誠の思い
大福家が禁忌を犯した。弥勒家はそう主張した。
誠は、西日を嫌って障子を閉めた。氷砂糖を一つ口に含んだ。
ーーーユウが知っていたのか
誠はすぐにその推測をかき消した。知っているはずがない、偶然だろう、と。しかし、実際にことは起きてしまった。どう言い訳しようとも、弥勒家は納得しないだろうことは分かっていたし、弥勒家に分がある、と理解していた。今日にも弥勒家はこちらの答えを待っていた。どちらかが、と。
誠は、焦っていた。そして、150年近く生きて、どれだけ自分に成長がなかったかを自覚した。老いのない人生とは、永遠の命とは、こんなものか。無駄に長い時間を生きた。何かを達観したような気になっていただけなのだな、と。
ーーー婆さんと会って以来の感覚だな
誠は、部屋の片隅にある古びた金庫を開け、書物に挟まっている封筒を取り出した。ぼろぼろになった封筒の中には、一枚の写真が入っていた。その色あせた写真を見るのは、久しぶりだった。いつからか、回顧することを避けるようになっていた。虚しさだけが最後に残るからだった。
いつまでも甘く、溶けない氷砂糖を口の中で転がす。いつまでも、変わらない味。
誠は、写真に映る顔一つ一つに優しく触れると、目を瞑った。すると、モノクロの写真に、はっきりと色が戻っていく。ありありと思い出される記憶。
ーーー出会えてよかった。ありがとう
彼らとの、長い一日が、長い一ヶ月が、長い一年が、長い10年が、そこにあった。終わってみてようやく気づく。その儚さに。その尊さに。
いつのまにか、氷砂糖は溶けてなくなっていた。その甘い余韻を残して。
誠は目を開くと、最後の悦からようやく抜け出した。障子を開けると、夕日が優しく降り注いだ。自己の処理は終わった。終わってみれば、虚しさなど微塵もなく、むしろ清々しささえあった。しかし、次の瞬間には、重いものがのしかかった。まだまだ生きるものたちがいる。そして彼らに、大きな問題を残すことになる。禁忌のもとでもあり、両の牙を持つもの、大福家弥勒家それぞれその主のみが知らされる情報。誠はそれを明確に引き継がなければならなかった。しかし、弥勒家での先日の惨状、ユウは怒りのままに現れるだろう。誠がその場を繕うための言い訳をすれば、後々ユウにとってよくないことになるだろう。
誠は、緊張していた。
ーーー年甲斐もなく、いや、俺に年齢は関係ない。10代の頃から、永遠の命を自覚した頃から、なんら成長していないのだから
開き直れればいいのだが、と自嘲気味に笑った。
玄関の引き戸の開く音がした。
ーーーちゃんと、話せるだろうか
鼓動が高鳴る。開き直りなどできなかった。150年の人生よ、こんなにも俺はちっぽけな存在だったか。伝えなければならないことがある。伝えたいことがある。
ーーー人間とは、こうも大変なものなのか。
襖が開いた。
自分から、口を開かなければ。話したいことは一杯ある。
誠は、人生で最も長い一日を迎えようとしていた。しかし、時間は、なかった。
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村から山の反対側に周り、渓谷を超え、傾斜のきつい崖をのぼり、約一日かけてユウはオタタイ山に戻った。彼の足取りは重く、表情は暗い。しかし、どうしても確かめなければいけないことがあった。
西日に照らされた、見慣れた板張りの家がそこにあった。
「ユウ様!」
俊一が、ユウのもとに駆けつけた。
「俊さん」
とユウは冷静を装った。
しかし、俊一は、ユウから何かを感じ取った。それは白々しい空気を二人の間につくった。俊一は、それ以上声をかけることができなかった。家へと向かうユウの背中は、昨日よりも大きく、しかし俊一にとっては遠いものになっていた。
ユウは、静かに引き戸を開け、家へと入った。短い廊下の先に、襖があった。大きく深呼吸すると、意を決して襖を開けた。
いつになく真剣な面持ちの誠がそこにいた。本も読まずに、ユウの方をじっと見ている。
信じたくない。俊さんが、おじいちゃんが、絹さんが、お母さんが、あんなことをしていたなんて。確かめなくてはいけない。その一心で、ユウはオタタイ山を登って来たのである。
誠の口元が微かに動いた。それを見て、ユウの中にあった、機先を制したい、という気持ちが、彼の口を勝手に動かした。
「おじいちゃん」
「ど、どうした、ユウ」
誠にいつもの余裕がなかった。ユウは、勢いのままに、訊ねる。
「おじいちゃんも、人間の血を、吸ったの?」
風が窓を叩く。
時計の針が動いている。
心臓が、鼓動する音。
ごくりと、唾を飲み込む音。
「吸っていた」
と誠は、静かに、ユウと目をそらさずに、言った。
ユウは、視界がぐにゃりと歪む感覚に陥った。なんとか立ち上がると、襖を開けた。
「ユウ、待て」
誠がユウのほうに手を伸ばし、続ける。
「ユウ、まて、まて、伝えなければ、伝えたいことが」
誠の制止を振り切り、ユウは襖をぴしゃりと閉めた。
「ユウ」
襖越しに、誠の声が聞こえた。
「ありがとう」
誠の声は、微かに震えていた。
いつもと様子が違うとは思いながらも、ユウの足は止まらなかった。
玄関に、絹が、俊一がいた。何かことばを発していたが、ユウにはなにも入ってこなかった。
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