第八十八節 思索生知
論じ合いは答えに行き着かず机上の空論となり、ビアンカとヒロ。そして、“喰神の烙印”が実体を持った姿であるモルテの話は散会することになった。
その後にモルテは「疲れたので休む」と言い放ち、霞のように姿を消した。
ヒロとビアンカは気を取り直してカザハナ港の散策を再開し、遅めの昼食を摂り始めて今に至る。
「もしかしたら、だけど。シャドウは僕たちがソレイ港で出会った時に、あの港街にいたのかも」
不意とヒロが口にした弁を聞いて、ビアンカは食べ物を口に運んでいた手を止めた。唐突に口切り出された言葉にビアンカが首を傾げると、ヒロは自分で納得したのか首を縦に動かしていた。
「どういうこと?」
「いや、ね。どうしてシャドウのヤツが群島にいたのかって、僕なりに考えていたんだけどさ」
箸を持つ手を休めることなく話続けるヒロに翡翠色の瞳を向け、ビアンカも食事を継続しながら耳を傾ける。
「ユキとアユーシが“ニライ・カナイ”行きの船に乗り込んだのは、ビアンカの“呪いの烙印”の気配をシャドウのものと勘違いしたからって言っていたじゃない?」
シャドウを追っていたユキとアユーシはソレイ港に行き着いた際、そこでビアンカの宿している“喰神の烙印”の魔力の気配を、シャドウの魔力と取り違えて“ニライ・カナイ”行き航行船に乗り込んでいた。
気配の取り違えを起こしたのは、シャドウが“邪眼”の強大な魔力から生まれ落ちた化身であったこと。そして、“喰神の烙印”の大本となった魔族が“邪眼持ち”の魔族であったことから、似たような魔力の波長を持っていたことが関係しているというのがユキの見解であった。
「それで、思ったのが――。その時は本当にシャドウがソレイ港にいて、偶々ビアンカもいた。そこでユキたちは似た気配を持っているシャドウとビアンカの魔力の波長を勘違いして、“ニライ・カナイ”行きの船に乗っちゃった。んで、僕たちが海に出ている間に、シャドウは群島行きの船に乗ったって感じなのかなってね」
ヒロが多弁に語る推察。確かに言われれば、事情の流れに然程不自然は感じないとビアンカは思う。
「シャドウもモルテも“邪眼”を持っているから、それで間違えたっていうワケね」
「うん。まあ、これは僕の憶測だけどね。どの道、シャドウが群島に渡ってきた目的は分からないし」
「ユキさんから貰った剣を狙ってという感じでも無かったしね。偶然出会った私が持っていて、それを盗ろうとされただけだったし」
「それだよ、それ。ビアンカが狙われることになるとか、思ってもみなかった」
先ほどビアンカが襲われることとなった事由を聞き、ヒロは憤りをシャドウに対して吐露していた。然る後に、ヒロはビアンカが一人でシャドウを追って危機的状況に陥ったことを咎め、珍しく叱責している。
ヒロからの苦言を受けてビアンカも反省の色を見せ、今後は独りで勝手な行動を取らないことを約束させられていたのだった。
「首まで絞められたんでしょ。自分じゃ見えないかも知れないけど、痣ができていて痛々しいんだよ」
ビアンカの首元を見据え、ヒロは眉間に皺を寄せた。頚状部を覆う繊細なレースの装飾が施される胴衣から僅かに見える首には、シャドウに捕捉された際に締め上げられた痣が残っている。
時間が経てば“呪いの烙印”が有する、宿主の傷を癒す力で消えはするだろう。
すぐに治癒能力が発揮されないのは、“喰神の烙印”であるモルテが疲れを訴えて退いたせいもある。恐らく、実体を現わすことは大きく魔力を消費することになり、それ故の疲労と治癒の遅延なのだとヒロは推して憂虞を抱いていた。
「“喰神の烙印”が実体を現わして消耗しているってことは、その分だけ君の傷が癒えるまでに時間が掛かる。――それと、魔力を補うために、また魂を必要とするってことだよね?」
「……そうね。モルテは実体を保つことに関して、特に何も言わないけれど。多分、ヒロが思っている通りだとは思う」
ヒロの憶測の言ではあったが、的を射ているとビアンカは思う。
“喰神の烙印”は先の船旅で海賊の襲撃を受けた際、海賊たちの魂を喰らった。常に空腹を訴えているそれが『腹が満ちた』と述べるほどだったので、かなりの魔力を蓄えたことを悟らせた。
しかしながら、その後にヒロの宿す“海神の烙印”に魔力を分け与えたことや実体を現わしてシャドウと交戦するなどが重なり――、既に大方の魔力を消費している状態にいるのをビアンカも感受している。
「なんていうのかなあ。“喰神の烙印”は、魔力の消費効率が良くないよね」
「それは、私も思っていたわ。無意識の内に魂を摂らないように気を付けないといけないわね」
ビアンカの返弁の内容に、ヒロは同意を示して頷く。
“喰神の烙印”の魔力が不足しているということは、また魂が必要になることを意味する。普段はビアンカが意識的に“喰神の烙印”が魂を掠め取る所業を制しているが、何の折で抑制を振り払って盗み食いをしだすか分からない。
それを考えると、早急に魔物でも構わないので、“喰神の烙印”に少しでも魂を喰わせることを余儀なくされている。
普段であれば無法者の魂を喰らうことを許可しているのだが――。オヴェリア群島連邦共和国の荒くれた者たちは、大抵がヒロの知人に当たるようだった。なので、そうした者たちを犠牲にするわけにはいかず、要領を得ない部分が多々あるとビアンカは思いなした。
「ところで。ヒロの方は“海神の烙印”の魔力って、どうしているの?」
“海神の烙印”が宿主の精神と苦痛を糧にすると言われているのは了している。しかし、それは酷く抽象的な言い回しで、どのような情態を指し示して魔力を補填しているのかを疑問に思った。
そうしたビアンカの問いにヒロは紺碧色の瞳を瞬いたかと思うと、次には微かに苦笑いを見せる。
「僕の場合はね。僕が精神的にも肉体的にも痛い目に会うことが、“海神の烙印”の魔力になるって感じかな。分かりやすく言うと、僕は自給自足をしているんだ」
「自給自足……?」
「例えば、戦っている時。僕が傷を負う度に、痛みが“海神の烙印”の糧になる。煩悶の感情を魔力に置き換えて、それで傷を癒すんだ」
「……だから、あなた。あんな戦い方をするのね」
ビアンカが眉を曇らせると、ヒロは幾度か頷いた。
「大きな怪我をすると、その分だけ治りも早い。痛い目に会えば逢うほど強い力が使える、って感じなんだろうね。海賊船を沈めた時みたいな呪いの魔力を行使すること自体は自由にできるけれど、大きく力を使えば使うほど代償の痛みも酷くてさ」
「“海神の烙印”の力は、まだまだ分からないことが多いから。確信は持てないかしら?」
「そうだねえ。僕はこれを使いたくなくて頼らないようにしているし。だから余計に分からないことが多いね」
「もし可能なら、ヒロに魔力を少し分けて貰えればって思ったけれど。それも難しそうね」
「あう。“喰神の烙印”に受け渡す魔力を用意ってなっちゃうと。僕、本当に死ぬほど痛い目に会わないとダメかも……」
ビアンカの思惟を聞いた途端、ヒロは申し訳なさげに返弁を述べる。その返しにビアンカはゆるりと首を振るった。
流石に“喰神の烙印”に“海神の烙印”が持つ魔力を与えるとなると、宿主であるヒロへの負担が大きい。
多少なりとも予想はしていたが、それが不可能なのは致し方ないとビアンカは惟う。
「兎に角、さっきも言ったけど、君は一人で行動しないこと。守ってあげるって約束はしたけど、近くにいてくれなくちゃそれもできやしないんだからね」
昼食の最後の一口を食み、ヒロは言う。そうしたヒロの言に、ビアンカは素直に宜いに首を振った。それにヒロは満足げに頷く。
再三の窘めの言葉。それを聞いて、ヒロがどれほど自身を心配したのかをビアンカは推し量る。内心でヒロの過保護ぶりを思い、苦笑いしてしまう。
「あとは、ユキとアユーシに連絡を付ける方法があればなあ。シャドウのことに関しては、ユキに無断で何とかしちゃうわけにもいかないし……」
「ユキさんが魔力を取り戻したいのか、それとも封印をしてしまいたいのか。その辺りは、聞いていないものね」
「そうなんだよねえ。またシャドウに出くわした時、どうすれば良いのか。――あ、ビアンカ。お肉、貰っちゃうね」
「ええ、どうぞ」
話の合間に箸を握るヒロの手が、ビアンカの皿に伸びる。彼女が肉を食べないことを了得している故のヒロの行動だったが、話の腰を折るような行動にビアンカはくすりと笑ってしまう。
ビアンカも自身の食事を終えて箸を盆に置き、残した肉をヒロが食すのを目に入れながら一顧しだす。
「ツクヨミにお願いって出来ないの?」
ヒロが『海鳥便』と呼び、オヴェリア群島連邦共和国の重鎮たちとのやり取りに利用している魔物――。セイレーンのツクヨミを思い出し、ビアンカは口切った。だがしかし、ヒロは首を左右に振る。
「あいつはねえ。僕と首都の間と、“調停者”のところにしか行き来ができないんだ」
「ユキさんから貰ったショートソードの魔力を感知させて、とかは無理なの?」
「難しいね。ツクヨミは知能が低いタイプの魔物だから血の匂いには敏感だけれど、魔力を感じ取ってっていう高度なことはできないんだ」
「そっか」
ユキの居場所を探し出す妙案だと思ったのだが、セイレーンという魔物が思いの外に知能の低い存在であることを知らされ、ビアンカは残念そうに肩を落とす。
知能が高く魔法の扱いに長け、かつ目的人物のいる場所まで移動できる能力を有するもの――。
さような人物がいないかヒロは考え、はたとビアンカに紺碧色の瞳を向けた。
「そういうのって、“調停者”ならできるかもしれない」
「え?」
「“調停者”って魔法や魔力の扱いが凄く得意だから。ユキの魔力をショートソードで感じ取ってもらって、そこに魔法で飛ぶっていうのは可能かも」
「ああ、なるほど」
“呪いの烙印”の監視や管理、人間たちの行う所業に介入する役割を持つ“調停者”は総じて強大な魔力を持ち、魔法を扱うことが得意である。
ビアンカの知るルシトも類稀なる膨大な魔力を操り、転移魔法を行使して神出鬼没に現れるくらいなので、ユキの魔力を感じ取り彼の元に赴くことは容易いだろうと推察できた。
「まあ、やってくれるかは。彼女の気分次第だけどね」
「ヒロのところに来る“調停者”って女の人なの?」
「そうそう。ビアンカと同い年くらいの見た目をした女の子。“群島諸国大戦”の頃から付き合いのある子なんだ」
「へえ。なんていう名前の人?」
「ルシアだよ。ルシア・ギルシアっていうんだ。元同盟軍の一員でね。魔法に関してだけは超一流なんだよ」
朗らかな笑みで返された“調停者”の名を聞き、ビアンカは思い掛けない人物との邂逅を予感し、頬を引き攣らせてしまうのだった。




