怒り
そのとき、扉が強く開かれると、庭師の男と桔梗が現れた。唖然とする二人を
「この部屋は、なんなの?」
とユウはにらんだ。
「ユウ様、それは、、」
と桔梗はことばを詰まらせた。
庭師の首にかけられたタオルが、ユウの目に入った。
「あなたのその赤いのは、誰の血なの?」
とユウは庭師に冷たく訊ねた。
「これは」
と庭師の男が口を開いた。上歯の一本が尖っている。その一本の先に、赤黒いなにかがこびりついたように固まっていた。
「その歯についているのはなんだ」
ユウは、かすれた声ですごんだ。瞬間、桔梗が小屋から出ようと走り出す。ユウは、こみ上がる怒りに身を任せ、桔梗を抑え込んだ。自分の知らない、とてつもない力がみなぎっていた。扉を力任せに閉めると、桔梗に訊ねる。
「言え、知ってること全部」
「ゆ、ユウ様。私たちは、人間であって人間ではないのです。あなたもいずれは通る道」
「あの子に何をした。この小屋で。それを言え」
とユウは、桔梗の首を掴み、力任せに彼女の顔を地面に打ち付けた。
「う、わあああああ」
と庭師が、腰に差していた鎌を抜き、ユウに振り下ろした。
ユウの背中に、鎌が刺さる。
「やめろ、庭師!」
と桔梗が叫んだ。
が、庭師はユウの背中から鎌を抜くと、震える手で、再び振り下ろした。今度は、ユウの右腕に、鎌が刺さった。ユウは、むくりと立ち上がると、庭師の腕を掴んだ。
うなり声をあげながら、庭師は手から鎌をこぼした。
「お前がしゃべれ。何をした。何をしていた、ここで」
とユウは鎌を庭師に向けた。
「お、俺は、違う、なにも」
「嘘をつくな。言わないと殺す」
「レ、レイ様が」
「庭師、言うな!」
桔梗が叫ぶ。ユウは、桔梗の顔のそばに鎌を投げた。桔梗が悪い血相をさらに悪くし、黙る。
「レ、レイ様が、花畑のとこで女を二人見つけたって。それで、一人は逃げて、もう一人があいつで。それで捕まえて、ここに」
「ここで、何をした」
「血、血だ。あ、あんたも欲しくなるだろ?俺らは夜鬼ではねえ。でも、人間ともちがうんだ。沸き上がっちまうんだよ、血が欲しいって」
「血が欲しくて、なぜあんなにも傷つける必要がある」
「し、知らねえよ。それはレイ様が」
「庭師、お前」
とことばを発しようとした桔梗をユウは睨んだ。桔梗は、諦めたかのように地面に顔を伏せた。
「続けろ」
「レ、レイ様だ。この女は害になるとかいって、色々傷つけてたんだ。いつもはそんなことしねえんだけども」
「いつも?」
「え、ああ、いつも連れてくる人間は、血を飲んで死んだら埋めるだけで、あんなに傷つけたりは」
「お前らは、何人もの人間を」
「お、俺らだけなわけがねえ。牙もってるもんなら、この欲を消すのは無理なはずだ。おまえらんとこのやつらも、隠れて絶対にやってる」
「嘘だ!」
ユウは、庭師の腕を思いっきり掴んだ。庭師の悲鳴には気にも止めずに、桔梗の方を見た。
桔梗は、横たわった少女に鎌を向ける。
「何をしている」
「もう、これ以上はいけません。いずれはわかることだったのです。先ほどもいいました。私も、あなたも、あなたのおじいさまも、レイ様も奥様も、人間であって、しかし人間ではないのです。ユウ様、私たちは、私たちだけで、この山でしか生きられないのです。この少女は諦めてください、それだけで、全ては丸く収まるのです」
桔梗が鎌を振り上げる。
「やめろろおおおおおお」
とユウは凄まじい早さでタックルすると、桔梗に馬乗りになり、彼女の口を掴んだ。
悲鳴を上げながら、庭師が小屋から逃げていく。
ユウの背中から、腕から、手首から、おびただしい血が流れている。口元からも、血が垂れていた。ユウの血で、桔梗の顔が赤く染まる。頬が、鼻が、少し開いた口元が。ユウの血が、桔梗の口の中に入っていく。しかし、桔梗は全く拭き取る気配も、口を動かすこともしなかった。息はしているが、すでに気を失っていた。
「や、、、め、て」
ユウは、声の主の方を振り返った。
少女が、かろうじて立っていた。
ユウは立ち上がり、
「大丈夫、すぐ帰してあげるから」
と少女に近づいていく。
少女は、おびえるように尻餅をついた。そしてそのまま、気を失った。
ユウは、自分を見た。今の状況を、自分という存在を、見た。少女は、自分におびえたのだ。自分もまた、彼らと同じように、いや、彼ら以上に、少女にとっては化物なのだ。ユウにもう涙はなかった。頬を引きつらせながら、苦笑いするのみであった。
裸の少女を抱きかかえると、ユウは小屋を出た。勢いのままに塀を乗り越えると、無我夢中で走った。後ろで俊一の声がしたかもしれない。いや、しなかったかもしれない。それほど曖昧な意識のなか、走った。
『枝垂柳』
古びた板付けを見て、ユウはようやく息をついた。体はすっかりもとに戻っている。
ノックもせずに入ると、相変わらず大鍋をかき混ぜていたミケ婆が、手を止め目を丸くした。
「なんじゃ、なんぞじゃユウ坊!?」
ユウは、あらましを口早に説明した。
「ともかく、これを着せい」
とミケ婆は衣服を投げた。少女には少し大きいぐらいのサイズだった。ユウは、この状況下にあって、驚いた。
「ミケ婆、こんな服もってるんだね」
「まあ、趣味みたいなもんじゃ」
よくわからない趣味だな、とミケ婆の人生も気になったが、ユウは再び現実に戻った。手早く衣服を着せ、ありありと少女を見た。顔の腫れや痣も、噛み痕もすっかり治まっていた。
ーーー奇麗になったんだな
と胸が苦しくなった。ユウの頬に、涙が伝う。ポケットから小瓶を取り出す。
「この子は、、、おい、ユウ坊、その水は」
「この数日の記憶を消してあげないと」
「ええのか?もしかしたらお前さんとこの子は」
「なに?ミケ婆」
「いや、なんでもないわい。この子の記憶を消すんかいの」
「そう。これから彼女が生きていくには、この記憶は重すぎる」
「お前さんのことまで忘れてしまうんじゃ」
「僕のことも、忘れてほしいんだ」
と小瓶の栓を開けた。
「数日なら、半分ぐらいで充分じゃ。混ざりもんじゃからはっきりとは言えんが」
ミケ婆のことばに、ユウは小さく頷くと、少女に忘却水を飲ませた。
「あの花畑の洞穴は」
「知っとるのか、あの道を。狭いが、通れんこともないじゃろう。そこを抜ければ村だ。ほれ、ロープで縛った方が抜けやすいじゃろう。あと、山の西側からこっちへ戻ってくる地図じゃ。もう山を下りることはないかもしれん。そっちからのんびり帰ってくるか」
「いいの?」
「まあ、お主が決めるんじゃ」
とミケ婆は、もう用は済んだと言わんばかりに、大鍋を混ぜはじめた。
「ありがとう」とユウは『枝垂柳』を出た。
赤い花畑が夕日に落ちている。一瞥することもなく、ユウは足早に洞穴へと向かう。
少女を背中に縛り付け、四つん這いで、時にうつ伏せになりながら、慎重に進む。真っ暗で狭いこの場所が、岩肌からときおりぽたりと落ちる雫が、何も考えずに進むことが、ユウにとっては心地よかった。
光がうっすらと見えた。さすがのユウも、へとへとだった。
雑草が揺れていた。古い神社の後ろ姿がそこにあった。神社の表にまわると、夕日が眩しかった。
ーーーどうしよう
とりあえずここまできたものの、ユウはこの少女の名前しかしらない。もっといえば、山を下りたのが初めてのことであった。途方に暮れていると、自転車の甲高いブレーキ音とともに、声がした。
「葵、ここか!?」
「う、うん、たくちゃん」
男と女の声である。まだ共に大人ではないことがユウにはわかった。さっと神社の影に隠れ、様子を伺った。
女の子が、先導して鳥居をくぐってくる。その後ろには、ユウと同じ背丈ぐらいの少年が続いた。
「お姉ちゃん、うちを追って助けてくれた。この神社の後ろに、洞穴があって」
と女の子が言った。
ユウは、ほっと胸を撫で下ろすと同時に、次の行動へと移っていた。背負っていた少女を丁寧に地面に置くと、神社の柱を足場に、その屋根へと跳んだ。
「なんや、なんか音せんかったか?」
と少年が近づいてくる。
「柊花!」
「お姉ちゃん!」
と二人が、少女のもとへと駆けつける。
「葵、待っとれ。大人呼んでくる」
と少年は走りだした。
大人たちが現れ、柊花が運ばれていく。その一部始終を、ユウは屋根の上から聞いていた。神社が静かになったとき、夕日は微かに照らすのみになっていた。もういいだろうと屋根から降りようとしたとき、再び声が聞こえた。
「葵、この奥か?」
「うん、あ、あそこの雑草に隠れてる穴。あそこから抜けてったん」
少年は、洞穴を凝視している。
「どうすんの、たくちゃん」
「どうもせえへんけど。爺婆にちょっと聞いてみるか。とにかく、お前はもう行ったらあかん」
「うん」
と二人は神社を去っていった。
ユウは、屋根から下りると、適当な岩を探した。がなかなか見つからない。神社の端の影に、ちょうどいい地蔵があった。それで穴を塞いだ。これでもう誰も山にはこれないし、そして、もうこの村に下りることはないだろう、と夜の村を眺めながら、ミケ婆からもらった地図を頼りに、山の逆側へと向かった。頬を涙が伝っていた。