【一般市民 ⑸】
二〇三三年 一月 十二日 午前七時五分(中国時間)
甘粛省敦煌市、敦煌駅付近。
ウルムチ市よりも東部に位置する、かつてシルクロードの拠点のひとつとしても栄えていたオアシス都市──その名残。
そこで避難計画からあぶれてしまった貧民たちが身を寄せ合うように敦煌駅に集っていた。特殊個体デウスが現れてから中国全体ではデウスの移動に合わせて軍主導の避難計画が敷かれ、随時指示が下されては市民たちの避難が行われていた。
しかしその避難計画において優遇されるのは都市部に住んでいる中流層から上の階級の者たちばかりで、農村部に住んでいる農民やスラム街に住んでいる貧民たちはほとんどが無視されていた。時間がなさすぎたというのも理由のひとつにあるだろうが、大部分は〝死んでも問題ない〟からだろう──そう、スラムで生まれ育った少年は思っていた。
「……おれたち、死ぬのかな」
気付けば、少年の口が勝手にそう口走っていた。
その言葉に返事したのは少年に寄り添うようにして蹲るように座っていた少年とそう変わらないくらいの、十代後半と思しき少女であった。
「死ぬならひと思いにすっきり死にたいよね」
ふたりの耳には、崩壊を奏でる音が絶え間なく響いている。
──中国に突如出現したヒトガタの特殊個体、デウス。それが暴走の末に敦煌市郊外の砂漠地帯に現れたのは日が昇りきらぬ早朝のことであった。
突然の轟音にスラム街に住んでいた者たちが悲鳴を上げ、逃げ惑うように敦煌市の中心部に向かった──だがそこには、誰もいなかった。
──いつの間にかみな、避難し終えていたのだ。
スラム街が見捨てられたのだと気付くのにそう時間はかからなかった。
そして、後に残ったのは絶望だけ。
所詮──世の中などこういうものなのである。生まれが平等でないのは当然であるし、どんな道を歩んでいくかも全く公平ではない。全ては不平等であり、不公平であり、不条理なのだ。
たったひとつだけ──公平なものであると信じていた、全ての人間に訪れる〝死〟──それさえも不平等でしかない。〝死〟のタイミングさえ、選べる人間と選べない人間がいるのだということを今この瞬間、少年は痛感している。
「逃げたって、無駄なんだ」
線路を通って逃げようとする貧民たちを眺めながら少年は鬱屈とした、絶望に満ちた眼差しでそう呟く。
どうせ逃げたって誰も助けてはくれない。
人権さえあるのかどうか怪しい、犯罪を頼りに生計を立てている貧民をどこの誰が助けようとしてくれるというのか。金持ちしか助からないこの世の中で。
「あ……見て、シャオ」
ふいに少女がそう言いながら遠くを指差して、少年はのろのろと顔を上げる。
敦煌市内の人の消えた建造物群──その向こうに、つるりとした質感の赤黒くおぞましい鱗に覆われた、人間どころか大型トラックよりも太いであろう触手が何十本もうねっていた。
まだ距離は遠いようだが何かが破壊され圧潰され、削られこそげ落とされ──完膚なきまでに蹂躙され尽くす音は鼓膜をもうずっと引っ掻き続けている。もう数十分もしないうちにあの触手の本体がこの敦煌市市内を蹂躙し始めるだろう。
はあ、と少年がまたため息を零す──その時であった。
「──何をしている?」
スラムで聞き慣れている崩れ北京語とは違う、流暢でいかにも〝お堅い〟上流階級の言葉遣いに少年はビクッと体を震わせて視線を声のした方に向けた。
そこには──ふたりの人間が、いた。
中国軍とは違う軍服に身を纏った厳かな面持ちのアジア人ではない男と、アジア人と思しき普通そうな女。
それを見て隣の少女がぽつりと、〝英雄〟と口走る。それを聞いて少年もはっとつい数日前に都市部へ盗品を売り払いに行った時にテレビで目にしたニュースを思い出す。
化物と戦う〝英雄〟──レドグリフ・キリングフィールドと神社戦。
確かにテレビで目にしたふたりと目の前にいるこのふたりは、合致する。
「今すぐここから避難しなさい。西郊外に行けばまだ国連軍がいるはずだ」
「え……あ、えっと」
「じきここ敦煌市を中心に半径百キロ区域は封鎖される。さっさと行きなさい」
「ひっ……」
目の前にいる男の──〝皇帝〟レドグリフ・キリングフィールドの放つ得体の知れぬ威圧感に少年は怯えたように息を呑む。犯罪を生きる糧に、暴力と裏切りと嘲りとが渦巻く裏社会でなんとか逃げ延び、生き延び続けてきた少年に逃げることを許さないほど、レドグリフの持つ王者としての風格は絶対的であった。逃げようなどと思うことさえ、できないのだ。その場に崩れ落ちて跪かなければならない──そう、本能が叫ぶのだ。
そんな少年の恐慌状態を和らげたのはレドグリフの隣にいる、戦であった。
「んーと、给、ほいこーろーなんとか」
なんだかおぼつかない発音であげると言いながら戦は少年と少女のふたりにそれぞれ、キャベツの肉巻きのような料理をを手渡した。それに付け加えるようにレドグリフが回鍋肉巻きだと正確に発音してくる。
厚紙の包みの中にはほわほわと温かで香ばしい匂いを漂わせる回鍋肉を包んだ新鮮なキャベツがある。少年と少女は顔を見合わせて、そしてまた戦に視線を向ける。戦は最後に残ったらしいひとつの回鍋肉巻きを無表情で頬張っていて、こんな状況だというのになんだか笑えてしまって、少年は胸が締め付けられるような想いになる。
「行くぞ、戦」
「ん」
用は済んだとばかりに少年たちに背を向けて歩き出したレドグリフに戦は頷き、ぱくりと回鍋肉巻きをひと呑みにして残ったゴミを丸め、きょろきょろとあたりを見回し──唇を尖らせてそれをポケットの中に入れた。
そして戦の空気が、豹変する。
「っ」
今度は、少年は身を竦ませることなく反射的にその場から飛び退いた。少女も同じように警戒の色を顔に宿して戦を凝視している。
──レドグリフのような〝王〟には逃げることは致命的になり得る。だからこそ跪くことしかできない。
けれど戦は、跪くことこそが致命的になり得る。逃げなければ生き延びられない。だって戦は、〝獣〟そのものなのだから。
王に道理はある。けれど獣にはない。
喰らうか、喰らわれるか。生きるか、死ぬか。
その瀬戸際で生きる〝獣〟──それが、戦なのだと少年と少女は裏社会で培ってきた生存本能で瞬時に理解したのだ。
そしてふたりは、心の底から納得する。
目の前にいるこのふたりが〝英雄〟と呼ばれるゆえんを。
王と、獣。
絶対の王と、絶大の獣。
絶対の力ゆえに逆えない王と、絶大な力ゆえに抗えない獣。
〝皇帝〟レドグリフ・キリングフィールドと〝最強〟神社戦!
「それを理解できるということは、お前たちはまだ生き残れるということだ。早くここから逃げるように」
警戒心を露わにしている少年と少女に対し、振り返ることもなくレドグリフは静かにそう言って戦を引き連れ、そこから立ち去って行った。
──特殊個体デウスの、いる方向へと。
「…………」
「…………逃げよう、ファイ」
「…………うん」
建造物群の中に消え、見えなくなったふたりの姿を視線で後追いしながらも少年と少女は頷き合って遠巻きにこちらを傍観していた仲間たちに声をかけて西郊外へ逃げることにした。
鼓膜を引っ掻く蹂躙の音から遠ざかるように敦煌市内を西に西にひたすら駆けること、十数分。一台の軍用機が道路の片隅に停車しており、その傍らで中国軍ではないが、軍服を着ている男たちがいることに気付いた少年は駆ける足を止める。
そして軍人たちもまた少年たち貧民の姿に気付き、怪訝そうな面持ちになった。
「何故避難していない?」
「──あぶれたんだろうさ」
欧米人と思しき軍人の言葉に、隣のアジア人だが中国軍ではない軍人が答える。
「多いな。少し待て、バスが放置されていた──持ってくる。郊外に行けば国連軍が待機しているから避難手続きを取って指示に従うようにな」
「は……はい」
その時、空気が痺れるほどの轟音とともに大地が震え、少年は少女を巻き込んで地面に転がってしまった。
「ご、ごめんファイ」
「大丈夫。一体何が──」
「始まったのさ」
軍人の静かな言葉と静かな視線に、少年は引き寄せられるように背後を振り返る。
敦煌市東部の空を覆い尽くすように触手が蠢いており、その中央部で赤黒く巨大な花が悠然と咲き誇っていた。
天を埋め尽くしていた触手が一気に振り下ろされ、轟音とともに地面が震え、突風が吹く。かと思えばまた触手を振り上げて──振り下ろす。まるで地団太のように繰り返されるそれに少年たちは立っていられず、四つん這いになる。
だがそんな中でも、ふたりの軍人は相変わらずの凪いだ静かな面持ちで倒れることなく直立不動で──敦煌市東部を見つめていた。
「──始まっちまったな、最期の戦いが」
そして振り絞られるように紡がれたその声は、何故だか震えていた。