洞穴の先
猫と目があった。猫は、顔の向きを変えると、草むらの奥へと歩いていく。私を待っているかのように、私に見失ってほしくないかのように、ゆっくりと。そして、小さな洞穴の前で立ち止まる。私を一瞥すると、入っていく。私も、ついていく。
音がない。暗い。中腰で、ずんずんと進んでいく。猫はさっさと先へ行った。出口はまだか。薄い光が見えた。もうすぐだ。光の先へ。
木々がざわめいている。雲が轟々と鳴いている。
真っ赤な絨毯が一面に広がっている。妖しくも艶やかで。この世とは思えない。立ちすくむ。
影。少年が、立っている。
「なぜ、ここに」
透き通るような奇麗な声。
ぼんやりとしていて、顔が確認できない。
「えっと」
戸惑う私に、少年が近づいてくる。銀色の髪の毛が光に反射している。
「ここにきてはーー」
「お、お名前は?」
私はとっさに質問する。まだ帰りたくないから。
少年は、戸惑っている。
「え、ぼく?」
もじもじとする少年の、小さく開いた口が、きらりと光る。
「あれ、上の歯が尖っとるんやね」
少年は、恥ずかしそうに口を隠す。
「かっこいいね。隠さなくてもいいんよ。私はしゅうか。柊の花ってかくの。柊の葉も、とげとげなんよ」
怒らせちゃったかな、と少年の顔を伺う。
少年は、顔を赤らめ、俯きながらに言う。
「と、とってもいい名前だね。僕はーー」
「どこ?ここにいるんでしょ?」
少女の声だ。少し遠い。
少年は、途端に小声になり、「早く、あの、逃げて」と洞穴へと私を押し込む。危うくこけそうになる。
「だ、大丈夫?でも、ダメなんだ。もう、君はここに来ては、ダメなんだ」
「ユウ、どこ!?」
と少女の声が大きくなる。
「ご、ごめんね。でも、あ、ありがとう、楽しかった」
と私を洞穴まで誘導し、少年は、にっこりと笑う。二つの牙が、きらりと光る。
「うん、楽しかった」
と私は答え、洞穴の中へと入る。
なんとなく気になり、私は洞穴の入り口から外の様子を伺う。少年の背中が遠くなる。
赤い絨毯に、銀髪の少女が現れる。
少女と、目が、あう。いや、あっていないかもしれない。すぐに顔を引っ込める。何か怖い。なんだろう。あの人は、怖い。
あの人は、そうだ、なんか、怖い感じがした。
これは、小さい頃の。
ーーーーーーーーーーーーーー
「柊花、起きんさい!」
風鈴の音が響いた。柔らかい西日が差している。
ーーー夢か
柊花は、懐かしさと、ちょっぴり背筋が凍る感覚を覚えた。今の今まで忘れていたが、夢によって途端に鮮明にぶり返した記憶。小さい頃にいつのまにか消えていた、たぶんあまり思い出さない方がよかったこと。夢は記憶の整理をしているというが、なぜこのタイミングで、とその奔放さに飽きれる。
「柊花!」
階下の声に、ようやく柊花は立ち上がり、部屋を出た。
「何、お母さん、ご飯も炊いといたし、洗濯物もとっといたよ」
あげく日中はお父さんの畑仕事も手伝ってた、とは柊花は付け加えなかった。母親の悦子も仕事帰りで苛立っているのが分かったからである。
「たくちゃんは部活もしながら畑仕事も手伝ってくれるゆうてたよ」
フライパンを片手に、悦子は言った。
「たくと比べんとって。あんなチビ」
と柊花は、たくやの学校での態度を思い出し、苛立った。小さい頃から散々遊んどいて、中学二年で同じクラスになった途端、柊花にそっけなくなったのである。
「たくちゃんもうあんたと同じくらいになっとるやないの。一年もせんうちに抜かれるわ。そんなことより、葵はしらん?帰ってこやんのやけど」
「葵?しらんよ。畑仕事も手伝わんとどっかいっとったし」
「うーん、最近変なとこ行ったって自慢しとって、またそこにいったんかいな」
立て付けの悪い障子ががたがたと開くと、祖母の久が現れた。
「変なとこってどこさね?悦っちゃん」
「ああ、お義母さん。なんかお花畑?が広がっててとっても奇麗な場所だって。危ないとこはいかんようにいうとったんやけども。夏休みの宿題もせんとほんとに」
「花畑?この地域でそらあかんで悦っちゃん。はよ探さんと。正志はどことや?」
「正志さん?農協の集まりで遅なるって」
「おばあちゃん、なんかしってるん?」
柊花は、なんとなく胸騒ぎを覚え、口早に訊ねた。
「オタタイ山の深くに小さな集落があるらしいんや。わしが子どもの頃までは一本の山道が繋がっとったんやが、絶対にいったあかん、ってよう言われとった。そこの手前にまあ奇麗な薔薇の畑が広がっとったん覚えとる」
「おばあちゃんはなんでいったん?」
「せやな、随分昔の話や」と久は椅子に座り、話しはじめた。
「5年かそこらに一度、神輿に人一人のせてその山登る決まりがあったんや。わしが10もいかんぐらいの頃や。4つ上の優しい姉さんがおってな。わしみたいに太ってへん、華奢で顔も整っとって、柊花によう似とったなあ。姉さんがその神輿のって山に行くことになったんや。その日の前はそりゃ豪勢な料理にお祭り騒ぎや。でもお父ちゃんもお母ちゃんも泣いとってな。で、神輿のった姉さんと、それ担ぐ男衆と、わしら家族だけオタタイ山の花畑まで同行できたんや。そのときやったな、その花畑いったんは」
「それでそれで?お義母さん、お姉さんはどうなったんです?」
ガスコンロの火を消し、悦子は身を乗り出して久に訊ねた。
「姉さんは気丈に振る舞っとった。最後神輿から降りて、両親に深いお辞儀しとったわ。そんで、わしん顔見て、元気にしいや、って、でも、そんとき涙目なっとったん覚えとる。ようやっと、わしもわかったんよ。もう会えへんねんなて」
久は、遠い目で言った。
「はあ〜そんなことがあったんですねえ」
「悦っちゃんは隣町からきたけえ知らんでも無理ない。それに、そのようわからん行事は姉さんが最後やったんや。そのすぐ後に、土砂崩れかなんかで山への道が途絶えて、そっからはとんとなくなった」
「おばあちゃん、なんでその山にはいったあかんって言われてたん?集落には誰が住んどんの?」
「わしも行ったのはその花畑まででな。集落まではいってへんからそれはようわからん。でもな、一つ牙した鬼さんよ、二つ牙した神さんよ、なんて言ってな、鬼だか神さんだかが出るから、絶対行くな、って言われとったわ。まあ、道はもうないさけ、杞憂やとええけど」
ーーー牙
久のことばが終わらないうちに、柊花は動き出していた。
「柊花、ちょっと!」
「すぐ帰る!お母さんとお父さんはこの辺り探しとって」
柊花は、玄関を勢いよく飛び出し、自転車に乗った。葵の自転車がないことに気づいた。
記憶を蘇らせる。今日の夕方、夢に出てくるまで忘れていた記憶を。
山の麓にある寂れた神社。雑草が茂っていた。猫?そうだ。あのときの私は、猫を追って、猫に誘われるように、神社の裏手にまわったんだ。すると、小さな洞穴があって。
ーーー杞憂やとええけど
柊花は、久のことばを思い出し、額の汗をぬぐった。
信号を渡り、高架下をくぐる。
稲がマダラに残るだだっ広い田んぼに、夕日が伸びている。
田んぼを抜けると、民家がちらほらとあった。
「柊花!」
呼び声に、柊花は自転車を止め、振り返った。
チカチカと点滅する外灯の下に、自転車に乗った体操着姿の少年がいた。
「なにい、たく。部活帰り?」
「そうや」
とたくやは所在なく、短く刈り上げた頭を掻いた。
「うち急いどるから」
「ど、どこいくんや」
柊花は、たくやをじっと見た。
「あんた、学校ではそっけないくせに」
「い、いや、それはやな、周りが」
アスファルトの匂いが、柊花の鼻を打った。柊花は空を見上げ
「まあいいわ。もう暗なるし、はよ帰りいや」
とペダルを漕ぎはじめた。
「いや、お前こそはよ帰りい」
たくやの声は、柊花にはすでに遠いものとなっていた。
西日の影に、オタタイ山が佇んでいた。
段々と大きくなるツクツクボウシの鳴き声が、柊花の耳に五月蝿かった。