弥勒家の人々
「家へ戻ろう」
誠のことばに、ユウはこくりと頷いた。
窓枠の向こうに、吸い込まれそうな夜があった。ガラス片は、絹が掃除を終えており、奇麗になっていた。
「ユウ、まあなんだ、少し話をしようか」
と誠は小瓶の蓋をあけ、小さな氷晶のようなものを取り出し、口にいれる。「お前もいるか?」とユウに進める。
ユウは、首を横に振った。
「そうか」と誠は腕を組んだ。
風鈴がちりんとなった。
「風鈴なんてあったかのう」
誠は、わざとしみじみと言った。
ようやく、ユウは口を開く。
「たぶん、絹さんが片付けた後に付けてくれたんだと思う。窓、ごめん」
「まあ絹さんを守るのに必死だったんだ。よくやった」
風鈴が、再びちりんと鳴った。
冷たい風が二人を包む。
誠は、一度咳払いし、話し始める。
「さっきのあれは、夜鬼といってな、まあ人でないなにかだ。夜鬼は、常に血を渇望している。特に人の血を好むが、餓えの果てに動物の血を飲むこともある。厄介なことに、狡猾でもある。ただ、二つ牙を襲うことはない。これは前にもいったな。なぜなら、二つ牙の血はやつらにとって毒になるからだ。一定量飲むと、死に至る」
「もう、いないの?」
「ああ。さっき弥勒家とも一度合流したが、さきほどの夜鬼は、北の峡谷を超えて来たものだろう、という結論に至った。まあこちら側にはもういないだろう。そうそうあの谷は超えられんし、複数いるなら、夜鬼は群れる傾向がある。怖かったか?」
誠は、優しく微笑んだ。
「う、うん。でも、不思議な感覚もあったんだ。怖かったは怖かったんだけど、なんだろう。それを超えると、気持ちが昂るっていうか、怖いって感覚とはまた違うものになったような」
とユウは、赤くなる頬をぽりぽりと掻いた。
誠は、氷砂糖を舌で転がすと、「うむ」と頷き、言う。
「恐怖は脳を刺激する。恐怖はリミッターだ。行き過ぎるとそのリミッターがなくなる。恐怖がなくなると、人は無敵になる。しかしそれは、ときに人を傲慢にさせる。理性の崩壊にも繋がりうる。図太い理性を芯にしなければならん。特に、二つ牙をもつお前はな。恐怖を忘れるな。内なる自分を恐れるんだ。そして、安易に恐怖を捨てるな。開き直るまで悩み抜いた末に、恐怖からの解放がある。その先に、真の成長がある」
「う、うん」
とぎこちなく頷くユウに、誠はなおも続ける。
「それとな、お前はとても優しい子だ。爺の言うことにも抗ったことがない。本気で怒ったこともないだろう。両の牙を持つものは、凄まじい力を持っている。怒りは、人に、我々に、普段にはない力を持たせる。もちろん怒りに身を任せなければならないときがないこともない。しかし、その感覚に酔ってしまってはいけない。感情の爆発もまた、欲だ。感情に精神を、肉体を支配させてはいけない。その先にあるのは絶望だ。特に、何度も言うが、両の牙をもつ我々には、な」
ユウは、誠の言いたいことを計りかねた。いつになく難しいはなしだな、と思った。
きょとんとしているユウの頭を、誠はなでる。
「お前は、本当に優しい子だ。和彦さんに似たんだろう」
顔の知らない父親を褒められ、なんとなくユウは嬉しくなった。
「俊一を待たせている。明日は早いぞ、早く寝ろよ」
部屋を出る誠の背中は、ユウにはとても大きく見えた。
恐怖、怒り、欲。誠は何を伝えたかったのだろう、とユウは布団の中で考えた。二つ牙をもつものは凄まじい力を持っている、と誠は言った。自分にそんなものがあるのか。山を下りたことのないユウにとって、同年代の比較対象が弥勒家のレイだけであった。しかし、彼女も両牙を持っている。いや、一度女の子に会ったことがある、とユウは思い出した。あの花畑で会った、奇麗で、温かい女の子。牙を持つから山を降りられない。牙を持つから特別で、普通の人とは違う。山の中では時に誉め称えられ、時に畏怖さえされた二つの牙。ユウにとっては邪魔でしかならなかった。その牙は普通の人を怖がらせる、そう聞かされて育った。幼いながらにも、僕はこの牙のせいでどこへも行けないんだ、と理解していた。鏡で見る度、口を開く度現れる二つの牙が、嫌いでしょうがなかった。その牙を初めて見ても、隠さなくていいよと言ってくれた女の子。まだあのときの温かさを、どきどきを覚えていた。まるで夢のなかのようだったな、と。そして、もう会えないんだな、と。まどろみの中で、ユウの胸にむなしさが溢れる。肌寒い夜だった。
ーーーーーーー
蝉の合唱が森全体を覆う。
額に吹き出る汗をタオルで拭く。
ユウの足取りは重い。
切り開かれた場所に、古い洋館があった。門の前に、長い銀髪を紐で束ねた壮年の男が立っている。
「お待ちしておりました、大福様」
と男はやや吊り上がった目をにこりとさせ、お辞儀した。
「おお、聡。久しぶりだな」
誠のことばに、「ええ。ユウ様も、俊一もお元気そうで」と聡はユウを見た。俊一がお辞儀すると、ユウも倣ってお辞儀した。しかし、ユウは聡と目を合わせようとはしなかった。ユウは、聡の目が怖かった。いつもニコニコしているが、目の奥は笑っていないように思えた。
聡が三人を部屋へと案内する。
「大福様、奥様はこちらでお待ちです。お嬢様は自室に」
と聡は誠に言った。
「そうか。ユウ、レイちゃんも悪い子ではない。粗相のないようにな」
と誠は一人部屋に入っていった。
聡は、ユウと俊一を別室へ案内すると
「お嬢様、ユウ様をお連れしました」
と扉を開ける。
「これは、ユウ様。お久しゅうございます」
エプロンをした、銀髪の長身の女がユウを出迎えた。上歯が一本きらりと光る。
「そ、そうだね、桔梗さん」
桔梗と呼ばれた女は、にっこりと笑うと、「どうぞ」とユウを部屋へと誘った。
奥の部屋から、ウェーブのかかった長い銀髪を揺らし、「ユウ、一ヶ月ぶりね」と少女が現れた。
「そ、そうだね、レイ」
とユウはさきほどの桔梗への返答と同じように、答えた。
二人が会うのは、ひと月前、少女、レイが大福家を訪ねて来て以来であった。
「また身長が伸びた?もう少しで抜かれそうね」
とレイはユウの頭をなでた。
ユウは、ちらりとレイの表情を伺う。
レイは笑っている。上歯の二つの牙がきらりと光る。ユウは、レイの様子に違和感を覚えた。ひと月前とは、雰囲気が違う。
「聡、桔梗、もういいわ。早くでていってちょうだい」
「何か御用があればなんなりと」
と桔梗はお辞儀した。
「はい、お嬢様」
と答えた聡の後ろで、俊一が口を開く。
「ではユウ様、何かあればおよびください」
「なにもないわよ。早くいきなさいあんたも」
レイがぎろりと俊一を睨む。
「あ、ありがとう俊さん。またあとで」
とユウのことばを受けて、俊一はお辞儀して、聡と桔梗とともに出て行った。
扉が閉まるのを確認すると、レイはうっとりとユウを見た。その瞳には、ひと月前にあった純真さだけでなく、妖しさも含まれていた。それをユウは、敏感に感じ取っていた。
「ユウ、クッキーを焼いたの。コーヒーは飲めるようになった?」
「え、いや、まだだけど」
「ふふ、ちゃんとジュースも用意してあるわよ。早く座って」
とレイはユウをソファーへと誘った。
「どう、おいしい?」
とユウの膝に手をやりながら、レイは訊ねた。
「え、うん、とっても」
「よかった。今日は久しぶりにユウが来てくれるって言うから、朝から準備したのよ」
「あ、ありがとう。レイ、ごめん、ちょっとお手洗いにいきたくて」
「ああ、そうだったの。気づかなくてごめんね。一緒に」
「い、いいよ来なくても」
「そうね、ユウももう大人になるもんね」
とレイは笑った。
ユウは、せこせこと部屋を出た。