【一般市民 ⑴】
二〇三三年 一月 七日 午前六時五十分
東京都渋谷区、マンション内。
金曜日の朝。
肌を引っ掻くように撫で上げてくる冷気に身を震わせながらひとりの少年がリビングに降りれば少年の母親がテーブルに朝ごはんを並べているところであった。
「おはよう啓太。さっさと食べなさい」
「へぇーい」
啓太と呼ばれた少年はおざなりに返事しながら席につく。学校に行かなければならない冬の朝というのはどうしてもテンションが下がる。寒い、眠い、辛いの三拍子揃うのだから少年でなくともテンションは下がるというものだ。だが金曜日であるということが少年の気力を少し癒してくれていた。今日さえ乗り切れば土日祝日──その事実だけで幸福度が上がるのだから日本人が働きすぎであると言われるのも合点がつくというものである。
少年はいただきますとも言わずテーブルに並べられた朝食をかき込む。にゃあ、と足元から猫の鳴き声がして、少年は嬉しそうに頬を綻ばせて猫を抱き上げて膝に置く。ごろごろと喉を鳴らす猫──癒しだ。
『──現在死者は五十六人に増大しており、さらに増える見込みです』
味噌汁を啜っているとそんな物騒な声が聞こえてきて少年は視線をテレビに移す。
テレビにはどこかの港を空撮しているらしい映像が映っていて、何やら炎上していた。爆発事故かな、と少年が思った矢先に──テレビ画面に赤黒い紐のような何かが映って、同時にテレビ画面が砂嵐になってしまった。
すぐスタジオに切り替わってアナウンサーたちが焦ったような顔でマイクに向かって応答してくださいと声を掛けている。
──今のは、何だろうか。
「母さん、何起きてんの? これ」
「さあ……何か猛獣が逃げ出したらしいわ。港の作業員が惨殺されたって大騒ぎになっているの」
猛獣?
少年は眉間に皺を寄せながらテレビ画面にじっと見入りつつ、スマホを取り出して友人にSNSでメッセージを送った。
『東京湾に現れた不明生物は最低でも数十体いるとみられていて、猛スピードで市民たちを襲撃しながら各地に散っていっているとのことです。──はい、はい。新たな情報が入りました。港区・中央区・千代田区・文京区・渋谷区・新宿区で不明生物が確認されたそうです。死者も各地で既に出ており──』
──渋谷区? ここじゃん。やっべぇ。
……まあ、ここ高いから大丈夫だろうけどさ。
と、少年がまるで他人事のように考えていると友人からのメッセージが届いてスマホを覗く。そこにあったのはたったの一文だった。
《姉ちゃんが殺された》
ぞわりと、腕が粟立つ。
けれどそれでも少年は、やはり他人事のような心地であった。
テレビにまた視線を向ければ画面の向こうでは相変わらず混乱が続いていて、入ってくる情報をアナウンサーが必死に伝えてきている。その内容は似たり寄ったりで不明生物とやらの居場所と、増えていく死者についてだった。
それが変わったのは七時を少し過ぎたあたりのことで、いきなりテレビ画面が切り替わったかと思えばどこかの町中が映し出された。
そこは、地獄だった。
悲鳴を上げながら逃げ惑う人々。赤黒い刃のような何かに頭を貫かれて絶命する人々。赤黒い紐のような何かに体をねじり切られて絶命する人々。飛び散る血飛沫。撒き散らされる臓物。血に染まっていく、渋谷の──スクランブル交差点。
「な……んだよ、これ」
少年の喉から辛うじて振り絞られたそれはほとんど掠れてしまって声らしい声になっていない。
テレビの中には赤黒いヒトのような、けれど明らかにヒトではない何かが全身から赤黒い刃や紐っぽいのを出して人々を惨殺していっている。
頭はある。腕もある。足もある。二本足で立っている。けれど、ヒトじゃない。
ケロイドのような質感の赤黒い皮膚に覆われているヒトガタがその体と同じくらい長くて太い腕を振り回しながら奇妙な叫び声を上げている。サラリーマンっぽいおじさんの頭がいちごのように、ヒトガタの手の中に握り込まれて潰れる。びくびくと痙攣しながら地面に倒れたおじさんの、首なし死体をヒトガタの太くて大きい足がぐしゃりと踏み潰してお腹が爆ぜて内臓が飛び出た。
その瞬間、ヒトガタの胸からにゅるりと先端が刃のように尖った何か──触手、のような何かが飛び出してこちらに向かって飛んできた。
と、思った時には画面が真っ暗になって何も見えなくなる。
「──……」
またスタジオに戻ったテレビ画面を眺めながら少年はぼんやりと、ぞわぞわ粟立つ全身に気持ち悪さを感じながら──やはり他人事のように今のは何なのかと考えていた。
同じ渋谷区内での出来事だというのに。
毎日のように通っているスクランブル交差点での出来事だというのに。
少年は、それが自分と関係あることだとはとても思えなかった。
──自分とは違う世界の、他人が経験している悲劇だとしか思えなかった。
少年は、どこまでも他人事であった。
「怖いな……」
何が起きているのか全くと言っていいほど理解できない。けれど自分が関わることだとは到底思えなかった少年はやはり他人事のようにそんな感想を漏らす。
そして母親からの相槌がずっとないことに気付いて少年は母さん、とキッチンの方に視線を向けながら呼び掛けた。
母親の頭部が、なかった。
「…………え?」
こちらに視線を向けたまま。
両手をカウンターテーブルに置いたまま。
眉毛から上部分を失った母親が、コップから溢れ落ちる水の如く血を零しながらそこに立っていた。シャッと短い威嚇を上げながら膝の上にいた猫が飛び降りて何処かに逃げていく。
少年は、茫然と母親を凝視する。
溢れ出た血液が母親の顔を赤く染め上げて、こちらをじっと見つめている蝋細工のようなふたつの眼球の中までも血で満たされていく。
そしてそんな母親の背後には、大量の髪の毛が絡まった皮膚片を引っ掻けて蠢いている──つい先程テレビ越しに見かけた、赤黒い触手。
少年は、絶叫した。
そして、絶望した。
けれど、絶命しなかった。
「あ……う……」
がんがんと痛む頭を押さえながら少年は身を起こす。
母親の最期と、赤黒い触手。それを視界に入れて絶叫した瞬間、少年の体が薙ぎ倒されてフローリングの床に転がり落ちていたのだ。しこたま頭を打ったせいで頭は痛いし、乱暴に薙ぎ倒されたせいで全身がしびれるような痛みを覚えている。
けれどそれらの痛みは、すぐ絶望に塗り潰されて忘れてしまった。
母親の、最期が脳裏に色濃く刻み込まれているせいで。
「う……ああ……」
母さん、と少年の口が声もなく母親を呼ぶ。
それに対する母親からの応えはない。代わりに──若い女性の声で、返事があった。
「外には出るな。このままここにいろ。アレはわたしが引き受ける」
年若い女性の、けれど女性にしては乱雑な口調で端的にそう言われて少年ははっと顔を上げる。
そこには、ひとりの女性がいた。
二十代前半だろうか。夜を煮詰めたような黒く艶やかな髪を腰まで伸ばしていて、毛先は日本人形のようにまっすぐ切り揃えられている。身長も体格も日本の成人女性の平均を模ったように凡庸で、造形もそう目立ったものではない。至って普通の──どこにでもいる一般人女性であった。
ベージュ色のコートと白いマフラーは赤黒い染みで所々汚れていて、袖から覗いている女性の指先も同様に赤黒く色付いていた。コートから伸びている黒いタイツに包まれた脚の靴先がこつこつと不機嫌そうにフローリングの床を叩いていて、その度に革靴に付着していたのであろう赤黒い液体が飛び散っている。
「なんなんだアレは──潰しても潰しても再生する」
女性は心底腹立たしいとでも言いたげに舌打ちして両腕を広げ、指先を熊手のように折り曲げた。そこでようやく少年の視線が女性からキッチンに──母親の元に、戻る。
母親はいつのまにか床に倒れ伏していた。あの蝋細工のような虚ろな目はもう、少年を見つめていない。
代わりに──テレビでも見たあのヒトガタが、キッチンに立っていた。
「ひ、っ」
「声を出すな。アレは声に反応する」
そう言葉にした女性の声に反応して、ヒトガタの腕がぐいんっと独楽のように回転して女性に叩きつけられる。
──いや、叩きつけられはしなかった。その腕を、女性は片手で受け止めていた。女性の小さな手がヒトガタの腕をがっちりと掴んでいて、ヒトガタがびくんびくんと跳ねているというのに女性に掴まれた腕はぴくりとも動かない。よく見れば女性の指先がずぶずぶとヒトガタの腕に食い込んでいて、そこから血がぼたりぼたりと零れ落ちている。
赤黒い──ヒトと変わらぬ、血が。
「このままわたしはこいつと外に出る。お前はここから出るな」
ひゅん、とヒトガタのもう一方の腕が女性に振り下ろされる。けれどそれも女性はもう片方の手で受け止めた。
「他の家族なり友達なりに伝えておけ。声を出すな、叫ぶな、隠れてろと」
コイツへの対処法がまだ分からない今、見つからないようにすることが最優先だ──そう言って女性は床が陥没するほどの勢いで踏み込んで、ヒトガタの腕を掴んだままヒトガタの体に突進して──そのまま、キッチンの向こう側へ消えていった。
おそらくはヒトガタが開けたのであろう、キッチンの壁に開いた風穴から覗く青空を眺めて──少年はただただ、茫然としていた。
もう他人事では、なかった。