第八十六節 モルテ
広めな幅のある路地で空を切る音が立ち、大鎌が振るわれる。形状上、大振りにならざるを得ない一太刀は他愛無く躱されるが、蘇比色の髪が翻りきる前にショートソードを構えたビアンカが少年の陰から躍り出て刺突を繰り出す。
「ひひひ。甘いっ!!」
青年は嘲笑すると剣を握る腕を逆袈裟に振り上げた。その一振りは剣戟の音を立て、ビアンカの攻撃を手軽く去なす。
剣筋を変えられたことを意に介さずにビアンカは更に踏み込むと、左手に握った短剣で一線を描く。しかし、不意打ちも他者の思考を読み取る力を持つ青年には隠せず、いとも簡単に回避される。
そこへ間髪入れずに少年が再び大鎌を薙ぎ払い、ビアンカに向けて反撃の剣を打ち振る青年を退かせた。
「ほうほう、大した連携っぷりだ。しかしなあ。遊んでいるのがチビ二人だと、間違えて首を叩き切っちまいそうだぜ」
青年は二対一の状況を歯牙にもかけず、先と変わらずに構えすら取らずに立ち振る舞う。
揶揄うような態度を取られ、ビアンカは不愉快を言い表す表情を浮かせるが、少年は涼しい顔付きで再び地を蹴って青年に立ち向かっていく。
そうした少年の無謀とも取れる行動に、青年は口角を上げて楽しげな笑みを作った。
「相変わらずテメエは考えていることが読めねえなあ。何を考えて人間に力を貸す? 何に期待している?」
「……黙れ」
「是非とも一意見としてお聞かせ願いたいもんだな。人間に期待して、何になる?」
大鎌の軌道を見極めて一撃一撃を剣で弾き、躱しながら青年は問いを投げる。
「人間は恩を仇で返す存在だって、テメエもその身を以て味わっているだろ?」
「…………」
少年が返弁を述べずに黙したままで大鎌を薙げば、青年は質疑を重ねて無骨な剣を振るう。その攻めを少年は大鎌の柄で流し、石突部分での刺突を繰り出す。その動きを認めたビアンカが地を蹴って、ショートソードの先端を鋭く差し向けていた。
「答える気は無いわけか。昔っからテメエは面白味に欠けるヤツだな」
青年はビアンカと少年の連携を容易に避くと後ろへ飛び退り、大げさに肩を竦める仕草を見せた。表情がつまらなさを弁じたかと思うと、漸くまともな構えらしい構えを取る。
「――まあ、良い。答える気が無いっていうなら、用はねえ。宿主の小娘共々、始末してやるよ」
今までよりも幾音か下がった声音で紡がれる不穏な言葉。それに対し、初めて少年が銀の双眸を細め、差し固める感情を露わにした。
「娘。注意しろ――」
本気で来るぞ、と。そう注意を促す意味を込めた言葉を少年が発すると、ビアンカは首肯を示す。
ビアンカはショートソードと短剣を左右の手に強く握り、襲撃に備える。
「…………?」
構えを取ったビアンカの耳に、ふと海波の音が聞こえた気がした。しかしながら、入り込んでいる路地から海は僅かばかり距離が離れており、耳に届くにしては随分と近すぎる波の音だと思った。
それが何故なのかを考える前だった――。
突として辺りの空気が一変した。まるで“呪いの烙印”を行使した時のような禍々しい気配が路地に満ちる。
青年の眉間が微かに寄り、不詳の事態を引き起こした張本人が青年ではないことを物語った。
海鳴りが響き、青年の周囲に黒い波が沸き上がる。あり得ない波紋に青年が怯むと、瞬きの間に波の中から黒い人魚が踊るように姿を現した。
「これは……っ!!」
唐突な出来事に青年の口から吃驚の声が上がる。
青年の驚きを気に留めることなく黒い人魚はケラケラと笑い声を発し、腕を大きく掲げて鋭い爪先で斬り込む姿勢を見せた。それを咄嗟に迎撃した青年の剣が人魚の胴を斬り払うが、闇が形作った身体を斬る手応えを感じずに青年の口から舌打ちが漏れた。
騙し討ちの実体が無い攻撃だと青年が察し付いた瞬間――、銀の双眸が映したのは太陽の光を反射させる煌めきだった。
右手に握る剣を左側を狙った一線の軌道上に乗せる。いちどきに響き渡ったのは、剣戟の音。
「おお。流石に戦い慣れしているヤツの一撃は、重さが違うねえ」
愉快げな笑いを織り交ぜながら青年は跳ね退く。動きに合わせ、黒色が追撃を掛けるために距離を詰め、再び剣の光る軌跡が蛇行を描き出す。
「シャドウッ! なんでお前が群島にいるっ?!」
両の手にカトラスとソードブレイカーを握るヒロが吼えた。
立て続けに薙ぎ払われていくヒロの手早い斬撃を、手にした剣身で受けて身を返し躱しながら青年――、シャドウは悦楽に唇を歪める。
切り返しに流れる処刑人の剣は金属同士の打ち当たる音を立ててソードブレイカーに防がれるものの、剣身の太さから刃砕きでは捉えきれず盾替わりに攻撃を去なす。
それまでのビアンカと少年の稚拙な動きを相手にしていたものとは違う、場数を踏んで戦い慣れをしたヒロの力に押されてシャドウは一歩ずつ後退の姿勢を見せるのだが、背後に再び闇を纏った黒い人魚が立ち塞がり彼の退路を封じる。
シャドウは背面を完全に人魚に取られる前に高く跳躍すると、ヒロの背後に降り立ち強襲を仕掛けるが――。
「相手は一人でないと、忘れるな」
シャドウの側面から薙ぎ払われる少年の大鎌とビアンカの剣。それらを瞬時に剣の軌道を変えて打ち払い、シャドウは飛び退ると腹立たしげに舌打ちをつく。
「ひひひ、三対一か。“喰神”と“海神”が相手じゃあ、流石に分が悪いな。――また出直すとしようかねえ」
「逃げるのかっ!!」
「戦略的撤退だっての、脳筋が。テメエも条件反射で動いてっから、攻撃の手が読めなくて“喰神”の野郎と一緒に相手にすんのが面倒くせえ」
ヒロが声高に挑発を掛けるが、シャドウは小馬鹿にする一笑を立てる。それによってヒロの鼻上に不愉快を表現した皺が寄る。再度の踏み込みと共にカトラスの切っ先がシャドウに向くが、有無を言わせぬ刺突をシャドウは脚に力を籠めて飛び上がることで避けていた。
跳躍したシャドウは塀の上に着地すると、余裕の笑みを浮かせる。銀の双眸を細めた眼差しは、対峙していた一同を見下さんばかりの高圧的なものを窺わせた。
「その剣はひとまず預けておいてやる。 せいぜい“喰神”の魔力を喰わせておいてくれ」
ビアンカに視線を向け、シャドウは唇に弧を描く。投げ掛けられた言葉にビアンカの眉間が寄るが、シャドウは不敵な笑みを見せると塀を蹴り場を後にしてしまう。
緊張感を孕んでいた路地の空気が、立ちどころに静けさを取り戻す。
シャドウが逃げ去ったことを認めると、ビアンカとヒロの口元から気が抜けた嘆声が漏れ出していた。
「……いったい、なんだったの?」
ビアンカが疑問を溢れさせたのを聞きつけたヒロが武器を鞘に戻し、紺碧色の瞳をビアンカへ向けると――。剣を鞘に納めてストールを巻き直しているビアンカが、白銀髪の少年に鋭い眼で睨みつけられているのが映った。
少年は冷ややかな眼差しで不服さを吐露しており、さような様子にビアンカは頬を引き攣らせてたじろぐ常態を窺わせている。それは、どこか気を許し合っている雰囲気をヒロに感受させ、彼の首を傾がせた。
「ビアンカ。その子、誰?」
不思議に思ったヒロが近くに歩み寄ると助けが来たと言わんばかりの目をビアンカはヒロに向け、少年は邪魔が入ったという心情を醸し出す嘆息を吐いていた。
「えっと。――ヒロも知っている子、かな?」
「へ?」
ビアンカが眉尻を落として困り果てた声音で言う。ヒロは予想していなかった返弁に増々首を傾げてしまう。
ヒロは改め、少年の姿を見据えた。前下がり気味に切られ、前髪が長く伸ばされた白銀色の髪。垂れ落ちた前髪から見え隠れする鋭さと威圧感を覚える銀の双眸――。
銀色の瞳に気付いたヒロは、そこで眉を寄せていた。
「……銀色の目。それって、もしかして“邪眼”じゃない?」
些か抱いた警戒心から、つい低い声音が口をつく。しかし、少年の正体に気付いた様子をヒロは感じさせず、ビアンカに苦笑を漏らさせた。
「“ニライ・カナイ”行きの船で、ヒロも姿を見たんじゃないかと思うんだけど……」
「娘よ。わざわざ若造に教える必要も無いだろう。私は退がるぞ」
ビアンカの言と、少年の声と話し方。それを耳に入れた途端に、ヒロの顔付きが変わった。なにかを回顧した様を表情が物語り、見る見る内に驚愕の色を宿していく。
「え、ええ?! そ、それって……、まさか……」
ヒロが漸く感知を浮かべると、少年は忌々しそうに舌打ちをついた。
「う、嘘でしょ。もしかして……、君って、“喰神の烙印”……? え? え? 本気でっ?!」
ビアンカと少年へ紺碧色の瞳を忙しなく移し、ヒロは狼狽して早口に言葉を綴る。信じられないことを顕著にした態度に、ビアンカは可笑しそうにくすくすと笑った。
「本当よ。この子は“喰神の烙印”が実体を持った姿なの。“ニライ・カナイ”での海賊騒ぎで更に力を強くしてね。その時から、こうやってヒトの形を取れるようになったらしいのよ」
「なんだって、また……」
「この子が言うには、私が真名を付けたからだって」
「真名をあげたの?!」
ヒロが吃驚の声を荒げると、ビアンカは首肯した。
「この子の名前はモルテよ。ヒロも仲良くしてあげてね」
「モルテ……。確か、東の大陸の古い言葉だね。意味は『死神』だったか……」
少年――、モルテと名付けられた“喰神の烙印”に再び紺碧色の瞳を差し向け、ヒロは口元に手を押し当てる。かと思うと、不意と頭を伏して俯く。
ビアンカが何事かとヒロを見つめると、彼の肩が微かに震え始めていた。




