第八節 風の申し子
湖の周りを吹きすさぶ風が、徐々に強さを増し――、辺りの草木を大きく揺らす。次第に草木の奏でる葉擦りの音色が、その音量を増していった。
カルラが立ち去ってから、ぼんやりとした様子で横たわっていたビアンカの耳に、少し離れた場所で釣りをしていたアインたちの声が聞こえる。風の巻き起こすさざめきに紛れて微かに聞こえる声の内容から、どうやら釣った魚を入れておく籠が突風で飛ばされたようだった。
その騒ぎ声に我に返ったビアンカも、自身の傍らに置いてある――、未だ魚の入っていない空の籠の存在を思い出し、勢い良く身体を起こした。
風で飛ばされそうになっていた籠をビアンカが確保し、ほっとしたのも束の間――。突として一陣の風が、ビアンカの亜麻色の長い髪を大きく乱す。
唐突に吹き荒れた風に、ビアンカが籠と乱れる髪を押さえていると――、彼女の視界の端に、緑色の布が翻る様が映る。
「――やあ。久しぶり、だね……」
風と共にその地に舞い降り、声を掛けてきた人物を見て、ビアンカは息を呑む。
そこに立っていたのは、ビアンカの良く知った存在だった。
肩ほどまでの長さで整えられた灰色の髪に、赤い瞳をした端正な顔立ちの少年――。
ただ、緑色を基調にした金縁の装飾が施された法衣はビアンカの見知った物ではなく、その胸元にはエレン王国の国章が刺繍によって描かれており、この国の軍属の立場にあることを彼女に窺わせた。
「ルシトッ――!!」
ビアンカは驚き、少年――、ルシトの名を呼んだ。
そんな驚いた様相のビアンカに、ルシトは口の端を持ち上げ微かな笑みを浮かべる。
突如として吹き荒れた風は、ルシトが扱う魔法の一つ、“転移魔法”によるものだったようで――、風は彼が現れた途端にすっかりと止んでいた。
風が止んだことで安堵した面持ちを見せ、ビアンカは籠を押さえていた手を離して乱れた髪を整え直す。そうしたビアンカの行動を、ルシトは赤い瞳を細めて見つめた。
「相変わらず、“ボウズ”なのかい?」
釣りをしていた様子のビアンカと、傍らに置かれている空の籠を交互に目にし、ルシトは悪戯げに笑う。からかいを含んだルシトの言葉に、ビアンカはムッとした表情を浮かべた。
「良いの。私の趣味みたいなものだから。魚が釣れても釣れなくても――、釣りで心を落ち着かせて安定を図っているのよ」
「はっ……! 賢人気取りってわけ?」
ビアンカの言い分を、ルシトは鼻で笑い一蹴りにする。鼻で笑われたビアンカは、更に不服そうな眼差しをルシトに向けていた。
「僕、前にも言ったけどさ。――本当、あんたは年寄りくさいな」
「それ、ルシトには言われたくないわ。私より、ずーっとおじいちゃんのクセに……」
売り言葉に買い言葉、といった状態で言葉の応酬を交わすビアンカとルシトだったが――。行き成りに言葉を収め黙したかと思うと、互いに笑いを零しあっていた。
「ある意味、元気そうで何よりだ。内心は――、くさくさとしているみたいだけれど?」
「んー……。まあ、ね。色々とあったから――、何か、考え事が多くなっちゃって……」
ルシトには隠し事をしても無駄である――、と。ビアンカは了しているため、彼には本音の言葉を吐き出す。それだけビアンカは、ルシトのことを信頼もしている。
ビアンカとルシトの付き合いは、彼女が“喰神の烙印”の呪いを継承した頃からという永いものであり――。ビアンカが一人旅を決意した後にルシトと別れてからも、十数年置きといった間隔で、二人は再会を果たしていたのだった。
再会の場は、主に戦争や動乱の最中――。ビアンカは戦場での将として。ルシトは彼の本来の役割である、人の為すことに介入する“調停者”として。過去にルシトが口にした通り、ビアンカが厄介事に巻き込まれる度に、二人は出会いと別れを繰り返していた。
ビアンカとルシトは、救われた者とその恩人という間柄であり、同じ戦場を駆け抜けた戦友という間柄でもあり。さもあらば、“腐れ縁”に近い関係にある。
それ故に――、ビアンカもルシトも、互いに遠慮の無い物言いができるのであった。
「――っていうか。この国の“神官将”って、やっぱりルシトのことだったのね?」
その場に座り込んだままのビアンカは、ルシトを見上げ問いを投げる。
ビアンカがさくら亭の手伝いをしている際に耳にした、エレン王国に存在する“魔法騎士団”を統率する立場にある“神官将”と称される軍職。その名称を聞いた時、ビアンカの頭には真っ先にルシトの存在が浮かんでいた。
そうして、今、自身の目の前に佇むルシトが纏う法衣に描かれたエレン王国の国章を見て、ビアンカの考えは確証へ変わったのだった。
「そうさ。この国が僕の属する場所。表向きは、“魔法騎士団”を従える“神官将”。だけれど、裏は――、あんたも知っている“調停者”という存在ってわけだ」
「エレン王国があなたの故郷だなんて、私、聞いてないわよ……」
「聞かれていないからね」
不満の色を声へ宿すビアンカに、ルシトはシレッとした態度で返す。さようなルシトの返答に、ビアンカは気に入らなさそうな面持ちを見せた。
「もう。ルシトってば、本当いつもそうよね。――それで、今度は何なの? 私に会いに来た、とかじゃないんでしょ?」
嫌味っぽくビアンカが言葉を発すれば、ルシトは「ふふ……っ」――と、微かに肩を震わせて笑っていた。
「半分正解の半分不正解――、ってところかな……?」
悪戯そうに笑うルシトの返しに、ビアンカは不思議そうに首を捻る。
「半分正解っていうのは――。城下街にある食堂に新しく入ったウェイトレスがいるっていう噂話で、城仕えしている騎士や兵士が騒いでいてね。『亜麻色の髪に翡翠色の瞳をした年頃の女の子で、左手に怪我をしているのか包帯を巻いている』、なんていう話を小耳に挟んだからさ……」
言いながらルシトは赤い瞳を細め、ビアンカを見据えた。
ビアンカが身を寄せているエレン王国の城下街にある宿屋兼食堂――、さくら亭の常連客には、この国の騎士や兵士という役職に身を置いている者も多い。
そのような中を、「見たことの無い女の子のウェイトレスが新しく入った」となれば、それは忽ちエレン王国の城内での噂話となり、城に殆ど詰めた状態でいるルシトの耳に入るまで大きく広がっていたのだった。
「――その話を聞いて、あんたのことだろうなって予見していたんだ。だから暇を見て、顔を出そうとは思っていた」
予想していなかったルシトの答弁に、ビアンカは翡翠色の瞳を丸くしてルシトを見上げた。ビアンカの吃驚の表情は、まさかルシトが自分に会うために訪れようとしていたなどと思ってもみなかった――、ということを雄弁に物語る。
ビアンカの呆気に取られた様子の面差しを目にし、ルシトは微かに優しげな笑みを浮かべた。
「もう半分の不正解っていうのは――」
ルシトは言うと、ふいっと顔を動かし、ビアンカに向けていた視線を外す。
「――うちの者を迎えに来たんだ」
「うちの者……?」
ビアンカが、その言葉に疑問を投げ掛けると、ルシトは頷く。
そうして、そのビアンカの疑問に応えるよう、顎を動かし――、アインたちの元へ赴いていたカルラを指し示していた。