第八十七節 名付けの意味
“真名”を付けるというものは、真なる力を引き出すために名を与える行為だった。古い時代には武器や防具などといった身に着けるものに真名を付け、その装具が持つ力を誘起するための呪術じみた考えの中で行われてきていた。
オヴェリア群島連邦共和国には真名を付けられたことによって、『妖刀』と呼ばれるに至った強い魔力を有する武器の伝承も存在する。
つまりビアンカは“喰神の烙印”に真名を授け、呪いの魔力を高める所業を行ったということになる。
そのことを考え馳せたヒロは呆れを通り越した感情を内に宿し、頭を抱えたい思いに陥った。
(ビアンカってば。まだ年若いから、怖いもの知らずなのかなあ)
なまじ歳を重ねて呪いに関する不幸な情報を得て恐れている自分自身より、三百歳以上も歳が下であるビアンカの方が“呪いの烙印”に関していえば、上手く扱うに足る知識と技術を有している。それを『年若い』という解釈で、若さ故の怖めず臆せずという一言で纏めてヒロは嘆息した。
自分だったら“海神の烙印”に真名を与えようなどと、露ほども思わないだろう。きっとろくなことが起こらないと、確信を以て言えるなどとも考える。
(しかし――。この男の子が、あの“喰神の烙印”が実体を持った姿か。それにしたって……)
そこまで慮って、ヒロは頬が緩むのを自覚した。咄嗟に口元に手を押し当て、それを隠すものの――、今の思いが露見したら何をされるか憂慮する。
狼狽と困惑をして、無意識に首を落とす。しかしながら、肩が震えるのが止まらない。
「……ヒロ。どうしたの?」
不意にヒロが項垂れて震えだしたのを目にしたビアンカが、心配そうに声を掛けてくる。そんな彼女にちらりと紺碧色の瞳を向ければ、嫌でも目に入って来るモルテと名付けられた幼さを抱懐した少年の姿――。
「あーっ!! もうダメっ!!」
限界だと言わんばかりに、ヒロは垂れていた頭を勢い良く上げて大声を立てた。突然のヒロの言動にビアンカが翡翠色の瞳を丸くして驚くと、次にヒロは破顔して大きな笑い声を上げていた。
「こいつが、あの“喰神の烙印”とかっ! あんなに、威圧的な態度なのにっ、なんで子供の姿なのっ?! 可笑しくて、もう耐えるのっ、無理っ!!」
ヒロは腹を抱え、笑いの合間に言葉を切れ切れに発する。唐突なヒロの大笑いに、ビアンカは呆気に取られた表情を浮かべてしまう。
嘲りの対象となったモルテは、不愉快げに眉間に皺を寄せる。そして深く溜息をついたかと思うと手にした大鎌の石突を持ち上げ――、ヒロの向こう脛に思い切り叩きつけた。
「痛いっ!!」
笑壷に入り目尻に涙まで浮かべていたヒロは思い掛けない暴挙に喚き、跪く。殴られた脛をさすって苦悶に喉を鳴らし唸っていると思えば、不服を言い表した眼差しでモルテを睨む。
だが、モルテは悪びれた様子を一切見せずに当たり前と言いたげに、鼻を鳴らして一笑を立てた。
そうしたやり取りを目にしたビアンカはヒロとモルテの相性の悪さを察し、頬を引き攣らせて苦笑いする。
「周りには不可視の結界が張られていたようなのに、よく若造共が入って来られたものだな」
「……今のお前の見た目で『若造』って言われるの、凄く複雑なんですけど」
冷ややかな視線を投げ掛けていたモルテが言うと、痛みから眉間に皺を寄せて足をさすっていたヒロは誣言を口にしつつ立ち上がる。涙を浮かべた目元を拭い、気を改めたように嘆声を立てた。
「まあ、良いや。最初に袋小路へ来た時は、気配はするんだけれどビアンカたちの姿が見えなかったんだよ。んで、何が起こっているのか悩んでいたら、“海神の烙印”の人魚が姿を現してね」
ビアンカがよくよくヒロの左手を見やると――、彼は革の手袋をしていなかった。顕わになった左手の甲に刻まれる“海神の烙印”は赤黒い燐光を発しており、呪いの力を行使したことを物語る。
「“海神の烙印”を使ったの? 代償は……、大丈夫?」
「うん、大丈夫。“海神の烙印”がビアンカの心配をして、無償で力を貸してくれてさ。その力で結界を壊したんだ」
ビアンカの問いに、ヒロは左手を軽く上げて微かな笑みを作る。
ヒロが口述した通り、彼が路地に入り込んだ際には誰の姿も見えなかった。人がいる気配を感じはすれども、ビアンカたちはおらず音すらも聞こえなかったのだ。
さような事態にヒロが首を傾げていると、“海神の烙印”が生み出した人魚の女性たちの声が聞こえた。“海神”の人魚は口々にビアンカが危ない目に会っていることを綴り、自分たちが力を貸すのでビアンカを助けてやってほしい旨をヒロに告げたのである。
だが、ヒロは“海神の烙印”がもたらす凄惨な痛みで動けなくなることを思い、その使用を躊躇した。そんな彼に“呪いの烙印”は代償無しで力を貸すことを申し述べたのだった。
「こんなこと初めてだったから、ビックリしちゃったよ。“海神の烙印”、よっぽどビアンカが気に入ったんだね」
今は再び鳴りを潜めている“海神の烙印”へ紺碧色の瞳を向けると、ヒロは苦笑いを表情に見せた。
“海神の烙印”の人魚は、どういうわけかビアンカを敬愛している。宿主である自身と似たような情を“呪いの烙印”が抱いていることに、内心で笑ってしまう。
ヒロが“海神の烙印”と単独で意思疎通を行ったことを聞き、ビアンカはどことなく嬉しそうな表情を浮かべていた。それを目にしてヒロは苦笑いだった面持ちを緩め、照れ臭そうに笑う。
「上手く“海神の烙印”とお話できたみたいで良かったわ。あと、助けに来てくれてありがとう」
「どういたしまして。君を守ることができて良かったよ」
「ふふ、守ってくれるって約束していたものね。――ところで、“海神の烙印”の人魚たちにも、お礼に真名をあげちゃ駄目?」
「ぜーったいダメっ! それは勘弁してっ!!」
ビアンカの強請るような提案に、ヒロは大慌てで腕を交差させる拒否の身構えを取った。断られることを予想していたビアンカは、やはりと言いたげに苦笑する。
しかし、ビアンカからの求めが珍しいのもあり、ヒロは組んだ腕を崩すと顎に手を押し当てて考える様子を見せた。そして、首を傾げながら口を開く。
「……因みに。名付けるなら、なんて付ける気?」
「そうね。あの子たちの声は三人分みたいだし、“ファー”と“フラオ”と“フラウ”なんてどうかしらって思ったんだけど」
「どれも古い言葉で『人魚』を意味するやつだね」
恐らくは何れ名付けるつもりで前々から考えていたのであろう。思案する間も空けずにビアンカが答えた名を聞き、ヒロは嘆息してしまう。
「何ていうかな……。ビアンカの名前の付け方。なんか、残念だよね……」
“喰神の烙印”の痣は死神を印象付ける形をしていることから、東の大陸で『死神』を意味する古い言葉である『モルテ』と名付けたのだろう。
そして、“海神の烙印”は痣の形と化身の姿が人魚なため、中央大陸や東西の大陸の古い言葉で『人魚』を意味するものを選んだのだとヒロは察し付く。
今後もし、何かの折で自分の気が変わった際に参考にしようと思い聞いてはみたものの。ビアンカの口から出たそれらを聞き、安直な名付けの方法に残念な思いが湧き上がった。
「あら、そう? 分かりやすくて良いと思うんだけど?」
キョトンとしてビアンカが首を傾げると、彼女が本心から考えた名が良いものだと思っていることをヒロは悟る。
なんでも卒なくこなし、不完全な部分が少ないと思っていたビアンカの意外な一面。それに気付いたヒロは、可笑しそうに頬を緩めた。
「いや。ビアンカが変に思わないんなら、別に良いんだけどね。ちょっと意外な感性が見られて、面白かったよ」
ヒロが嫌味も無く嬉しげに口にすれば、ビアンカは不思議そうにしていた。
「さて、それにしても。なんで群島にあいつがいたのかが、気になるところだな」
「ヒロはあの人のことを“シャドウ”って呼んでいたけれど、会ったことがあったの?」
不意と気持ちを切り替えるようにヒロが口切り出す。その言葉に反応を示したビアンカが疑問を口にすると、ヒロは頷いて然りを示した。
「ユキとアユーシに会ったばかりの頃に、僕がアユーシに剣術を教えることになった話はしたでしょ。その時に滞在していたソレイ港近くの村でちょっとした騒ぎがあってね」
それは今から三年ほど前の話だった。
ヒロはソレイ港でユキとアユーシに出会い、剣法書に則った駆け引きしかできなかったアユーシに剣術示教をすることになった。
そこでヒロはユキとアユーシが旅をしている理由を聞き、期しくも二人の追う存在がソレイ港近くの村に姿を現したのだ。
「二人と一緒に村に向かったんだけれど、どういうワケか村は魔物に襲われていてね。その魔物の集団を率いていたのが、シャドウだったんだよ」
「あの人は魔物を使役するの?」
「“邪眼”の力で無理矢理に従わせていたっていう感じかな。あいつが姿を消した途端に、魔物たちは我に返ったみたいに逃げていったし……」
当時のことを思い返し、ヒロは語っていく。
「その時は村にあった小さな教会の神父だけが殺されてね。他の村人たちに被害が無かったのが、凄く不思議だったんだ」
ヒロたちが村に駆け付けた時、その農村は魔物の群れに襲撃を受けていた。
三人で何とかできるのかとヒロは憂虞したが、不可思議なことに魔物は村人を一切襲わずに、家屋の破壊と――、村に唯一あった小さな教会だけを襲った。
魔物からの激しい侵攻の最中で、教会にいた神父だけが命を落とした。しかも魔物に襲われたのではなく、シャドウ自らが手に掛けたのをヒロは目撃している。
ヒロはシャドウと交戦するに至っていたが、分が悪いと見たシャドウは早々に撤退。シャドウが姿を消した途端に、村を襲っていた魔物たちまでもが退去していったという。
「ユキとアユーシが言っていたと思うけれど、シャドウの奴が何を目的に動いているのかは全く分からない。なんで村の神父を殺したのかも、結局は分からず終いだったんだよね」
「……あいつは人間に強い恨みを抱いている」
「え?」
今まで黙していたモルテが不意に口にした言葉。それを聞きつけ、ヒロは紺碧色の瞳を瞬いた。
「“喰神”――。えっと、モルテはなにか知っているのか?」
「詳しく知っているわけではない。先ほどのあいつの話しぶりを聞くと、そう推察できるというだけだ」
「そういえば、そうね。あなたに投げた問い。あれは人間に対して良い感情を持っていない、そんな口振りだったわ」
ヒロからの問いにモルテが返弁を述べると、ビアンカは同意を表した。
シャドウとモルテが対峙して、交わし合っていた会話。ビアンカも傍らで耳にしていたが、その内容は人間に対しての不信の情を感じさせるものだったと思う。
「あいつとは随分と昔――。まだ宿主が小僧だった時に出くわしたことがあるのだが、あの時は人間に対して不義などを語っていなかった」
「小僧って、ハルのこと?」
モルテの言にビアンカとヒロが反応すると、モルテは首肯する。
それらを聞き、ヒロは「ふむ」と小さく喉を鳴らした。
「つまりは百年くらいの間に、何かがあったってことか……」
「ユキさんもその辺りは覚えていなかったみたいだし。何があったのかしらね?」
考えてみても答えには辿り着かない。かような机上の空論と化している事態に、ヒロもビアンカも気の晴れない思いから溜息を吐き出すのだった。




