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焦日  作者: joblessman
6/9

弥勒家の小屋

「あ、ありがとう。レイ、ごめん、ちょっとお手洗いにいきたくて」


「ああ、そうだったの。気づかなくてごめんね。一緒に」


「い、いいよ来なくても」


「そうね、ユウももう大人になるもんね」


 とレイは笑った。


 ユウは、せこせこと部屋を出た。


 長い廊下の途中に、テラスがあった。裏庭が広がっており、初老の男が庭木の手入れをしている。男は、ユウを一瞥すると、作業に戻った。ユウは、この男の名前を知らなかった。弥勒家のものでさえ、彼のことを「庭師」と呼ぶのだ。ユウは、昔からこの庭師が苦手であった。とにかく無愛想で冷たい目をしている。ふと、庭師が首にかけているタオルが気になった。小さく赤い斑点があった。花の手入れで手でも切ったのだろうか、とユウはある花畑を思い出した。赤い薔薇の広がる場所。あそこで出会った女の子は、柊の花は今何をしているだろう。ユウの視線が、庭師の男から、離れにある小屋に移った。それは、敷地内の端に、ぽつんと佇んでいる。昔からずっとあるが、何に使われているかは知らない。ただ、ユウはその小屋が不気味で仕方がなかった。小屋から、どす黒い空気が、目に見えずとも漂っているのが感じ取れた。そして今、その感覚がはっきりと強くなったのである。近づきたくない。しかし、あの小屋に行かなければいけないような気がした。ただ距離をとっておけばいいというわけではないような。そのどれもが曖昧で、なんの論理性もない、ただの感覚であることもユウは理解していた。だから、気のせいであればいい、と無理矢理にも楽観的に結論付け、行きたくもないトイレに向かおうと廊下の先に視線を移した。


ーーーこ、ろ


 ユウの頭に、何かがはいってくる。


ーーーは、も、うころ、して


 ユウは激しい頭痛を覚え、頭を抑えた。声にならない叫びのような、ギリギリ発せられたことばとともに、おぞましいほどの感情が入り込んでくる。

 庭師の男は、別段変わりなく作業を続けている。自分にだけ流れて来ているのを理解すると、ユウは、離れにある小屋をかろうじて見た。あそこだ。行きたくない。でも、たぶん、いや、絶対に行かなくてはいけない。逃げてはいけない。

 テラスに出ようと一歩踏み出した時、


「ユウ様、どうされました?」


 と背後から、俊一が現れた。

 庭師の男が、二人を顧みた。


「こちらへ、ユウ様」


 俊一は、ユウを連れて廊下に戻り、「どうされました?」と再度訊ねた。


「俊さん、僕は、あの、えっと」


 ユウはことばに詰まりながら、答える。


「お手洗いに行きたくて」


 俊一は、一度ユウをじっと見つめると、「左様でしたか。私は誠様に呼ばれてますので、そちらへ向かいます。くれぐれも、何かあればすぐにお呼びください。すぐに駆けつけます」と言った。ユウは頷くと、廊下を歩き出した。俊一の視線を背中に感じながら。

 洒落た洋式のトイレであった。ユウは今でも慣れない。というか、そもそも催していない。便座を台にして、高い位置にある小窓を覗く。あの小屋がさっきよりも近くにある。やはり、どうしても行かなければならない。そう思ったユウは、静かにトイレから出ると、近くの窓から外を覗き見た。さっきいたテラスが少し離れたところにある。そのそばで、庭師がいまだに作業している。俊一の姿はない。ユウは、そっと窓を開け、忍び出た。


ーーー大丈夫、気づいていない


 と小屋の前までやってきたが、ユウはそこではたと立ち止まった。一見ただの古びた小屋だが、あきらかにおかしい。恐怖さえ感じた。染み付いた、べたついた、まとわりついた、何かがそこにあった。高所から飛び出す一歩が踏み出せないように、彼は立ち止まってしまったのである。しかし、そんな時間がないこともわかっていた。


ーーーて


 再び、ユウの頭に『声』が響いた。

 強い風が吹いた。がちゃりと庭師の男がいる方で音がした。バケツが倒れたような音。

 ユウは、一歩を踏み出していた。踏み出してしまえば、あとは惰性のままに体が動いた。

 ギイと、古い扉を小さく開き、さっと小屋へと入ると、すぐに扉を閉めた。もったりとした臭いがユウの鼻を刺激する。薄暗い部屋に、小さな豆電球が吊るされている。ユウは、目の前の光景に、再びはたと立ち止まった。部屋の奥、豆電球の光が微かに届いたところに、その惨劇がーーー裸の少女がいた。両掌を釘で打ち付けられ、ぐったりと首をもたげており、目元が見えない。ユウは、震える膝を抑えながら、ゆっくりと近づいていく。少女の露になった太ももの皮膚が、赤黒くも艶やかにえぐれていた。口周りは腫れ上がり、首筋や脇、鼠蹊部にはいくつかの噛み痕のようなものがあった。ユウは、少女の息を微かに感じ取った。そのとき、ユウのなかで異様な興奮が沸き上がった。脳がくらくらするほどの、高揚感であった。大きく鼻を開き、ユウはその血の臭いを存分に吸い込むと


ーーー欲しい


 と渇いた口を開き、二本の牙を露にしていた。

 同時に自制心もあった。ダメだ。何をしている。助ける。助けなければ。


ーーー僕は、人間なんだ


 しかし、その少女に近づけば近づくほど、理性は薄れていった。それを超えた興奮が、ユウの体を、精神を支配していた。それほどまでに、目の前の少女はユウにとって官能的で、その血の臭いは甘美なものであった。


「、、、こ、、、ろ、、して」


 少女が、辛うじて声を発した。その声を聞いて、ユウははっと我に戻った。そしてゆっくりと、少女の前髪を上げ、顔をありありと見た。ぼこぼこに腫れ上がった両目、しかし、ユウには分かった。ユウは、覚えていた。知っていた。愕然と、ユウは膝をついた。全身を震わせ、涙した。嗚咽と慟哭が小屋中に響いた。思いっきり、自分の腕を噛んだ。えぐれはする。血も流れる。しかし、痛みはない。ゆっくりとだが、修復していくのがわかる。ユウは再び腕を噛んだ。それを数度繰り返すと、ユウは再び声にならない声で叫んだ。そして、思った。


ーーー僕は、普通じゃないんだ


「ごめん。ごめんね」


 ユウは大きく深呼吸すると、少女の掌に打ち付けられた釘を引き抜いた。

 少女の小さな悲鳴が、ユウにはとても痛かった。

 ユウは、その釘で自らの右手首を刺すと、それを少女の口へあてがった。しかし、血は、少女の口の端からこぼれるばかりであった。ユウは、自らの舌を釘で刺した。口の中に血が充満するのがわかると、そのまま、少女の口に血を注ぎ込んだ。

 ごくりと、少女の喉がなる。段々と、少女の体に血の気が戻っていく。ユウは、再び血の滴る右手首を少女の口へあてがった。少女は、今度はしっかりとユウの血を飲みはじめた。少女の太ももの痣が、消えていく。

 そのとき、扉が強く開かれた。薄暗い小屋に、光が差し込む。振り返ると、二つの影がそこにあった。

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