第八十五節 死神の少年
「う……、くっ――」
ビアンカの口端から苦しげな声が漏れる。眉間には深く皺が寄り、顰められた表情は苦悶を彩っていた。
青年は一足飛びでビアンカと距離を詰めたかと思えば、差し伸べた左手でビアンカの首をわしづかみにした。そのまま勢い良く彼女の身体を背後の石壁に叩きつけ、容赦の無い力で細首を絞め上げていく。
首を絞めつけてくる腕を外させようとビアンカは青年の腕を両手で握るが、強い力は緩まず、徐々に息苦しさを感じる。
「ああ、そうか。あいつの気配がすると思ったら。――お前、あの剣を持っているな?」
低い声音で綴られる青年の言の葉。銀色の双眸は細められ、視線はビアンカの腰辺りに向けられていた。そうした青年の言動に、ビアンカは思惟を察する。
そこには黒い外套の下に隠すように携えられた、ユキから譲り受けたショートソードがある。
思うに、青年が語る『あいつ』はユキのことを示しており、先に述べられた『天使女』というのはアユーシのことを言っているのだろう。
「どうやって手に入れた? あいつから盗んだのか? あいつを殺したか?」
矢継ぎ早に問いを投げ掛けられる。それに「そんなことをするはずが無い」と返そうとするも、首を絞められているために声も上手く出せず、ビアンカは艱難を窺わせた。
(――どう、すれば良い? この人はいったい、何をしたいっていうの……?)
意識を落とさない程度の絶妙な力加減で首絞され、ただただ青年の腕を掴むしかできない。何とか現状の打開策を考えなくては、死ぬことは無いにしても場合によっては“喰神の烙印”が何を仕出かすかが分からなかった。
焦燥と息苦しさにビアンカが苛まれている最中、彼女の左手の甲――。“喰神の烙印”がざわりと蠢きと痛みを一際強くしたのをビアンカは感じ取っていた。
「まあ、どちらにしろ。それは俺の剣だ。返してもらうぞ――」
唇を歪めた愉快げな笑みを浮かし、青年はビアンカの左腰に手を伸ばす。外套の下に潜り込んだ右手が、ショートソードに触れようとした瞬間だった。
突として剣の鞘部分が強い光を発する。魔力とは違う神聖さを帯びた力が放出されたかと思うと、バチンッ――、と弾くような音が辺りに響き渡った。
瞬き程度の僅かな時だったが青年は咄嗟に手を引き、不愉快極まりないことを顕著に見せる。
「くそっ、あの忌々しい天使女めっ! 俺様のやることなすことを阻もうとしやがって……っ!!」
舌打ちと共に漏らされる悪態と憤り。銀色の瞳は変わらずに、ビアンカの左腰に向けられたままだった。
その状況を目にしてビアンカは、ユキから譲り受けたショートソードの鞘に、アユーシが身に着けていた白いストールが巻き付けてあることを思い出した。この“邪眼”の魔力から生まれた青年は、アユーシの魔力を帯びたストールが有する神族の神気に阻まれたのだと察し付く。
ビアンカに害をもたらさないところを見ると、恐らく敵意を抱く存在を拒絶する“光属性”魔法独特の能力が籠められているのだと推し量った。
「なるほど。敵意を向ける相手には、触れられないようになっているってか――」
青年が納得した様子で呟く。その言葉を聞き、ビアンカの眉がピクリと跳ねた。
まるで考えを読み取られたようだと思った。いや、実際には考えを読み取られたのだと――。
ビアンカが思慮していると、青年は彼女に銀の双眸を向けてニヤリと笑う。「正解だ」と、表情で青年は物語る。
(そういえば、“邪眼持ち”の魔族は精神に干渉して、相手の考えを読み取る能力を持っているって……)
そろそろ首を絞め上げられるのも限界だった。このままでは本気で不味いと、良策に思考を追いやっていく。
さようなビアンカの考えをも読み取る青年は、可笑しそうに一笑した。
「“喰神”の小娘。お前が癪に障る布を引っぺがして剣を俺に渡せ。そうすれば、命までは取らねえ」
銀色の瞳を細め、青年は提案を持ちかける。それにビアンカは涙の膜を湛えた翡翠色の瞳を向け、微かに首を縦に振るう。
ビアンカは弱々しい力で青年の腕を掴んでいた手を降ろし、自身の羽織る黒い外套の下へと差し込んで漁り出す。
素直に応じたビアンカを目にして、青年は唇を満足げに歪めるが――。
不意に外套の下に潜り込んでいたビアンカの腕が振るわれ、銀の軌跡が煌めいて尾を引いた。
「ちっ――!!」
忌々しげな舌打ちをつくと、青年はビアンカの首から手を離して飛び退る。
銀の線を描いたものは、ビアンカが手に握る短剣だった。しかし、その刃先は紙一重のところで青年には届かずに空を切った。
ビアンカは喉を通り抜ける空気の刺激にむせ込みながら、表情を顰めて翡翠色の瞳を鋭く青年に差し向けて短剣を構える。
そんなビアンカの態度を目にして、青年の表情が気疎いの色を宿していく。
「テメエ、腹立たしい小娘だなっ!!」
怒気を帯びた低い声が青年の口端を漏れると、拳を握った手が振るわれるのが見えた。
殴られる。そうは思いながらもビアンカは身を庇うこともせず、短剣を構えたままでいた。
翡翠色の瞳で真っ直ぐに青年を威圧的に見据える。気丈な、何か策を考えていたような様子を目にし――、青年の眉が不快げに動く。
「ふっ――、ははははははっ!!」
ビアンカへ向けた拳が下ろされる寸前に、突として青年の口を笑声が溢れ出した。
大声で笑いが上がったと共に、青年の背後から空を切る音が聞こえる。殺気ともいえる気配を察した青年は、瞬時に高く跳ね上がることで線を引いて薙ぎ払われた一撃を躱していた。
身軽に中空へと身を返した青年は身体を捻ると、自身へ武器を振るった存在の背後へ降り立つ。
「どうにも妙なことを考えていると思ったら――。なるほど、そういうことか……」
くつくつと嘲り零される笑い。その存在が何者であるかを悟った青年は、怯むことなく愉快げに腕を組んで佇立した。
青年を背後から強襲したものの正体は――、二桁の年齢に入ったばかりという年頃の、幼さが残る顔立ちをした少年だった。
前髪だけが長く伸ばされた白銀の短髪。その髪の合間から見え隠れする銀の双眸は、敵意を持って青年を見据えている。
手には身の丈に不釣り合いな大鎌が握られ、身に纏った黒い衣服と相まって恰も死神の風体を印象付けた。
「まさか実態を持てるほどとは、余程その小娘と相性が良いんだな。恐れ入るぜ」
尚も青年は厭わしい笑みを浮かし、唐突に姿を現した少年を見やる。
反目で少年は鋭く青年を睨みつけたまま表情を変える様子もなく、手にする大鎌を静かに構えた。
「だんまりってか? 相変わらず、テメエは可愛げってモンがねえよなあ?」
「……生憎と私は貴様のように、お喋りが達者になれなかったのでな」
「はっ! それだけ悪態がつけて、よく言うぜ!」
変声期を迎えたばかりであろう高めな声で発せられた少年の誣言に、青年は逸楽から唇に弧を描いて喉を鳴らす。そして、組んでいた腕を崩したかと思うと、右手を僅かに掲げ上げた。
「おもしれえから、ちょいとばかり遊んでやるよ――」
肩よりもやや低い位置に上げられた右掌に淡い光が寄り集まると、その手には切っ先の無い片手剣――、『処刑人の剣』と俗称されるエクセキューショナーズソードが握られる。
構えらしい構えも取らぬまま、青年はニヤニヤとした笑みを顔に貼り付けて少年を見やる。
「まさかテメエと直に遊べる時が来るとは、思いもよらなかったけどなあ?」
「ああ、私もだ。いつかの報復ができるとは思わなかったな」
睨み合いながら言葉の応酬を交わし合う青年と少年だったが、不意と少年の傍らに漸く息が整ったビアンカが抜身にしたショートソードを片手に立った。
青年がアユーシの使用していたストールに触れられないと推論したビアンカは、ショートソードの柄と自身の腕にストールを巻き付けて身構える。
警戒心を顕わにして青年を翡翠色の瞳で見据えるビアンカを、少年はちらりと横目で一瞥すると溜息をついていた。
「モルテが注意を促してくれた理由、分かったわ。問答無用で襲い掛かって来るなんて、思ってもみなかった」
「娘よ。お前はもう少し警戒心を持て。好奇心は時に身を亡ぼす」
「お説教なら後で聞くわ。――仕返しをするなら、私にも手伝わせて」
白銀髪の少年――、モルテから窘めの言葉を投げ掛けられるも、ビアンカは意に介さずに青年を鋭く睨みつける。
かような二人の様子に、青年は不敵な笑みを浮かせるのだった。




