第八十一節 一仕事
やにわに響く鈍い音。それと共に屈強な体躯を持つ男がよろけ、床に仰向けになって倒れる。次には蹴り込みを入れる音が聞こえ、他の男が体勢を崩してテーブルや椅子を乱雑に薙ぎ倒した。
「そろそろ頭は冷えたか?」
低い声音で綴られる問い。その声を発したヒロは獰猛さを含有した紺碧色の瞳を、今しがた吹き飛ばした男たちに鋭く差し向ける。
だが、頭が冷えるどころでは無い周りの男たちは怒声を上げ、ヒロを取り囲み殴りかかっていった。
その動向にヒロは愉快げに唇を歪め、足を踏み込んだかと思えば手にした棍を力の限り振るう。技術など一切無い力技で薙がれた棍は男の拳を握る手に直撃して去なし、返した一振りで何人かの男たちの胴を薙ぎ払うと、またテーブルや椅子が激しい音を立てて倒された。
乱闘の場となり――、ヒロ曰く『賑やか』な状態に陥った宿屋の出入り口と併設している酒場。
その片隅でビアンカは、棍が折れやしないかと冷や冷やした思いで見守る。酒場の受付に立つ恰幅の良い中年の女性は、いつものことと言いたげな表情でヒロたちの喧嘩騒ぎを眺めていた。
ヒロの案内で訪れた宿屋兼酒場であるそこは、草々とした雰囲気を有していた。宿泊受付を進めていると、酒場で突として罵声が上がり始めたのだ。
険悪な気配を孕み始めた酒場の中央では、海賊と思われる井出達の屈強な男二人が襟首を掴み合い、一触即発の様を見せていた。その周りでは野次馬たちが下卑た言葉を荒立てて茶化す。
そうした現場を目撃して、ヒロが辟易と嘆息した。そして宿の受付に立っていた女性に一言二言と言葉を交わし――、棍を手にして酒場に足を運んでいった。
何をするのかとビアンカが不思議そうにして見つめていると、ヒロは中央で掴み合いをしている男たちへ向けて徐に拳を振るったのだ。
あまりにも突然の出来事に、ビアンカは呆気に取られ翡翠色の瞳を瞬かせてしまう。受付の女性がカラカラ笑いながら愉快げに眺めていることに、またビアンカは驚いてしまった。
その後は唐突なヒロの暴挙に、唖然としていた野次馬たちまでを含めた乱闘騒ぎに発展。
ヒロは掴み掛かってこようとする男を簡単に去なして拳を振るい、椅子が放り投げられてきたと思えば躱して仕返しとばかりに酒瓶を投げつけ、勝手に拝借している棍をも振り回し――、と。
自分が怪我を負わない範囲で手加減をしつつ男たちを叩きのめしていき、今に至っている。
「お、おいっ! そいつ、英雄の旦那じゃねえかっ?!」
頭の冷えてきた誰かが大きく声を上げた。その瞬間に喧噪に満ちた酒場の雰囲気が一転した。
シンッ――、と場の空気が静まり返り、そこにヒロが「漸く気付いた?」と一笑を立てる。
すると、ヒロは乱闘の発端となった海賊二人の元に歩み寄り、襟首を掴むと引きずるようにして自身の目の前に座らせた。
「んで? 今日の喧嘩の原因はなんなの?」
ヒロが不機嫌を声に宿し、棍を片手に腰に手を押し当てた状態で海賊二人を見下ろす。紺碧色の瞳は威圧的に煌めき、どこか見下すような冷たさを窺わせた。
正座をしてヒロを見上げる二人は冷や汗をかき、神妙な面持ちを浮かしていた。そして、次には「こいつが悪いんですっ!」と声を合わせた言い訳が口をつく。そこでまた睨み合いが始まり剣呑な雰囲気になると、ヒロが手にした棍の先端を勢い良く床に叩きつけ大きな音を出して制する。
「お前たちさ。『喧嘩両成敗』って、知っているか?」
普段よりも幾音か下げ、発せられる声。紺碧色の瞳を細めて唇に弧を描く不敵な笑みを向けられ、背筋を伸ばして姿勢を正した海賊二人の口から悲鳴のような短い声が漏れ出す。
「で、でもですねっ、旦那っ!」
「本当に悪いのはこいつで……っ!!」
不協の声を重ねて弁解を口切り出す海賊二人に、ヒロはこれ見よがしに溜息を大きく吐き出す。
「言い訳はお腹いっぱい。これ以上、僕に殴られたくなかったら解散。いいね?」
有無を言わせずにヒロが発すれば、二人は項垂れながらも首肯を示す。
「いい加減、喧嘩ばっかりするのは止めてよね。僕がここに来ると、八割方の確率で君たちって殴り合いしているんだから」
「申し訳ねえっす……」
「見捨てねえでくだせえ、旦那っ!」
呆れ果てた物言いを投げ掛けられた海賊二人は首を上げると、まるで捨てられそうな子犬の如き目をヒロに向ける。対してヒロは、小声で「気持ち悪いから……」と頬を引き攣らせた。
「はあ。兎に角、君たちは頭目でもあるんだし。そこ、自覚してよね」
言い含めるようにヒロは言うと、踵を返す。その声掛けに、海賊の頭目であったらしい男二人は素直な返事を威勢良く発していた。
敬慕に輝く眼差しを男たちに差し向けられ、ヒロは居心地が悪そうに黒髪を搔き乱しながら宿の受付に戻ってくると――。ビアンカを見やった途端に、へらりと笑みを浮かせる。
「ビアンカ、お待たせ。賑やかになっちゃってごめんね。あと、棍借りちゃった」
先ほどの覇気とは打って変わった、いつものヘラヘラとした態度を見せるヒロにビアンカは再び呆気に取られてしまう。猫を被るとは正にこのことであろうと思う。
「……貸すのは構わなかったんだけど。折れなくて良かったわ」
気を改める意味も含め、ビアンカはゆるりと首を振るう。
棍に関しても、あれだけ力一杯に殴るために使われるとは思っていなかった故、僅かに苦笑いを見せていた。
「えへ。棍は使ったこと無いから、木の棒を持っている勢いだったんだ。力一杯で殴っても意外と折れないもんなんだね」
手にしていた棍に感嘆気味の視線を向けてヒロは言う。そして肩掛け用の紐を括りつけたままだった棍を、再び肩に担ぎ直すと宿の受付を見やる。
「おばさんもごめんね。またテーブルと椅子をごちゃごちゃにしちゃった」
「構わないよ。英雄様が留守の間にあいつらが好き勝手やっていて、ほとほと困り果てていたところだから。お灸を据えてくれて胸がスッとしたよ」
「……そうなの?」
受付の女性が溜息混じりに口にすれば、ヒロは再び紺碧色の瞳に冷たさを宿し、酒場の方に向ける。ヒロに睨みつけられると、荒れた酒場の片付けを自主的に行っていた海賊たちが身を竦ませ、取り繕うような笑いを見せていた。
その取り交わしを目にしていたビアンカは、ヒロが口にしていた『一仕事』が何であるかを悟った。
“オヴェリアの英雄”と呼ばれて敬われているヒロは、オヴェリア群島連邦共和国の海賊を含めた船乗りたちから『海の守り神』として崇められているという。そしてヒロは、オヴェリア群島連邦共和国の海の治安を守るという職務の中に、荒くれた海賊たちを躾る役割も含め、彼らを従わせて敬愛を受けている。
だが、血気盛んな海賊たちのことなので、監視と統率を兼ねているヒロが不在の際にはつい羽目を外してしまうのだろう。そうビアンカは推察し、嘆息を漏らした。
「――ところで、そっちのお嬢さんはアレかい?」
「ん? あれって?」
不意に女性に訳合の通らない問いを投げ掛けられ、ヒロは不思議そうに首を傾げる。
女性はというと視線をビアンカに向けており、彼女の頭から足の先までを品定めするかのように見つめ、何かを察して諦めたような嘆声をつく。
「いや、ねえ。漸くお嫁さんを見せに来たんだと思って」
「え? あっ?!」
ビアンカを見やっていた視線をヒロに向け直し、女性の口端から出た言葉。それを聞いた瞬間に、疑問を表情で語っていたヒロが焦燥を示した。
さような会話にビアンカも吃驚を浮かし、思わずヒロを見上げてしまう。
ビアンカが翡翠色の瞳に映したヒロは、非常に気まずげな様相を漂わせる。挙動不審とも取れるぎこちない動きで、紺碧色の瞳を一瞬だけビアンカに向け――、また女性へ目を向けて微かな苦笑いを浮かせた。
「あの時は英雄様が咄嗟に嘘をついたのかと思ったんだけど。本当に結婚していたとはねえ……」
女性がしみじみとした声音で綴ると、ヒロは空笑いを立てて更に気まずそうな様子を窺わせる。
「ヒロって――」
ビアンカが小声で「ヒロって結婚していたの?」と口切ろうとした言葉を遮るように、ヒロはビアンカの肩を抱いて引き寄せていた。
「え、えーっと。あはは。そうそう……、この子が前に言っていた僕のお嫁さんなんだ。あんまり島に引き籠らせていたんじゃ、良くないかなって、思って……」
言葉尻を窄ませて出される言葉。そうしたヒロの言動に、ビアンカは翡翠色の瞳を驚きで丸くする。
眉間に深く皺を寄せてヒロを見やれば、困窮を宿した紺碧色の瞳と目が合った。
――『ごめん。話を合わせて』
視線が交わると、声無くヒロの唇が言い表す。それにビアンカは増々怪訝そうに表情を顰めるが、何かワケがあるのかと思い、とりあえずといった風に頷いて返事としていた。
「そりゃ、うちの娘に見向きもしないワケよねえ。――しかも、群島の子じゃないのね。こんな可愛らしいお嬢さんを捕まえてくるとか、流石に英雄様ってところよねえ」
女性が切に語っていく言葉に、ヒロは合わせるように相槌を打ち、心の籠っていない笑いを漏らす。
部屋を取ったら詳しく理由を問いただそう。誤魔化しや嘘を出すようならば、叱責や場合によっては手を上げることも厭わない。さような不穏な考えをビアンカは心中に抱くのだった。




