大福家
西日が閉じていく。急いで帰らなければ、とユウは薄暗い森へと入っていった。
すっかり夜になっていた。
ーーー家だ
遠目ではあるが、かがり火が見え、ユウはほっと一息ついた。その時、ユウは敏感に気配を感じとり、振り返った。
10メートルほど先の木の陰に、ユウよりも頭一つ大きい何かがいた。人なのかどうか。人の形はしている。だらしなくあいた口。真っ赤に充血した目は、ぎょろぎょろとユウの方を見ている。
ユウは、息をのんだ。体が硬直していた。恐怖がユウのすべてを支配していた。
その得体のしれない何かは、距離を詰めようとはせず、ふがふがと鼻を動かし、ユウの様子を伺うのみである。
「ユウ様!」
松明を持った銀髪の青年が、異変に気づきユウのもとへと走ってくる。上歯の一本が牙のように尖っている。
「俊さん」
とユウは、息をついた。視線を戻すと、その何かはすでにいなくなっていた。
「大丈夫ですか?ひどい汗です」
「うん、そこに人間?かな、獣に近いような、なにかがいて」
ユウのことばを聞いて、俊一の眼光が木の陰へと鋭く移る。
「逃げたようですね。とりあえず、家へ帰りましょう。母が晩飯を用意してくれています」
俊一は、ユウの肩を抱くようにしてその場をあとにした。
板張りの家が夜の闇に覆われていた。木々が開けており、空が大きく見えた。赤みを帯びた三日月が、ユウには異様に見えた。
ーーーーーーー
天井からつり下げられた洋燈が、黄色い明かりを発している。
「山菜おこわを作りましたよ、坊ちゃん」
とエプロンに三角巾をした細身の女がせっせと配膳している。
「ありがとうお絹さん」
「いえいえ」
とユウのことばに、女、絹は、目尻の皺深く、にっこりと笑った。上歯が一本きらりと光る。
「旦那様も、熱いうちに食べてくださいよ」
いつまでも本を読んでいるユウの爺、大福誠に、絹が言った。
「うむ、いただこうか」と誠は本を閉じた。オールバックにした銀髪は乱れなく、切れ長の目を食卓へと向ける。
「誠様、先ほど、ユウ様が人ならざるものを見たと」
俊一は、声を抑えて言った。
誠はその切れ長の目を光らせ、訊ねる。
「ユウ、本当か?」
「うん。人のようだったけど、なんとなく獣に近いような」
「他に特徴は?」
「目が充血していて、体の色も青っぽく見えた」
誠は真剣な表情で「ふむ」と呟き、俊一に言う。
「弥勒家に鳥を飛ばしておいてくれるか」
「わかりました」と俊一は席を立った。
誠は、真剣な表情を一転、その筋の通った形のいい鼻を下品にもふがふがと動かしはじめた。
「いい匂いだな」
とにやりと笑った。二本の上歯がきらりと光る。
「旦那様、もしやぼっちゃんが見たのは」
「まあ、まずは腹ごしらえとしよう、絹さん。それはなんだ?」
「え、ええ。俊一がキジをとってきましたゆえ、キジ汁も作りました」
と絹は答えた。
「さすがだな、俊一は。今度ユウにも教えてやってほしいもんだ」
ユウは、さっき見たなにかの正体も気になっていたが、今そのことを話すのは、なんとなく野暮なように感じた。
「狩猟はあまり好きじゃないんだ、おじいちゃん」
ユウの口調には、いつまでたっても自分を子ども扱いする誠への苛立が含まれていた。
「はあ、ユウよ、花ばかりいじっていても腹の足しにならんぞ」
「わかってるよ。だから野菜作ったりしてるじゃない」
「肉も食べにゃ肉も。多恵のやつは山を走り回ってたけどなあ」
と誠はキジ肉をほおばり、「こりゃうまい」と頷いた。
「母さんは、よく山を下りてったって」
「ほうよ、あのじゃじゃ馬娘はよう降りてたな。ダメだと言っても聞かん。ってユウ、誰から聞いた?」
「ミケ婆」
「またあの婆さんか。行くなとは言わんが、あの婆さんには気をつけろよ。何かを隠しているように見える」
と誠はいそいそとご飯を食べる。
「旦那様、はしたのうございます」と絹は誠をたしなめ、続ける。
「多恵ちゃんはたいそう気丈な人だった。山に坊ちゃんのお父さん、和彦さんを連れて来たときは驚いたもんだったけど、そりゃあ和彦さんは優しい人だったよ。二人とも坊ちゃんを深く愛しておられたんよ」
と絹はユウをなでた。
ユウは、肩をしゅんとさせ、キジ汁をすすった。
「お前の婆さんは花も狩猟も好きだったぞ!そしてなにより美しかった」
誠は遠い目をした。ふと我に返り、続ける。
「そうだ、明日、弥勒家に挨拶にいくからの。レイちゃんとも仲良くするんだぞ」
「ええ?」
ユウは顔をしかめた。
誠は箸を止め、いつになく真剣な表情で言う。
「ユウ、婆さんと和彦くんは普通の人だった。多恵は、片牙だった。俊一も絹さんも片牙だ。みんないずれ死んでしまう。でも、俺とお前は死なん。同年代に同じ二つ牙の子がいる。今はわからんかもしれんがな、これはとっても幸せなことなんだよ」
「わかってるよ」
とユウは拗ねたように答え、キジ汁を啜る。
「おいしい」
「そうですか、ぼっちゃん。おかわりもありますよ」
絹さんは、笑った。
夕食の後、ユウは誠に呼ばれた。
誠は、お茶を一口すすると、神妙な面持ちで口を開いた。
「俺の年を覚えているか?ユウ」
「146歳」
ユウはぽつりと呟いた。
「そうだ。婆さんと出会ったのは、もう60年以上も前のことだ。それまで俺は、だらだらと生きて来た。婆さんと会った時、初めて生まれた感情、というのか、感覚、がある」
「なに?」
「焦燥感だ。死なない体の俺は、そんなものもったことなかった。だが、この目の前にいる美しくも敬うべき女性には、寿命がある。そのとき焦燥感をもったんだ。この人と過ごせる時間には限りがある。焦燥感は人を行動させる。俺にも人と同じ感覚があったんだな。その結果、まあもめにもめたが」
「よく知らないけど、弥勒家に頭が上がらないのはおじいちゃんのせいなんでしょ」
「う、まあ、そうなんだが。それだけの理由でお前とレイちゃんを許嫁にしたわけではないぞ。とにかく、だ。行動は人生に彩りを持たせる。悩み、悲しみ、喜び、そこに幸せがあった。しかしだな、全てが思い出に変わり、一人生きていくなかで、それらは徐々に色あせていく。命に限りがあれば、分かち合える人がいれば、それは尊いものになったであろう。でもな、限りない俺たちにとっては、それらの思い出は辛い物でしかなくなるのだ。一人で思い出に耽り、過去に生きるのは麻薬にも近い中毒性がある。しかし、その先には、疲れが残渣物としてあるのみだ」
「なにが言いたいの?」
「俺はお前の同世代にレイちゃんが、両牙の子がいることをとても嬉しく思う」
「大丈夫だよ、明日はちゃんと行くよ。おじいちゃんも、向こうの奥様と仲良くね。あの人は何歳なの?」
「俺の50下だったかな。まあ大福家と違って、弥勒家は最近まで先代が生きてたがな」
と誠は窓の外を見た。
「いつまで生きりゃいいんだろうな」
誠は、誰に問うでもなく問うた。
ユウは、時折見せる誠の達観したような、なにかを諦めたような言い草や表情が嫌いだった。
「もう寝るよ」と早々に部屋を出ようとした。
「ああ、ユウ、違うんだ。聞きたかったのはだな、お前、性欲は沸いて来たか?」
「え?」
と今日二度目の質問に、ユウは顔を赤らめる。
「そろそろかと思ったが。しかし、まあ大事な話だ」
「そ、そりゃあ興奮したりはするけど」
「なにかほしい感覚は?」
誠の欲しい答えが、ユウにはわからなかった。そんなユウの様子を見て、
「いや、ならまだいいんだ」
と誠は神妙な面持ちで言い、こほんと一度咳をして再び口を開く。
「そのうち、くるときがくる。それはそれで、俺はまたお前と向き合えばいい。さてと、そろそろ俊一が迎えにくる」
と誠は膝をたてた。
「どこへいくの、おじいちゃん」
「お前が外で見た獣、あれはな、『夜鬼』と呼ばれるものだ。ここ10数年は見ていなかったが、北の峡谷を超えてきたやもしれん。あれが人里におりては大変なことになる。我らの不始末は我らがしなくてはな」
「『夜鬼』って」
「うーん、なんだ、成れの果てだな。やつらは無限に血を求める。常に渇いている。そして、日の光を嫌うから、日中は隠れる。だから、討つなら夜だ。弥勒家も何人かは狩りに出てるだろう」
「ぼ、ぼくも行ったらダメかな」
「お前は絹さんと家にいるんだ」
肩を落とすユウを見て、誠は続ける。
「夜鬼もさすがに我が家にくるほど大胆な行動に移るとは思えんが、絹さんを一人にするわけにはいかんだろう」
何か力になりたい、認めてほしい。そういう思いが、ユウのなかにあった。一度落とした肩であったが、「絹さんを一人にするわけにはいかんだろう」という誠のことばを聞いて、ユウは顔を上げた。しかし、次に来たのは不安であった。絹さんと家で二人。先ほど見た夜鬼の姿を思い出していた。やつがもし家に現れたら、自分に何かできるのだろうか。絹さんを守れるのだろうか。誠の期待に応えられるだろうか。
誠はユウの気持ちを読み取ったのか、力強く言う。
「ユウ、万が一夜鬼がきたときのために言っておく。夜鬼は、狡猾で残忍だ。しかし、二つ牙を持つ俺とお前を襲うことはない。やつらは本能でわしらを嗅ぎわける。絹さんを守るのは、お前だ。そして、お前は絹さんを守ることができる。絹さんから離れなければ、夜鬼が襲ってくることはない。頼むぞ」
誠のことばで、ユウの不安は少し取り除かれた。同時に、ユウの胸に熱いものが沸き上がった。誠に頼りにされるということが、初めてだった。
玄関の引き戸が開く音とともに、
「誠様、おられますか」
と俊一の声がした。
「今行く」
と誠は立ち上がった。