第八十四節 片影
ヒロとリュウセイが気安く会話するのを耳に入れつつ、ビアンカは町並みや人の往来を見やっていたが――、ふと人波の中を歩むある人物が目に付いた。
「あれは……」
ビアンカが気付いたのは、一人の青年だった。道端に見掛けた青年は蘇比色の髪を揺らし、往来の人々に気にされた様子もなく歩を進めていく。
その青年の毛色や背格好は――、先の“ニライ・カナイ”行き航行船で共に過ごしたユキのことを彷彿させた。
(ユキさんは、ソレイ港でアユーシさんと一緒に中央大陸へ旅立っていったはず。なんで群島にいるの……?)
ユキは“ニライ・カナイ”への旅路を終えた後に、かつて自身が有していた“邪眼”の強大な魔力から生まれ落ちた存在を探す旅に再出したはずだった。そして、ユキの旅には常にアユーシが同行をしていたはずだと、ビアンカは思慮する。
それが何故にオヴェリア群島連邦共和国に、しかも一人でいるのかに疑問を感じた。
咄嗟に翡翠色の瞳をヒロに移すものの、ヒロはリュウセイと語らっており、ユキの存在にもビアンカが視線を投げ掛けたことにも気付いていない。
目線をユキだと思われる青年とヒロへ交互に泳がせていると、そこでリュウセイと目が合った。彼はビアンカの視線に気付き、微かに首を傾げるが――。ビアンカは目配せをするようにリュウセイとヒロを見やって首を軽く動かし会釈すると、踵を返していた。
(ユキさんとアユーシさん。違う船に乗って群島に来た、とかなのかしら。でも、何だろう。変な感じがする――)
ユキに気付いた瞬間に抱いた胸騒ぎ。そして、革の手袋に覆われている左手の甲――、そこに刻まれる“呪いの烙印”が蠢く気配にビアンカは眉を寄せた。
初めてユキとアユーシに出くわした際、“喰神の烙印”は神族の血を引くアユーシに反応を示した。半面でユキに対しては大きな反応を見せなかったのだ。
しかしながら、いつの間にか“喰神の烙印”が警鐘を鳴らす動きは無くなっていて、神族の気配に慣れたのだろうとビアンカは思っていた。
それが今になり、ユキに対して“喰神の烙印”が警戒し始めたのだが、それが何故なのか理解できなかった。
ユキとアユーシに何かあったのではないか、と。胸中のざわつきから思い至った憂慮で、ビアンカは足早に人混みを掻き分けて進んでいく。
青年を見失わないように草々とした道を歩み、市の出店の脇を抜けて路地へ入り込んでいくと徐々に人が疎らになっていく。石垣珊瑚や木製塀の上から鮮やかな色合いの植物たちが顔を覗かせるが、それらの姿すら徐々に少なくなっていった。
太陽が高く昇り明るい陽射しが射し込んでいるものの、どこか陰鬱な気配が辺りに漂い始める。“喰神の烙印”が蠢く微かな痛みも、緩やかに増してきていた。
(――こんな、人気の無いところに何があるんだろう?)
そうビアンカが考えながら青年の後を追っていくと、不意と青年が路地の角を曲がった。ビアンカが駆け足気味に角へ足を踏み入れると――。そこは行き止まりとなっており、誰の姿も見当たらなかった。
「あれ……?」
袋小路となっている路地に入り込んで視線を辺りに向けるものの、幾ら見直しをしようとも青年の姿は無い。
確かに青年はここの角を曲がったはずだと思う。しかも行き止まりになっていて、目に映るのは高い塀だけで、そこを超えていったにしても痕跡が見受けられずにビアンカは首を傾げた。
「――あいつの気配と、あのいけ好かない天使女の気配がすると思ったら……」
突として背後から聞こえた、不愉快さと訝しげな感情を宿す男の声。ビアンカは吃驚から肩を跳ねさせ、勢い良く踵を返した。
そこには、ビアンカが追いかけていたはずの青年が彼女を睨むように見据え、いつの間にか退路を塞ぐように佇んでいた。
青年はビアンカの思った通り、ユキと良く似た顔立ちと背格好を有していた。
蘇比色の髪はユキよりも短いのだが、前髪だけが長く伸ばされて鋭い眼を見え隠れさせている。だが、その瞳の色を認めたビアンカは困惑してしまう。
「……誰だ、お前は?」
長い前髪の合間から覗く銀色の双眸が威圧的に煌めき、ビアンカに問いを投げる。
青年の銀色の瞳に気が付いた瞬間に、ビアンカは肌が粟立つ感覚を覚えた。
同時に左手の甲、“喰神の烙印”が蠢きを強くして、まるで身構えたようだとビアンカは感受する。
(銀色の目。――もしかして、“邪眼持ち”の魔族?!)
稀有でいて強大な能力を物語る銀の双眸。そして、ユキと良く似た人物――。
それらを目にして、ビアンカは青年が何者であるかを瞬時に察した。
(この人、ユキさんの言っていた“邪眼”の魔力が生み出した化身だ……っ!!)
ユキが本来持っていた“邪眼”は彼が記憶喪失となったことで魔力制御できなくなった結果、自我を持ってユキの元から逃げ出したとビアンカは聞いていた。
そして、ユキとアユーシは“邪眼”の化身を探し、魔力の気配を辿って世界各国を周っていたという。
その存在が何故、オヴェリア群島連邦共和国にいるのだろうか。
警戒心を顕わにしたビアンカは考慮しつつ、身構える姿勢を見せる。
青年は自身を睨みつけるビアンカを舐めるように見やり、銀色の瞳を更に怪訝そうに細めた。
「お前からあいつの魔力を感じるな。ついでにあの女の魔力も。――だが、お前の本来の気配……、これは“喰神”だな……?」
「なんで、それを……?!」
思いも掛けていなかった言い当てにビアンカが吃驚の声を絞り出すと、青年は唇を歪めて厭わしげな笑みを浮かし、くつくつと笑った。
「へえ。随分と趣旨換えをしたもんだなあ? テメエは野郎しか宿主に選ばねえと思ったが、今度は少女趣味になったか?」
ビアンカではなく、彼女の左手に銀色の瞳を差し向けながら青年は嘲笑う。
それによって“喰神の烙印”が答えるように蠢きを増々強くし、ビアンカに警告の気配を窺わせた。
(あなたが注意を促すっていうことは、この人は危険なのね。でも、どうすれば――)
ビアンカが“喰神の烙印”に気取られた僅かな間だった。
青年は銀色の双眸を今度はビアンカに向けたかと思うと――、石畳を蹴って一気に距離を詰めていった。
◇◇◇
ヒロは路地から路地に続く入り組んだ道を見渡し、ビアンカを探して走り回っていた。
「あー、もうっ! 本当にどこに入り込んじゃったのかなあっ!!」
焦燥と憂虞から声を荒げて左右を見やる。しかし幾ら辺りを見渡しても、人通りも無くなった路地にビアンカの姿は見当たらない。
人の多い通りは先に一通り見たが、ビアンカらしき人影は無かった。
黒髪の多いオヴェリア群島連邦共和国で、ビアンカの亜麻色の髪というのは良い意味でも悪い意味でも人目を引く。目立ちたくないというのがビアンカの言ではあったが、彼女が目立つ存在なのをヒロは了している。
カザハナ港は交易が盛んな港町なだけあり、ガラの悪い水夫や海賊たちが多くいる。そのような横暴者たちに絡まれるのを避けるため、ビアンカを一人にしたくなかったという思いがヒロにはあった。
勿論ビアンカが武術に長けていてるのも心得ているが、今現在ビアンカの得物である棍はヒロが代わりに持ち歩いている状態だった。棍だけでも持たせておけば良かったと、僅かな後悔が湧き上がる。
「あ。でも、ビアンカって、ユキから貰ったショートソードは持ち歩いていたっけ」
はたと思い出したビアンカが持つ剣の存在。ユキとの別れ際に譲り受けたショートソードはソレイ港で鞘を携えるためのベルトを購入し、ビアンカは黒い外套の下に身に着けていた。
万が一、何か不詳な出来事があれば、最悪その剣を使えば場を乗り切れはするだろう。
「うーん。でも町中で刃物沙汰は勘弁してほしいなあ……」
気性の荒い海賊などの荒くれ者に武器を向けることほど、不毛な争いに発展することは無い。
余計な騒ぎを起こしてほしくないな、などと思う。
そんな考えに思考を囚われながらヒロが角を曲がろうとすると――。
「うわっ! ビックリしたっ!!」
曲がり角に差し掛かったところで、進行方向の反対側から走ってきたのであろう数人の屈強な男たちと鉢合わせをして、衝突する寸前にヒロは慌てて足を止めていた。
その男たちは、先日、酒場で喧嘩騒ぎを起こしていた海賊たちだった。その姿を認めるとヒロは紺碧色の瞳に冷たさを宿し、彼らを睨みつける。さようなヒロの態度に海賊たちは表情に焦燥を帯びた。
「お前たち。また懲りずに僕に喧嘩を売りに来たの? そんなに殴られ足りない?」
口角を上げ、ヒロが低い声音で威嚇するように言う。肩に担いでいた棍を手に取ると、先端を海賊たちに差し向けた。
苛立ちから来る有無を言わせぬ言動に、大の大人の口から「ひぇっ!」っと短い悲鳴が上がる。
「ご、ごごご誤解っす、旦那っ!!」
及び腰を窺わせながら、先頭に立っていた海賊の頭目が弁解を口切る。その言葉にヒロは警戒心を抱いたまま首を傾げていた。
「は? 誤解?」
「そ、そうだ。俺たち、旦那の嫁さんを追いかけていたんだよっ!」
「嫁……? ――あ、ああ。ビアンカのことか……」
目の前にいる海賊連中は酒場で叩きのめした相手だ。大方、宿屋の女将との会話を盗み聞ぎしていたのであろう。彼らの話を聞きヒロは納得をしつつ、また厄介な奴らに聞かれたと思ってしまう。
しかし、事情の説明をするわけにもいかないため、海賊たちの弁解と本題の続きを待つが――。
「ビアンカさんって仰るんですか。あの毛色、群島者じゃないっすよね」
「頭目。ありゃあ、どっかのお姫さんとかだろ。なかなかあの毛色は見掛けねえぞ」
「そりゃ、英雄の旦那が連れてくるくらいっすからねえ。エライ美人さんだったし、旦那も隅に置けないってなあ」
海賊たちは諂いを混じえながらケタケタと談笑に花を咲かせだす。かような戯言にヒロの眉間に皺が寄った。
「あのさっ! それより、あの子がどうかしたの?! そもそも追いかけていたって、悪さをする気だったんでしょっ?!」
談笑をだらだらとし始めた海賊たちを急かし、一歩足を踏み出したヒロは棍の先端で頭目を小突く。すると慌てふためいた動向を見せ、頭目の男は口を開いた。
「ちちち違いますって! この辺りの路地は旦那に従っていない派閥の海賊どももうろついてっから、嫁さんみたいなのが迷い込んだら危ねえと思って追いかけたんっす!」
「んで、ビアンカはどこに行ったの?」
「そ、それが……、袋小路んところで見失っちまって。角を曲がったら行き止まりで、誰の姿も見当たらなかったんす」
さっさと話をしろと紺碧色の瞳で物語り海賊たちに話の続きを促すと、頭目は口切り出しにくそうにして言葉を綴っていった。
「はあ? どういうこと?」
「おいら、嫁さんが蘇比色の髪をした男を追っかけているのを見ただ」
海賊たちの一番後ろにいた男が申し出た言葉を耳にして、ヒロは怪訝な色を瞳に浮かした。
「蘇比色の髪?」
ヒロが反覆して単語を呟くと、男は首肯を示す。
(蘇比色の髪っていうと、ユキが群島に来ている? いや、アユーシが一緒にいないのはおかしいだろ……。まさか――)
ユキ以外の蘇比色の髪をした人物に、ヒロは覚えがあった。
だがしかし、その存在がオヴェリア群島連邦共和国にいるということが想定外であったため、ヒロは煩慮を抱くのだった。




