第九十八節 嫌厭と指顧
大海原に高波が立ち、航行船を揺らす。海面を掻き分けて現れたのは、広大な大地だった。
全く以て予見せず、海から陸に打ち上げられた魔物の群れは叫ぶような鳴き声を上げ、のた打ち回る。
陸地に打ち上げられた魚の如く、身を捩って暴れるケルピーやマーマンたちを目にして、総領格であったスキュラは黒目がちの鋭い眼を驚愕に見開く。
大地に佇む形になっているスキュラは大きく吠えて、魔物たちを恫喝するような動きを見せるものの――。突として水を失った魔物に成す術は無く、思い通りにいかないことで忌々しげに端正な顔を歪めた。
甲板上がその様子から驚嘆に騒めくのと反目に、船尾楼で身構えていたヒロは紺碧色の瞳を海原に差し立てたままで唇に弧を描く。――かと思えば、息を大きく吸い込んだ。
「陸地に打ち上がった魔物を掃滅しろっ! 一組・二組、順番に放てっ!! 打ち終わったらすぐに次の弾を込めるんだぞっ!!」
ヒロの大声での指示が飛ぶと、砲撃指揮官の「放てっ!!」と怒号に近い声が響く。それに間髪入れずして、砲列甲板から幾重にも重なる砲撃音が辺りに鳴り響いて船を鳴振させる。
集中砲火を受ける魔物の断末魔、立ち昇る粉塵と水柱の光景。潮風に微かに混じり始める硝煙と血の匂い。
無抵抗のままで次々と魔物が仕留められていく様を、誰もが妙だと思わない――。
それらをビアンカは翡翠色の瞳で見やり、眉を曇らせた。
(何で海にいる魔物は襲い掛かって来ないの? 船の進路を妨害しているだけな気がするんだけれど……?)
海に棲む魔物たちは狡猾に船体――、その船底を狙って襲い掛かって転覆や沈没を図ろうとするもの。そうして、海原に落ちた人間たちを餌食にしていく。
さようにビアンカは認識していたが、この場にいる魔物たちは航行船の動きを阻害してくるだけ。本気で襲い掛かって来ることをしていない。
(……まるでそう命じられているような、統率が取られた行動じゃない?)
何かがおかしい、と。胸中で不審さを感じるものの、それを口に出さずに剣を振るう。
今は海で次々と砲弾の雨を受けている魔物よりも、上空から襲い掛かって来るペリュトンと呼ばれる魔物のことを考えねば――。ペリュトンたちだけは本能の赴くままに人間を襲おうとしている。
先にルシアが論説していた通りに、ペリュトンは魔法を操るルシアとカルラに集中的に鋭い爪や角を差し立てようとしていた。
反目でカトラスを構えて向かっていく船夫や水兵には目もくれていない。寧ろ物理攻撃では傷を与えても血が出ることが無く、すぐに再生している。そのことから、剣での斬撃はさして通用していないのを窺い知ることができた。
ビアンカの手にしている魔力を帯びたショートソードの攻撃は、多少なりとも効果はあるようだった。しかしながら――、殺撃となる払いを食らわせても大きな傷にはならず、致命傷に至らない。その代わりに再生力は削ぐことができているようなので、辟易としながらも剣を払う。
牽制する程度に影響はあるようなので、ルシアに向かい滑空してきたペリュトンにショートソードを振るい、一撃を食らわせて軌道を逸らさせる。
「ありがとうございます。詠唱中は無防備になりやすいので助かります」
「どういたしまして。――ルシアさん、魔力の方は大丈夫?」
僅かに吐息を漏らしビアンカが問うと、ルシアは口角を吊り上げた笑みを浮かべる。その表情を目にし、ルシアに余力が残っていることをビアンカは察する。
海底の大地を操って地形を変えてしまうほどの魔法を行使したにも関わらず、まだまだ余裕を表すルシアが有する魔力の底知れなさに感嘆してしまう。
もしかしたら、ルシアはルシト以上に魔法と魔力の扱いに長けているのではないか。そうビアンカは思案する。
「<――風よ。刃となり、我が前に有りし存在を切り裂け>」
考えごとに思考を流していたビアンカの耳に、声高な魔法の言の葉が届く。はたとビアンカが視線を上げると、すぐ脇を“風属性”魔法が作り出した刃に切り刻まれて悲鳴のような叫びを口にするペリュトンがすり抜け、海へ身を投じていった。
ビアンカが吃驚から翡翠色の瞳を瞬き、声の主であったルシアに視線を向けると悪戯そうな笑みが目に映る。
「これでおあいこですね」
「え、ええ。ありがとう……」
「どういたしまして」
呆気に取られた表情を浮かしながら礼を述べると、ルシアは次には微笑んでくすりと笑いを漏らす。ルシアの緊張感を感じさせない朗らかな笑みに、ビアンカは毒気を抜かれる気持ちを覚えた。
「魔物の方は誰かに操られている気がします。ですが、人間を本能のままに襲うペリュトンだけは、どうにも操りきれていないようです」
やにわに口切り出されたルシアの言葉。それを聞き、ビアンカは今まで考えていたことを見透かされた思いで、再び瞳をまじろいでしまう。
「僅かですが、魔力の波長を感じます。普通の人間では無い、私たちに近い存在のものを……」
「それって、もしかして……」
ルシアたち――、ルシアとルシトという、魔力から生み出された存在を指し示しているのであろう言葉が意味すること。その答えに行き着いたビアンカは、“邪眼”の膨大な魔力から生まれたシャドウの存在を思い、眉を曇らせた。
先にヒロが語った話では、シャドウは“邪眼”の魔力を用いて数多くの魔物を操る術を持つ。それならば、今、船を襲っている魔物たちがシャドウの差し金であるという推測は、限りなく正解に近いだろう。
どこか腑に落ちたと言いたげなビアンカの表情の変化。そこから思案を的中させたことを察し、ルシアは満足げに赤色の瞳を細める。
「でも、何でそんなことを……?」
シャドウの目的は未だに分からない。何故に自分たちが乗る航行船を魔物に襲わせる――、しかも、海原に群れを成す魔物には船に手出しをさせないままなのかが、ビアンカには解せない。
その疑問からビアンカが口に出せば、次にルシアは判然としないことを表すように首を振った。
「それは未だ分かりません。“世界と物語を紡ぐ者”なら、察しているのでしょうけれど、私たちは教えられていないので」
「そう、よね。直接、シャドウとお話でもできれば良いんだけれど……」
アサギリ港の路地でシャドウの意図を議論した際に“喰神の烙印”――、モルテはシャドウが人間に対して強い恨みを持っていると口にした。それ故、シャドウには強襲されたと雖も、彼の真意がビアンカは気に掛っていた。
我ながら能天気な考えを抱いているとは思う。しかしながら――、もしシャドウが本当に人間に遺恨を感じているとするならば。彼に何かしら不測の事態が舞い込んだ時、引き起こされるであろう事柄をビアンカは憂慮してしまう。
ビアンカの呟きを戯言と思ったのだろう。ルシアは口元に手を寄せ、くつくつと可笑しそうに笑いを零す。
「ふふ、そうですねえ。追い詰めて詰問してあげたいところです」
言うや否や、ルシアは赤色の瞳を上空に映し、手にした杖を強く握った。
「さあ、そろそろ油を売るのはお終いにしましょう。サッサと魔物を片付けて、首都ユズリハに向かわないといけません」
今までの緩んだ表情を一変させてルシアは言うと、再び魔法の詠唱をし始める。
さようなルシアを認め、ビアンカは首肯して自らの左手の甲を一瞥する。
「……ねえ。今の状態を早く終わらせるのって、やっぱりあなたが何とかするべきなんじゃないの?」
擾乱に紛れ、掻き消えてしまう程度の小声でビアンカは囁く。
先刻の声掛けには何も語らなかった“喰神の烙印”だったが、今度ばかりはざわりとした蠢きをビアンカに感知させた。
乗り気ではない――。かような気配を“喰神の烙印”は醸し出す。そんな反応にビアンカは微かに眉を寄せた。
「なんで、そんなに駄々をこねているの? あなた、もしかしてルシアさんが嫌い?」
ついビアンカが思っていたことを口にすれば、“喰神の烙印”が蠢きを強くして左手の甲に些かの痛みを伴わせる。そうした反応に然りを見出し、ビアンカは呆れ混じりの溜息をついた。
「我儘ばかり言っていないで。――これは、命令よ。手伝いなさい」
強い語気で言い切ると、感じていた痛みの強さが増す。
だがしかし、それも僅かな時で、不承不承を思わせる嘆息の音が、ビアンカの耳に届いた気がした。




