【一般市民 ⑵】
二〇三三年 一月 七日 午後二十一時十五分
東京都文京区、小学校体育館内。
『──よって日本国内において未確認生命体による襲撃は終息した見込みであります』
その言葉に、体育館の中に集っていた人々の口から安堵の息が零れ落ちる。
「……やっと終わったの?」
「そうみたいよ。本当、もう駄目かと思ったわ……」
そう言って涙ぐむ中年女性にセーラー服を着た少女はぼんやりとしたように頷く。終わったと言われてもその実感が、少女には持てなかった。
地獄が始まったのは今朝のことである。いつも通りに起きていつも通りに朝食を済ませていつも通りに中学校に登校して──そこで地獄が、始まった。
最初に少女が見た地獄は、半分に裂かれたクラスメイトの姿であった。裂けるチーズのように縦に裂かれたクラスメイトが笑顔のまま傾いていくのを、生暖かくぬるついた血飛沫を浴びながら少女は見守っていた。
ぎゅ、と少女の拳がきつく握り締められる。指先が白くなるほどに握り込まれた手に中年女性が気付き、少女の肩をそっと抱き寄せた。
「お母さんたちならきっと大丈夫よ。そのうちひょっこり出てくるわ」
「…………うん」
そのうちひょっこり出てくる。
とてもそうとは、思えなかった。けれど──目の前で夫を殺されるという地獄を味わったにも関わらずこうして少女を励ましてくれている女性の気遣いを無下にはできなくて、少女は無理に微笑んだ。
中学校で地獄に巻き込まれた後、少女は自衛隊の助けを得て僅か十数人ほどしか生き残らなかった中学校の生徒たちと共に避難した。それから家族と連絡を取ろうと何度もスマホを操作しては試みたが、今に至るまで連絡は取れていない。
お父さんとも、お母さんとも、お兄ちゃんとも、お姉ちゃんとも。
「…………」
体育館に設置されているラジカセから響いてくる人探しのメッセージの中に自分の家族がいないか耳を澄ませる。色んな場所から色んな人が、自分の大切な人の安否を伺うメッセージは聞いていてとても心が締め付けられると思いながらも、少女は縋るような思いで目を伏せて必死に耳を澄ませた。
「すみません! ここに安藤みちるはいませんか!?」
──その時だった。
体育館の出入り口のひとつから、もう何十年も耳にしていなかったかのように思えるほど懐かしく──死ぬほど聞きたくて仕方なかった愛しい、声がしたのは。
少女は弾かれるように振り返り、そしてその両眼に大粒の涙を浮かべた。
「──おかあさんっ!!」
心の叫ぶままに。
体の赴くままに。
魂の喚くままに。
涙を零しながら。
母を呼びながら。
両手を伸ばして。
──そうして母親の胸の中に飛び込んでいった少女を見届けて、少女の隣にいた女性は安堵の涙を零す。
そしてそんな母娘の隣にもうひとり、中高生と思しき少年の姿があることに気付いて女性ははっと立ち上がる。
「透!!」
「母さん! よかった、無事だったんだね!!」
少年の元へ駆け寄ってきた女性に少年は安心したように大きく息を吐く。けれど女性の方は少年が血まみれであることに顔を蒼褪めさせながら縋りつくように抱き着いた。
「大丈夫!? 怪我を……!!」
「怪我はしてないよ。この血は──」
神社戦さんの、血なんだ。
そう言ってきゅっと唇を引き締める少年に女性はかみやしろいくさ、とその名を繰り返す。聞き覚えのある名──どころではない。つい先ほどまでしつこいほどにラジオで繰り返されていた名前であった。
一般人でありながら自衛隊に混じってヒトガタと戦い、多くのヒトガタを倒して多くの命を救い、果てには自衛隊でも対処できなかった巨大なヒトガタを倒してみせたという──〝最強〟の人間。
「昼ごろにさ、避難しようと逃げてたんだけど……そこにあの化物がやってきて、もうだめだって思った時に神社戦さんが助けてくれたんだ」
「そうなんです。私もその女性に助けて頂いて……おかげさまでまたみちると会えました。──透くんも、お母さんと会えてよかったわね」
「はい。ここまで一緒についてきてくださりありがとうございました」
どうやら少年が家族を探したいと避難所を巡っていたのを少女の母親が付き添っていてくれたらしい。自分も家族を探したいからと、少年と共に自転車で各地を回っていたと言う少女の母親に女性は頭を下げて礼を言った。
「母さん──父さんたちの無事はわかる?」
ふいに少年がそんなことを問いかけてきて女性の表情が曇る。きゅっと唇を引き締めて瞼の裏に甦ったのであろう最期の一瞬を思い浮かべて女性は微かに肩を震わせた。そんな様子に何かを察してか、少女の母親がそっと横から声をかけてきた。
「透くん、今日はもう遅いしすごく疲れてしまったでしょう? 気になることはいっぱいあるけれど……とりあえず休みましょう。ね?」
少女の母親の言葉に少年はこくりと頷き、ひとまず今晩はこの体育館で休むことにして先ほどまで少女たちがいたスペースへと戻り、四人で身を寄せ合うようにして腰を下ろした。
「……かみやしろいくさ。SNSでも話題になっていたよ。見た目は普通の女の人なのにすごく強いって」
自衛隊に支給されたおにぎりを頬張りながら少女が唐突にそんなことを言い出して、少年は口内のおにぎりを呑みこみながら頷いた。
「うん。とんでもなく強かった。……ちょっと、怖い人だったけどね」
自分以外の全てが弱いことに失望し、憤っているようなひとだった──そう言って少年は苦笑する。
「俺、腰が抜けちゃったんだ。目の前で人がいっぱい死んで……〝死体〟ってのがあんなんだって思わなくてさ……」
「……うん」
少年が言わんとしていること。
それは少女にも理解できることであったのか、少女は目を伏せてぎゅっと隣の母親の腕に抱き着いた。
「多分、悲鳴を上げていたんだと思う。覚えていないけど……気付いたら神社戦さんが俺の口……ってか顔を掴んで、〝黙れ〟って……」
何で弱いやつらは揃いも揃って叫びたがるんだ。
そう吐き捨てるように言って、神社戦はヒトガタと戦いに行ったらしい。ラジオで聞いた時には英雄のように思えたが、実際には相当に苛烈な性質の持ち主であるらしいことに女性は目を丸くする。
「そういえばアメリカでもデカい化物が倒されたみたいだ。さっき、自衛隊の人が言っていた」
「あ、SNSに流れてたよそれ。レドグリフ・キリングフィールドっていう米軍さんがひとりで倒したって」
「……ひとり? え? 神社戦さんみたいに強い人ってこと?」
驚く少年に少女はスマホを操作してほら、と見せる。そこにはレドグリフ・キリングフィールドがひとりで巨大なヒトガタと死闘を繰り広げている動画があった。
「マジかよ……世界って広いな。神社戦さん以外にもこんな人いるなんて……」
「でも、フランスにはいないみたいだよ。だからかみやしろいくさはフランスに向かったって」
「え? フランス……えっ? デカい化物を倒したばかりだろ?」
「うん。ものすごく傷だらけで、いつ死んでもおかしくない状態だってゆってた。でもフランスに向かうって言って、自衛隊の付き添いといっしょにいくって……。あと、レドグリフ・キリングフィールドもフランスに向かうみたいだよ?」
少女がもたらしてくれた情報に少年と少女の母親は顔を見合わせる。
「そんな、ずっと戦ってばかりじゃないの」
「…………」
自分を助けてくれた人間が傷らだけになってもなお、手を休めることなく次なる戦いへと臨んでいったことに心を痛める少女の母親とは対照的に少年は神妙な面持ちで黙り込んでいる。
透、と女性が声を掛ければ少年は顔を上げて神社戦がフランスへ向かったことについて当然だと口にした。
「だってあの人は戦うために戦っていた」
守るために戦うのではない。
生きるために戦うのでもない。
神社戦は、戦うために戦っていた。
第一部 了