第八十九節 不明瞭な出来事
牙を向いて襲い掛かって来る魔物に斬撃を見舞わせる。声にならない苦悶が魔物の喉を鳴らし、動きを止めた。
魔物を仕留める度に身体が軽くなっていくのを、ビアンカは感受していた。
左手の甲に刻まれる“喰神の烙印”は、嬉々として魔物の魂を喰らった。自らの宿す呪いの節操無さに溜息が出る。
カザハナ港から次なる港町――、アサギリ港へ向かう街道。
道中は、ヒロが捕まえた行商馬車の護衛をするという約束で、その荷車に乗せてもらうことになった。
――『群島の魔物は滅多に人間を襲わない。だから護衛も必要ないんだけどね』
出発の前、ヒロが言っていたものはなんだったのかと思う。
カザハナ港を出て三日ほど経ったが、その間に魔物の襲撃を受けた回数は二桁に入った。オヴェリア群島連邦共和国の『滅多に』は意外と頻度が高いのね、などと思い馳せてしまう。
人間に害を及ぼさない魔物の討伐をすることは無い。少し大振りな動作で威嚇をすれば、大抵の魔物は恐れをなして退却してしまう。それがヒロの言であった。
獣と似たようなものならば、無理に命を奪って“喰神の烙印”の餌にしてしまうのも可哀そう。そんなことをビアンカは考えていたが、どういうわけか道すがら出くわす魔物たちは、揃いも揃って行商馬車に襲い掛かってきた。
「うーん。これで十回目の強襲か。妙だな……」
血糊を払ったカトラスを拭紙となめし皮で一通り拭った後、鞘に戻しながらヒロは言う。眉間には深い皺が寄せられ、事態の解せなさを考案する。
ヒロは喉の奥を鳴らしながら魔物の死骸の元へ歩んでいき、身を屈める。その様子を傍目に入れて、ビアンカもショートソードの手入れをして鞘に戻した。
「ねえ、おじさん。行商で動いていて、いつもこんなに魔物に襲われるの? 何か変な荷を積んでいたりとかしないよね?」
動かなくなった魔物の身体を調べるために触れ、ヒロは怪訝そうに御者台に座る行商人に声を掛ける。そうした問い掛けに、行商人である中年男性は否を示して首を激しく振るった。
「変なモンは積んでねえよ。普通に生活雑貨とか食料の類だけだし。何だったら検品してもらって構わねえくらいだ」
「ふむ。それにしたって、変なんだよねえ。群島の魔物は比較的に温厚なヤツが多いから、こっちが何もしていないのに襲い掛かって来るとか滅多になかったよね」
オヴェリア群島連邦共和国の陸地に生息する魔物たちは、ヒロの言う通りに温厚な気質なものが多い。否、多かったと今は言うべきであろう。
人間側が危害を加えたり出産と子育ての時期に重ならない限り、魔物側から襲い掛かって来ることは稀であった。例外としては――、餌となる動植物が不足すると人里に姿を現すことがあったものの。それも、ヒロが“オヴェリアの英雄”として国守の役割をこなすようになってから、餌不足で人間を襲うことは極々稀であった。
「ここ一か月ばっか、移動中に魔物に襲われたって話はよく聞くぞ。兄ちゃんたちは聞いてないのか?」
「それ、初耳。ちょうど群島を離れていた時期と重なるからかな」
商人の男性が言う一か月前後の時期、ヒロはオヴェリア群島連邦共和国の本国を離れていた。自身の住み家である無人島でオヴェリア群島連邦共和国の依頼書を受け取り、所有する船でソレイ港に向かって“ニライ・カナイ”航行船に乗り込むことになったからだ。
そして、当初ヒロの元に届いた“海鳥便”には、オヴェリア群島連邦共和国の陸地に生息する魔物たちが不穏な活動をしている旨は書かれていなかった。
それらを思い返すに、その時期は未だ魔物たちの動きは然程見られず、大事にはなっていなかったのだろうと推し量る。
今もまだ大きな被害が出ていないので、自身には知らせずにオヴェリア群島連邦共和国の本国で様子を見ている段階なのかもと推察して溜息を吐き出す。
「今までは街道沿いを移動してりゃ、魔物になんか出くわさなかったんだけどな。ここ暫くの間で襲われることが増えたみたいでな」
「被害者とかっているの?」
手を打ち払って汚れを落とし、ヒロは馬車に歩み寄って首を傾げる。それに商人は首を縦に数回動かし、魔物に襲われる被害を受けた存在がいることを表した。
「まだ死人が出たって話は聞かねえけど、俺の商売仲間なんかが大怪我を負ってる。荷を捨てて、なんとか命からがら逃げだしてきたって状態だ」
「なるほどね。だから僕が護衛を申し出た時、二つ返事で承諾したわけか」
「おうよ。兄ちゃんは腕が立ちそうだったし。連れの嬢ちゃんの方も腕っぷしが良いし、頼んで正解だったな」
ヒロとビアンカに交互に目を向けた商人が言うと、ヒロは僅かに苦笑いを表情に浮かせる。
常時であれば魔物に襲われることも無いため、馬車で楽に移動をしようという魂胆だった。しかし、図らずも魔物討伐が舞い込む事態に陥っており、それ故のヒロの苦笑いであった。
「まあ、お役に立てたようならなによりだよ。こうも頻繁に襲われるとは、僕も思わなかったけど」
「ああ、大助かりだよ。ありがとさん。――さて、早いところ乗ってくれ。こっちも納期があるから、のんびりしていられないんだ」
促しを受けるとヒロは宜いに頷き、ワゴン型の幌馬車へ先に乗り込む。そして、くるりと踵を返したかと思えば、ビアンカへ手を差し伸べていた。
「ありがとう」
「えへ、どういたしまして。足元、気を付けてね」
紳士然なヒロの動作にビアンカは返礼を述べ、差し出された手を取って馬車に乗り込むのだった。
◇◇◇
二頭立ての幌馬車に揺られ、屋形後部で後方へゆったりと流れ行く景色を眺める。
中央大陸や東西の大陸で見られるものとは全く異なる。オヴェリア群島連邦共和国独特の鮮やかな草花が生い茂る情景に、ビアンカは何度目になるか分からない感嘆の溜息を吐き出していた。
「あら……?」
不意と背に掛かる重さに声が漏れた。翡翠色の瞳を瞬かせ、首を傾いで背後に目を向けると――、凭れ掛かってきたものの正体はヒロだった。
「……寝ているし」
ビアンカが見止めたヒロは紺碧色の瞳を伏している。傍らにはビアンカのショートソードを含めた武器の手入れをしていた様子が窺い知れ、それが終わった途端に眠気に負けたのだろう。馬車の揺れる感覚がよほど心地よかったのだと思いなす。
“海神の烙印”がもたらす悪夢に苛まれることが無くなってから、ヒロの気が大分緩んでいると思う。そのことは、ヒロがよく居眠りをするようになったことから目に見えて明らかであり、今まで眠らなかった分を取り戻しているのではないかとビアンカが考えるほどだった。
それにしても、最近はヒロとの距離が近い。初めは手で僅かに触れる程度だった距離感が、いつの間にか今のような状況が増えてきていると思慮する。
ヒロの性質を理解しているユキやアユーシが言うには、ヒロの対人距離は極めて狭いということだった。なので、ビアンカも気にしないようにしていたものの――。流石に寝入って寄り掛かられてしまうと重いと感じてしまう。
「ヒロ、ごめんなさい。起きて?」
身を捩って腕を回し、ヒロに触れる。すると、はたとした様を見せてヒロは目を覚ました。ぼんやりした紺碧色の瞳がビアンカを映すと、すぐさま事様を理解したのか身を正す。
「ごめん、うとうとしちゃった。重かったよね」
「ふふ、ちょっとね。何かあったら起こしてあげるから、横になっちゃえば?」
馬車での移動を始めて幾度も魔物の襲撃があり、その都度ヒロは率先して動き続けていた。疲れもあるのだろうと思いやってビアンカが促せば、ヒロは素直に首肯する。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
言うが早いか、ヒロは身体を横たえ始める。それによって、ビアンカは驚いたように翡翠色の瞳を丸くしてしまった。何故ならば――。
「ちょ、ちょっと、ヒロ。何をしているの?」
「ん。膝、貸して。僕の荷物って固くて、枕にするのに向いてないから」
ヒロは当然のようにビアンカの膝を抱えて頭を乗せ、寝の体勢に入り始めたのだった。
ビアンカは難色を示したものの、ヒロは意に介さずに再び寝息を立て始めてしまう。
そうした様子にビアンカは呆気に取られ、仕方なさげに嘆息を漏らした。
「私って。やっぱりヒロを甘やかしすぎなのかしら……?」
ふと、“ニライ・カナイ”行きの船中で“喰神の烙印”に苦言されたことを思い出す。
自分としてはヒロを甘やかしているつもりは無い。しかしながら、現状を目の当たりにするとヒロが甘えてきている気がする。
気慣れてきたこともあり、出会った当初抱いたヒロへの警戒心は今や欠片も無い。別に嫌な気持ちなどは無いが、ここまで甘えてくる理由がビアンカには理解できない。
「女の子に甘えたいなら嘘をついて逃げてばかりいないで、本当のお嫁さんを早く迎えれば良いのにね」
癖が一切無い硬質な黒髪に触れると、ヒロは擽ったそうに身動ぎをするが起きる気配が無い。安心しきって眠っており、それに気を許されていると思いつつ。ビアンカの口元から微笑ましさを宿した小さな声が溢れ出ていた。




