第八十節 カザハナ港
カザハナ港の埠頭へと足を運んで早々、ビアンカは初めて目にするオヴェリア群島連邦共和国の状景に、感嘆と驚嘆の入り混じる吐息を漏らした。
港町なために人が多く草々とした様相を含有しているのもさることながら、まずは人々の髪色が特徴的だと思う。目に映るのは、ヒロと同様の黒か若しくは黒味のかかった濃い茶色などで、統一感のようなものをビアンカに感じさせる。
他の毛色の者たちもいるが、オヴェリア群島連邦共和国の国民では無いのであろうことを見目で推知できた。
そうして、ビアンカが最も賛美の思いを抱いたのは、その町並みだった。
埠頭から町へと続く道は石で舗装され、交易が盛んだとヒロが語っていたことを言い表すように充分な道幅を取られている。道の両脇は生垣もあり、石壁として積まれる素材は普通の石にしては目が粗いことを気が付かせた。
彼方此方に見受けられる草花は明るい色合いを有し、緑が青々と群生して大振りな極彩色の花が目立つ。
そして何よりも空が広いと、そうビアンカは感受していた。
中央大陸や東西の大陸に比べるとオヴェリア群島連邦共和国の人が暮らせる領土は狭いのだが、上天に広がる空は果てしなく青く、雲も真っ白で美しく不思議な開放感がある。
その空を自由気ままに飛び交う海鳥の鳴き声。潮騒の音。海の香りは、今まで抱いたことの無い感情をビアンカに植え付け、翡翠色の瞳を景色に釘付けにさせた。
呆気に取られたように町並みや空を見つめるビアンカを目にして、ヒロは表情を可笑しそうに綻ばせる。
「――ようこそ。群島諸国へ、だね。綺麗でしょ?」
ヒロが笑顔で問えば、ビアンカは頷いて返事をする。
「石垣で使われているのは珊瑚なんだよ。この石垣珊瑚は嵐に強いんだ」
「さんご?」
ビアンカの見つめる先にあるものが石垣だと気付いたヒロが口説すると、ビアンカは不思議げに単語を反覆した。その声を聞いて、ヒロは紺碧色の瞳をまじろがせた。
「もしかして、珊瑚のこと知らない?」
「ええ、初めて聞いたわ。石の名前が珊瑚っていうの?」
石垣を見やっていた視線をヒロへと向け、ビアンカが小首を傾げた。
今の今までビアンカは、海とは無縁の中で過ごして来ていた。大陸間を渡るために船に乗ることは多々あったものの、基本的に海自体に近づくことが無かった。
もしかすると、港町などに立ち寄った際に『珊瑚』という言葉を聞いたことがあったかも知れないがと考えつつも、それが何であるのかをビアンカは知らない。
ビアンカが珊瑚を知らないことに、ヒロは意外そうな表情を浮かせる。そして、どのように説明をすればビアンカが分かりやすいかを一考し、口を開いた。
「えーっと。簡単に言うと、海底に暮らす生物の一種なんだ。ただ、他の海の生物とは違って植物みたいに群生していて、固い骨格を持っていてね。それを採取してきて、石垣にしたり装飾品に加工したりするんだよ」
「生物を使っているの……?」
ヒロの噛み砕いた解説を受け、ビアンカは翡翠色の瞳を丸くする。すると、ヒロは然りを意味して頷いた。
「石垣だけじゃなくて、装飾品にまで出来る生物がいるのね。その珊瑚で作った装飾品って、どんなものなのかしら」
猶々とビアンカが疑問を口端に出すと、ヒロは面持ちに増々意外そうな色を浮かべていった。そして、不意とビアンカに指を差し向けるのだが――、それがビアンカの身に着ける赤い耳飾りを指し示した。
「ビアンカの着けているピアスの石。それも珊瑚なんだけど……」
「え? 珊瑚ってあの石垣みたいな薄い灰色をしているものじゃないの?」
ヒロからの指摘に、ビアンカは思わず耳飾りを指で触る。さような仕草と言葉を見聞きして、ヒロまでも驚きを表情で物語った。
「知らないで着けていたのか。それ、“血赤珊瑚”っていって、群島でも珍しい珊瑚なんだよ?」
血赤珊瑚は通常の珊瑚よりも深い海の底に生息し、赤黒さを持つのが特徴であり、深紅の血液のような色合いから『血赤』と呼称されている。
オヴェリア群島連邦共和国でも滅多に採れない希少な珊瑚の種類であり――、赤が濃いほど価値があるとされて高価で取引されることも多いと、ヒロは語っていく。
さようなヒロの話を聞き、ビアンカは嗟嘆の息を漏らしてしまう。まさか自身の身に着けていたものが、オヴェリア群島連邦共和国に関係した代物とは思ってもみなかった。
「このピアス、凄く昔に貰った物なのよ」
「ハルに、とか?」
ビアンカが回顧して口切り出した言を聞きヒロが首を傾げて問うと、ビアンカはゆるりと首を左右に振った。
「小さい頃にね。旅をしているっていう人と仲良くなったの。それで、その人からお別れの時に餞別だって貰ったのよ」
「え?」
微かに笑みを浮かし、懐かしそうにしてビアンカは言う。かような彼女の言葉を聞いて、ヒロは紺碧色の瞳を瞬かせ、僅かに眉間に皺を寄せる。
「えっと、あれ? もしかして……?」
「どうしたの?」
「う、ううん。なんでもないよ。ちょっと思い出したことがあったんだけど、僕の気のせいかなー、なんて」
想起を窺わせたにも関わらず欺瞞の態度を見せるヒロに、ビアンカは不服を宿した怪訝そうな眼差しを向けた。
「……また隠し事なの?」
「ち、ちち、違うよっ! あのね。僕、すっごく前にね。旅先で小さい女の子に血赤珊瑚のピアスをあげたことがあるんだよ。んで、その子がビアンカだったとか、そんな偶然って無いよねって思っただけっ!!」
不満を含んだ声を投げ掛けられ、焦燥したヒロは声を荒げる。その途端にビアンカは翡翠色の瞳を丸くし、呆気に取られてしまう。
「そうだったの。そんなこともあるのね」
ビアンカの口を感嘆がつくと、ヒロは焦燥から打って変わり照れ臭げな笑顔を見せて頬を掻く。
「こんな出来過ぎた話なんてあるワケ無いから、まさかねってなっちゃったんだ」
「ふふ。昔に出会ったお兄さんがヒロだったら面白かったんだけどね」
「あはは、そうだね。小さい頃の君に逢っていたとかだったら、ちょっと運命的な再会をした感じがするよ」
計らずも似たような事柄に遭遇していたのを知り、ヒロとビアンカは顔を見合わせてくすくすと笑いあう。かと思うと――、ヒロは気を改めた面持ちを浮かせた。
「さて。そうしたら、今日はカザハナ港で宿を取ろう」
「ええ、分かったわ」
「ここに来る度に使っている宿があるから、そこにしよう。ご飯も美味しいところだよ」
ビアンカが宜いを示すと、ヒロは嬉しそうな笑みを見せて「こっちだよ」と指を差しながら踵を返す。それにビアンカは従い、歩みを進め始めた。
ほんの少し移動を始めたところで、ふと、ヒロが何かを思い出した様相を窺わせた。
「あ、そうだ。そこの宿、偶に賑やかすぎることもあるんだよね」
「え?」
唐突な話にビアンカがヒロを見上げれば、彼は微かな苦笑いを浮かべていた。
「もし賑やかだったら――、僕が一仕事しないといけないから。その時は、隅の方にでも寄って待っていて」
「なにがあるの……?」
「それは、その時になったら説明するよ。大したことじゃないんだけど、ここだと日常茶飯事なことってところかな」
ヒロは勿体ぶった口振りで言うと、カラカラと笑い出す。かような返答に、ビアンカは首を傾げていた。
「あと、カザハナ港は道が入り組んでいて迷いやすいんだよね。人も多いし、はぐれないように気を付けてね」
注意の言葉を掛けられ、ビアンカは改めてカザハナ港の町並みに目を向けた。
珊瑚の石垣や生垣、道に沿って立ち並ぶ多くの市の出店。立ち並ぶ建物の数々。その合間あいまには空間が設けられており、恐らくは路地へと続いているのだろうとビアンカに推し量らせた。
人通りも多いため、この町に詳しいヒロがいなければ、目的地である宿に辿り着くことは難しいだろうと。そうビアンカは思いなす。
「ほんと。はぐれたら合流するのも難しそうね」
ビアンカが思ったことを口にすると、ヒロは首肯する。
「うん。合流場所を決めるとかしないと、探し出すのって難しいと思うんだ。――はぐれないように手でも繋ぐ?」
「いえ。大丈夫よ」
ヒロが戯れを発して笑うと、ビアンカは間髪入れずに否を返す。気の無い即答に、ヒロはワザとらしく嘆声して項垂れる。そうしたヒロの様子を傍目に見やり、ビアンカは可笑しげに笑ってしまう。
「あ、そうそう。私、やっぱり自分の荷物は自分で持つわ」
真横を歩くヒロが棍とショルダーバッグを肩から掛けるのを目にして、ビアンカは改めて声を掛けた。ビアンカの手荷物であったそれらは、ヒロの申出によって彼が代わりに持つに至っていたのだ。
お陰でビアンカは身軽な状態にあるが、やはりヒロに荷物を任せきりなのは心苦しいという思いが湧き上がる。
「いいよいいよ。僕が持つから、ビアンカは甘えて?」
「ええ……。あなた、そう言ってばっかりじゃないの……」
「ふふ。僕が君のことを甘やかしてあげたいって思ったんだ。ここは男の僕の顔を立ててくれると嬉しいな」
にこやかな笑みを向けてくるヒロに、ビアンカは困ったように眉根を落とした。
前回の“ニライ・カナイ”行き航行船への乗船の際は、ヒロが自ら言い出したこともあり、船賃を彼が出していた。そして、今回のオヴェリア群島連邦共和国に向かう船の船賃も、実はヒロが出している。
そればかりは申し訳ないとビアンカが物申しをしたのだが、ヒロは頑なに譲らず、ビアンカの財布をしまわせていた。
ビアンカがその折で『女の人が相手なら、誰にでもそうなの?』とヒロに聞いたが、全力で否定をされている。ならば何故にヒロがそこまで自身に施しをするのかが、ビアンカには解せなかった。
「もう……。ヒロって本当に考えていることが良く分からない人よね」
つい口端から零れたビアンカの言を耳に入れ、ヒロは微かな苦笑いを浮かべてしまうのだった。




