乗りになる。
「お?」
「クリスタの話は聞こえていただろう?」
「うん。三時間後に空港だね」
この一年でレドグリフに仕込まれた戦は英語も話せるようになっていた。多少のあどけなさが残る話し方ではあるが、それも可愛いとレドグリフは思っている。
「三時間、だ」
「…………れど、やらしい顔してる」
「ああ。戦のせいでな」
ふ、と不敵に笑うレドグリフの熱情に浮かされたような目に戦はむう、と照れ臭そうに唇を尖らせる。そんないじらしい仕草にレドグリフはさらに口元を吊り上げ、その身を倒してがぶりと咬みついた。
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「あれ? なんでやまとくんもいるの?」
十数時間飛行機に揺られ、とある国の軍基地へと降り立った戦はそこにいた叔父、倭の姿に首を傾げる。
「前言ったろ? ヒトガタ事件を受けて自衛隊のシステムが見直されたって。それにあたって米軍との連携をこれまで以上に強化することになったんだよ。俺は今クリスタんとこに派遣されてんの」
「ふぅん。大変だね」
戦は他人事のようにそう言うと傍でクリスタと会話しているレドグリフの元へとてとてと歩み寄っていく。
「そういうワケでお前らには先陣切って突入してもらいたい」
「ふむ。よかろう──分かっているとは思うが私たちには近寄るなよ。特に、戦には」
「分かってるって。誰が猛獣に近付くかよ」
クリスタは軽薄な笑い声を上げながらレドグリフの隣にちょこんと立っている戦を見下ろす。
「ようキティちゃん。悪ぃな、レドグリフとラブラブしてる時に呼び寄せてよ」
「別に。弱いやつが下手を打って事態を悪化させるよりはいい」
「きっついね」
さすがは〝最強〟──そう頬を引き攣らせながらクリスタは言い、レドグリフと戦に現場へ向かうことを伝えて歩き出した。
そうして空港ターミナルに降り立ったふたりの〝英雄〟を、割れんばかりの歓声と無数のフラッシュが出迎える。だがこんな光景はこの一年で見慣れたものとなっていたため、レドグリフも戦も気にすることなく無表情で通り過ぎていく。
どんなに〝英雄〟ともてはやされようと、ふたりの在り方は決して変わらない。
ふたりにとって己らは〝英雄〟ではない。とか言って〝最強〟でもなければ〝皇帝〟でもなかった。
「──何故、おふたりはそんなにも強いのですか!?」
ふいにメディア陣の中から投げかけられたその問いかけにレドグリフと戦は足を止め、ゆっくりと振り返る。
その顔に過信の色は一切見られない。
「わたしが強いんじゃない。お前らが弱すぎるだけだ」
「私が強いのではない。世界が虚弱なだけだ」
そう、仕方ない。
彼らは己らの強きを過信してなどいない。
彼らは世界の弱きを理解しているだけだ。
だから──仕方ないのだ。
彼らにとって己らは〝英雄〟ではない。〝最強〟でもなければ〝皇帝〟でもない。彼らにとって己らとは、〝人間〟に過ぎなかった。
ただ弱い世界に生まれてしまっただけの、小さな人間。
だからこそ彼らは弱きを理解する。
弱きを理解し、決して嘲りはしない。見下しはするが嘲りはしない。
そういうものであると、仕方ないと理解している。だからこそ。
だからこそ──彼らは強い。
この弱き世界にとっては強すぎるほどに、強いのだ。
──そんな彼らの姿を見た人類は、想う。
〝英雄〟かくありき!!
第三部 了
これにて完結です。
ここまで読んでくださりありがとうございました!