第八十二節 嘘と隠し事
「――それで? さっきのアレ、どういうことなのかしら?」
止宿部屋へ足を踏み入れると、ビアンカは冷ややかな眼差しをヒロに向ける。立ちどころにヒロは申し訳なさそうにして、両掌を合わせる謝罪を顕示した。
「変なことに巻き込んで本当にごめんっ! 実は僕ね――、結婚していてお嫁さんがいるっていうことになっているんだっ!!」
ビアンカが懸念した誤魔化しや嘘をヒロは出さず、素直に事態の口述をし始める。
「……いったい何をやっているの?」
冷たさを含有した声音で詰問すると、ヒロは眉根を落とした。その表情は頭の中で整理がつかず切り出しにくそうなものを表現しており、どのように説明するべきか悩むものを窺わせる。
「えっと。僕って群島だと、見た目の年齢的には結婚適齢期なわけね。群島の男たちはみんなお嫁さんを迎えるのが早いんだけど――」
紺碧色の瞳の視点を定めずに泳がせて言葉を選びつつ、気まずげに黒髪を搔き乱してヒロは語っていく。
「それで、まあ。僕は国の英雄扱いを受けているのもあって、婚姻話が舞い込むことも多いんだ。行く先々でイイヒトはいるのか、いないなら娘や親戚の女の子を紹介したいとか言われていてさ」
「もしかして、それで嘘をついたことがあるってこと?」
話の顛末に察し付いたビアンカが眉間に皺を寄せて問うと、ヒロは苦笑して頷いた。
「そういうこと。いい加減に嫌気がさしたから、ついお嫁さんがいるって嘘を言っちゃったんだ……」
ヒロの返弁に、案の定といった様子でビアンカは嘆息してしまう。呆れ果てたビアンカの溜息を耳に入れ、ヒロは増々申し訳無さそうに肩を落として項垂れる。
「ここの女将さんにも娘を紹介したいって言われていたんだけど。お嫁さんがいるって言ったら、『じゃあ、連れてきなさい』って返されていてね。そのことをスッカリ忘れていたよ」
「あれ。思いっきり誤解を受けていたみたいだけど?」
この宿の女将だという受付に立っていた女性――。彼女はヒロが連れてきたビアンカを目にして、諦めのような溜息を吐き出していた。
思うにヒロとビアンカの取り交わしを目にして、ヒロが心を許した態度を取っていることとビアンカも気慣れした対応をしていたこともあり、あらぬ誤解を受けたのだろう。諦めを感じさせた嘆声も、「嘘ならば隙を見て娘を紹介しようと思っていたのに」という内心を言い表したものだったのだと推察する。
ビアンカが事情を考えている最中にも、ヒロは喉の奥を鳴らして唸っていた。だが、不意と落としていた首を上げると難しい顔をしているビアンカに目を向け、はくはくと唇を口切り出しにくそうに動かし、意を決したように言葉を紡ぎ始める。
「あ、あのさ、ビアンカ」
「なに?」
ヒロの声掛けにビアンカは視線を向けぬまま短く返答する。不機嫌を感じさせる低い声音で返されたヒロは口籠りを見せて言い淀むが、一呼吸置くと改めて言葉を綴った。
「君が群島にいるのって、ここを巡る少しの間でしょう? 君さえ良ければ……」
その後にヒロが紡ぐだろう言の葉を察してビアンカは苦虫を噛み潰したような表情を浮かし、鋭い視線をヒロに投げ掛けた。
「うう。そんなに怖い顔しないで。僕を助けると思って、お願いっ!!」
氷のように冷たい眼差しを差し向けられ、ヒロは一歩引いてたじろぐも再び両掌を合わせて懇願を言動に示す。藁にも縋るといった情けない態度に、ビアンカは仕方なさげな溜息をついた。
「……ヒロのお嫁さんのフリをすれば良いんでしょう。分かったわよ」
どうしてこうなるのかと、内心で辟易した感情を抱きながら出されたビアンカの応じ。その返しに、ヒロは勢い良く下げていた頭を上げて表情に心弛びと喜色を彩った。
「ほんと助かるよ、ありがとうっ! 後々のことを考えると、嘘でしたっていうワケにもいかないからさ。こんなことも引き受けてくれるビアンカの優しいところ、大好きっ!!」
「馬鹿なことを言っていないで。嘘ばかりついていると、その内に痛い目に会うわよ?」
ヒロの発した感謝と戯れの音が混じった好意。軽々しいと感じてしまう言葉にビアンカが呆然と忠告を出せば、ヒロは体裁が悪そうに頭を掻いた。
「あ、あはは……。なんか最近、嘘や隠し事で痛い目に会ってばっかりだから。こ、心得ておきます……」
自覚はあったらしい返弁に、ビアンカは再三の嘆息を吐き出した。
「あなたには沢山お世話になっているのもあるし。今回はお礼だと思って引き受けるけど、本当に気を付けてよね」
「うん、ごめんね。こんなことになるなんて思ってもみなかったや」
ビアンカの溜息に釣られるように、ヒロも吐息を漏らす。
“オヴェリアの英雄”と呼ばれ、故郷の人々に注目されている存在故に抱く苦労。それを回避するために咄嗟についた嘘で、ビアンカに迷惑を掛けてしまうとは思いもよらなかった。
そして、ビアンカの報恩だという気の無い応じに、ヒロは僅かばかり気落ちの気分まで味わう羽目になっていた。
ヒロの中で伴侶を欲する気持ちはあった。幼い頃から伴侶を迎えて子供に恵まれるという生き方はヒロの憧れでもあり、正直言えば今でも憧れを抱いている部分がある。
しかしながら――、“海神の烙印”という呪いを身に宿し、不老不死の人ならざる存在になったことで、おいそれと普通の人間を伴侶に迎えようという気持ちにはならなくなっていた。それは、ヒロが無意識下で有する独りぼっちになることへの恐れもあって、いつか訪れるであろう今生の別れを避くためだった。
それ故に、今までヒロは舞い込んできた婚姻話をのらりくらりと躱し、親切心から彼に縁談を持ち出した者たちにまで嘘をつく結果を生み出している。
そうした意思を抱懐するヒロの前に現れたのが、“呪い持ち”でありヒロと同様の死を知らない少女、ビアンカであったのだが――。
ビアンカと出会った当初は、「ハルが大切にしていた存在だから、友達に代わって守らなくては」という義理立ての気持ちが強かった。
だがしかし。ふと気が付けば、胸中に湧き上がっていたのはハルに対しての羨みと対抗心。どうしてこうなったと自問自答をしてみたが、何とかビアンカを振り向かせられないか距離を詰めようとする自分がいることに気付き、ヒロは自身の所為に嘲笑してしまった。
慕情を寄せてしまいハルに申し訳ない気持ちと、ビアンカに傍にいてほしいという気持ち。
そうした想いを浅ましいと思慮して、ヒロはまた一つ重い溜息をついた。
「とりあえず、この話題が持ち上がるのはカザハナ港の一部だけだと思うし。おばさんには、僕がお嫁さんを連れてきているっていう話を多言しないように伝えておくから」
「ええ、お願いするわ。また群島に来ることになっても、誤解されたままだと動きにくいしね。ヒロに頼ってばかりもいられないんだし」
いずれ何かの折でオヴェリア群島連邦共和国へ足を運ぶかも知れない。その時は多忙であろうヒロに案内を頼むわけにはいかないと、他意の無い思いから出たビアンカの言だった。だが、ヒロは立ちどころに気配に不満を宿し、膨れた顔を見せた。
「……また来る機会があったら、遠慮なく僕に声を掛けてよ。どうして一人で巡ろうとするのさ」
「あなた、自分の本来の職務があるでしょう?」
「それとこれとは話は別なの。僕はビアンカと一緒にいたいんだよ」
紺碧色の瞳に真摯さを内包してヒロが言葉を紡ぐと、ビアンカは瞳を瞬かせてしまう。ヒロの思い切った本心の吐露だったが、ビアンカは翡翠色の瞳を左右に泳がせて内容の咀嚼を窺わせたかと思えば、次には小首を傾げていた。
「ヒロは私が一人だと、知らない土地を回れないと思っているの?」
「えっ?! そうじゃないし。今のをそういう風に取るのっ?!」
慮外なビアンカからの返弁に、ヒロは瞬く間に驚愕から真摯な情態を崩して声を荒げた。
「私ってそこまで旅慣れていないように見えていたのね。一緒に巡って世話を焼いてあげなきゃって思ったんでしょう?」
ビアンカの見当違いな解釈に、ヒロはただただ吃驚してしまう。ヒロからの愛着の意を受けたビアンカはといえば、勘違いから消沈して苦笑いを浮かしていた。
さようなビアンカを目にして、ヒロは両手を拳に握った。眉間を寄せて唇を噛み、不服の色を宿した紺碧色の瞳でビアンカを見据えたかと思うと――。
「――ビアンカってば鈍いっ!!」
「はい?」
そうだ。ビアンカは鈍いのだ、と。ヒロは思い至った。
ハルのことは一途に想い、一途に想われているのを自覚している。しかし、ビアンカには他者から好意を寄せられていることを察する力が無いのだ。
もしかすると、自分がビアンカに出会ってから嘘と隠し事に散々塗れていたせいもあり、余計に心に響かないのかとまで考える。
今しがたビアンカに窘められた『嘘ばかりついていると痛い目に会う』とやらを早々と痛感して、なんという自業自得だろうかと思い馳せていく。
「今までのも、僕が言ったことって戯言だと思われているよね……」
ヒロは言いながら、額に手を押し当てた。そうした彼の呟きに、ビアンカは言っていることが解せないことを表情で物語っている。
「これは……、難攻不落ってやつか……」
行き当たった様々な事実に、ヒロは落胆の息を吐き漏らしていた。




