第九十七節 大地の聖女
首都ユズリハをぐるりと取り囲む山脈。その一角で、銀の双眸が海原を見据える。
銀色が正視するのは、一隻のガレオン船。それは目前にいる魔物の群れを旋回する動きを見せ始めていた。
海風になびく蘇比色の髪を鬱陶しげに掻き上げ、引き結んだ唇が緩み面倒くさげな吐息が漏らされる。
「さて、どうするか。まさか“傲慢の一族”までいるとは思わなんだ」
辟易とした色を乗せた声が蘇比色の髪をした青年――、シャドウの口をつく。
厄介な“喰神の烙印”と“海神の烙印”の宿主たちを足止めできれば良いと思っていた。自分の用件が済むまで、邪魔さえされなければ良い。いずれは自身と同じ志を抱くであろうと予測される“呪い持ち”たちに、危害を加える気が今は無かった。
その考えから、妨害としてけしかけた海の魔物には、船に甚大な被害が及ぶような襲わせ方はしていない。頃合いを見て魔物たちは退かせるつもりでいる。
しかしながら――、予想外の人物が“呪い持ち”たちの近くにいた。まさか“傲慢”の力を持つ者がオヴェリア群島連邦共和国に来ているとは思ってもみなかった。
いけ好かない“世界と物語を紡ぐ者”の手足となって動く“調停者”。どちらも過重な相手だ。
できることならば、正面きっての相手はしたくない。だが、邪魔立てするというならば――。
さようなことを腹案し、シャドウの口端から再び嘆声が溢れた。
「足止め用の魔物どもは、思っていたよりも早く片付けられちまいそうだな」
“傲慢の一族”は、自分たちの障害となるものに容赦が無い。それを分かっている。
「さっさと用事を済ませるとするか――」
オヴェリア群島連邦共和国に渡ってきた理由。
自身がやるべきことを思案し、シャドウは海から視線を外した。
◇◇◇
航行船が船体を軋ませる音を立てながら進路を変え、スキュラ率いる魔物の群れを旋回して舷側を向け始める。それすら制そうとケルピーやマーマンといった海の魔物たちが船首側へ向かい立ちはだかろうとするものの、船夫や水兵が放つ弓に牽制されて行く手を阻まれていく。
ペリュトンと呼ばれる魔物は、上空を飛び交って海原に人間の形をした影を落とし、甲板上を監視して襲い掛かる時期を虎視眈々と狙っているようだった。
「ルシアさんの得意な魔法は“大地属性”なんでしょう? 海ばかりで上手く魔法って使えるの?」
舷側の手摺近くに佇むルシアの護衛をするため、ビアンカはショートソードを抜身にして構え、ふと疑問に思ったことを口に出す。すると、ルシアの口端から愉快げな笑いが零れ落ちた。
「“大地属性”の魔法が海原で使えないなどと、誰が言ったのですか?」
さような当たり前のことも知らないのか。そう言いたげなルシアの声音にビアンカは翡翠色の瞳を瞬かせた。
従来であれば自然の力を司る魔法――、地・水・火・風の四行属性、それに加えて扱える者が限られる樹木を操る属性の魔法は、その場に存在するものに宿る精霊からの助力を受けて威力が左右される。
“火属性”であれば熱を帯びるもの、“風属性”であれば空気の流れなど。各々にヒトが生活する中で必要不可欠とされる事象が、その魔法の発動力の源になるのだ。
この海原で“水属性”の魔法を使おうとすれば、発動も苦にならず強い威力を発するだろう。しかし――、反対に“大地属性”の魔法となってしまえば、水だらけの現状では発動が難しいはずである。
誰かに言われたわけでは無い。魔法発動の原理を心得ているからこその常識として、ビアンカが発した疑問だった。
「で、でも、周りは海で地面なんかないじゃない……?」
尚もビアンカが問えば、ルシアは口角を吊り上げた意地悪な笑みを浮かす。
「大地が存在しないのは……、空くらいなものですよ?」
「え?」
どういうことだと言いたげにするビアンカを目にして、ルシアは教鞭を振るうかのように手にした杖の先端で、海原の先に見える島を指し示す。ビアンカが釣られるように翡翠色の瞳を島に向けたのを確認すると、口説のために語り始めた。
「群島の島々。あれは海の上にプカプカと浮かんでいるわけでは、ありませんよね?」
「……海底にある地面が隆起した部分が、陸地になっているのよね?」
さも当然のことを口述され、ビアンカは眉を寄せながらそれに返答する。すると、ルシアは赤色の瞳を細めて満足げに頷く。
「その通りです。深いふかい海の底にも大地はあります。例え海上にいようとも、海底にある大地を揺るがすのは造作も無いこと。この私が扱う“大地属性”の魔法に不可能などありません」
自己を過大評価するルシアの言。それを聞いて、ビアンカは翡翠色の瞳をまじろいだ。
なんという自信だろうと思った。“傲慢”を冠する者――、“世界と物語を紡ぐ者”が己の魔力を分け与える形で創造されたのがルシアとルシトの双子だというが、その“傲慢”な気質は間違えなくルシアにも引き継がれていると感じてしまう。
(やっぱり、ルシアさんはルシトのお姉さんね。想像していたより、穏やかで優しい人だと思っていたけれど。凄くクセが強いわ……)
ルシアはかつてハルと揉めた経緯があると、ヒロやルシトから聞いていた。だが、エレン王国にいた最中で仲良くなった少年たち――、アインやシフォンがルシアのことを穏やかで優しい人物だと口にしていた。
しかし、あくまでもルシトの威圧的な普段の態度を比較対象として、それよりもルシアは優しいという意味合いだったのではないか。根本的な性質はルシアとルシトも、ほぼ同じだ。そんなことをビアンカは思案する。
「――舷側がスキュラの正面を向きましたね」
物思いに耽っていたビアンカの耳に、ルシアの静かな声が届く。はたと我に返り海原に翡翠色の瞳を向ければ、ルシアの言葉の通り、舷側がスキュラ率いる魔物の群れに向いている。
「船に近づいてくる魔物の方は水兵たちに任せて大丈夫でしょう。空を飛んでいるペリュトンは、魔法を操ろうとすると襲い掛かって来る可能性があります」
ルシアは言いながら上空を飛ぶ魔物を、杖を持たない左手で指差し示す。
僅かに高度を落としながら船に近づいて来ている魔物を見やり、ビアンカは眉間を寄せた。
ペリュトンの視認できた姿は、まるで大きな青い鳥だった。しかし、鳥と呼ぶには異様な形態をしている。身体は鳥なものの、その頭には角を持つ牡鹿。そして、太陽の光に照らし出された影は、人間の形を擁している。
元々は旅先で死んだ人間の魂の成れの果てであり、生ある者に羨望を抱いて襲い掛かって来る存在だとルシアは綴っていく。
「ペリュトンは亡霊の一種であり、物理攻撃は殆ど効きません。自分を攻撃できる術を持つ存在を優先的に狙ったりと、意外と狡猾な考えを持つ魔物です」
「だから、魔法を使おうとすると狙われるのね」
納得からビアンカが呟けば、ルシアは首肯する。
「この魔物相手では、リーダーはほぼ役に立ちません。ビアンカさんの持っている魔力を帯びたショートソードなら通用するかも知れませんが――。あとはカルラの魔法任せになってしまいますね」
早口で多弁に綴られていくルシアの説明を受け、ビアンカは幾度か首を縦に動かして返弁とする。
(――人間の魂の成れの果て、か。魂を何とかするっていうなら、あなたの出番なんじゃないの?)
ふと思い至ったことからビアンカは自らの左手の甲――、“喰神の烙印”に心中で語り掛けるように視線を落とす。
カザハナ港からアサギリ港へ向かう道中で襲い掛かってきた魔物の魂を喰らい、僅かながらに魔力を蓄えた“喰神の烙印”であったが、ルシアが姿を現してから鳴りを潜めて静かにしている。
思うに、“喰神の烙印”がルシアを苦手としているのかと。そうビアンカは考慮していたが、当の“呪いの烙印”自体が黙していたため、それを確かめる方法も無かった。
そして、今も再び語りかけてみるも、“喰神の烙印”は押し黙ったままで何も返さない。故にビアンカは不思議そうに小首を傾げた。
「それでは、そろそろですね。本腰を入れた護衛をお願いしますね」
ルシアが杖で甲板の床を叩く。その音を合図とするように、ビアンカはショートソードを構え、傍らに立つカルラは装飾の少ない質素な杖を両手持ちに強く握る。
「分かったわ。カルラちゃん、無理はしないでね」
「うん。ルシ姉ぇのこと、気を付けながら守る……っ!」
強い声音でのカルラの返事。そうした勇ましい宣言にビアンカは頷き、上空を飛び交うペリュトンたちに注意を払う。
ルシアは赤色の瞳を鋭く海に差し立て、杖を向ける。意識を集中させ始めたかと思うと、彼女の周りに魔力の渦が湧き立ち始めた。
「<我、“大地の聖女”として命じる――>」
鈴が鳴るような静かな声音で綴られていく魔法の言の葉。呼応するように渦巻いた魔力が、灰色の髪を揺らがせて淡い光の粒子を彩って立ち昇っていく。
ルシアの強い魔力に反応を示した上空を飛び回るペリュトンが、次々に不穏な鳴き声を上げ始めたのがビアンカの耳に届いた。いつ滑空して降りてきても不思議ではない。さような気配を察し、上空に目を向けて息をつく。
「<万物の命育む偉大なる大地よ。その大いなる成長を阻む楔を解き放ち、我が前の障礙を屈する力とせよ>」
喧噪が立ち始める甲板上で、静かに紡がれていく言葉。徐々に大地へ命じる言が進んでいく中、海が聞いたことも無いような重い海鳴りを響かせる。
ついに船上に襲い掛かり始めたペリュトンたちと、剣を振るうビアンカと魔法の行使をするカルラを傍目に、ルシアは赤色の瞳で海を見据えていた。
「<ルシア・ギルシアの名の下に、大地の威厳をここへ示せ――>」
“大地属性”の魔法詠唱をルシアが終え、強い光が杖の先端から発せられたと同時だった。
海を唸らせていた音が一際大きくなり、波が航行船を揺らす。次の瞬間に、大海原を盛り上がらせながら、広大な陸地が姿を現した――。




