第七節 優しい嘘
「ええと……。カルラちゃん、だっけ?」
いつの間にか自らの傍らに座り込んでいた少女――、カルラにビアンカは問う。するとカルラは、小さくこくりと頷いた。
(――確か、この国に城仕えしている要人に引き取られた孤児……、って言っていたっけ……)
ビアンカがアインやシフォンに聞いた話によると、カルラはエレン王国に仕える家柄の養女で――、所謂、貴族の令嬢という出自らしかった。詳しい話は濁されてしまっていたものの、カルラの養父だという者が、エレン王国ではそれなりの地位に立つ者だということは、二人の少年の口振りから窺い知ることができていた。
そのような地位の高い家柄の養女であるカルラであったが、彼女の養父が過保護過ぎ――、滅多にカルラを自身の屋敷外に出させようとしないのだと。そうアインたちは語っていた。それを見兼ねたアインやシフォンは、養父である人物が不在の時を見計らい、時折こっそりとカルラを外に連れ出してしまっている、とのことだった。
そうした話を聞き、カルラの境遇にビアンカは昔の自分自身の境遇を重ね合わせ、微かに同情を感じる部分もあった。
だがしかし――。初邂逅の際、ビアンカがカルラに対して覚えた言い知れぬ不安感は、ビアンカにカルラへの警戒心と近寄りがたい印象を抱かせていた。そして、警戒心を抱いた故に、密かにカルラを避けていたビアンカであったが、気が付けばその存在が傍らに座り込んでおり、内心でたじろいでしまう。
ビアンカへと声を掛けてきたカルラは、憂いを帯びた金色と銀色の双眸でビアンカを見つめる。金色と銀色の瞳に見据えられたビアンカは――、思わず息を呑む。
互いに見つめ合い、暫くの間、黙したままであったが、不意にカルラが口を開いた。
「お姉ちゃん、具合悪そう。――どこか……、痛いの……?」
どこか拙い喋り方で、カルラはビアンカを見据えたまま首を傾げる。そのカルラの問いに、ビアンカも釣られるように首を傾げていた。
「なんで、そう……、思うの……?」
突拍子も無かったカルラの問い。そんな問いの言葉に、ビアンカは「何のことだろうか?」――、と内心で思い、疑問混じりの問い返しをしてしまう。
だけれども、ビアンカの疑問へ答えるようにカルラが発した言葉は、ビアンカを動揺させた。
「――だって、凄く苦しそうな顔をしていたから……。何か、嫌なことを思い出して……、心が痛そうだったから……」
ビアンカは唖然とした面持ちを浮かべ、微かに奥歯を噛み締める。
どうして子供は、こういう時、妙に勘が鋭いのだろうか――?
それとも隠しているつもりで、知らない内に顔に出ていたのか――?
音を立てるのではないかというほど、ビアンカの歯噛みは強くなっていく。
ビアンカが胸の内に宿したのは――、焦りの感情だった。
「大丈夫……?」
焦燥を覚えるビアンカを、カルラは心配げに覗き込む。
カルラの持つ金色と銀色の双眸は――、尚もビアンカを見据え、ビアンカに更なる忌避感をもたらした。
「だ……、だ、大丈夫よ……。何でも……、ないから、ね……?」
ビアンカは切れ切れに言葉を選ぶように、震える声を零す。
カルラの憂いを宿した金色と銀色の双眸は、ビアンカという存在に臆することなく、静かに見つめ続ける。それはまるで、ビアンカの心の奥底を見透かすようで――、ビアンカに居心地の悪さを感じさせた。
――できることならば、この子から逃げたい……っ!!
ビアンカは心中で思う。だが、さような感情を抑え、ビアンカは身動ぎできずにいた。
「カ、カルラ……、ちゃん……?」
黙したまま次の言葉を発しないカルラを前に、ビアンカは裏返った声で、自身を見つめてくる不思議な雰囲気を身に宿した少女の名を呼ぶ。
(――早くあっちに行ってほしい……。ここに居ないで……)
この少女は奇怪で、自分自身には危険すぎる――、と。ビアンカの本能が告げる。
しかし――、そのビアンカの思いを無視するように、カルラは口を開いた。
「お姉ちゃんの“心の痛み”の原因が、お兄ちゃんの遺した“優しい嘘”だったなんて思わないで――」
「え……?」
あまりにも思い掛けていないカルラの言葉に、ビアンカは翡翠色の瞳を見開く。
カルラの言葉に驚き絶句していたビアンカに、カルラはニッコリと愛らしい笑みを浮かべる。すると――、不意にビアンカの革の手袋を嵌めた左手の甲にカルラの小さな両掌が触れた。そのカルラの行為に、ビアンカは肩を大きく震わせる。
「お兄ちゃんも――、お姉ちゃんにこれを残してしまったことを悔いている。――だからこそ、お姉ちゃんとの“約束”を守ろうとして、お兄ちゃんも頑張っているよ」
先ほどまでの拙い口調とは打って変わった、諭すような静かな声音でカルラは言の葉を綴る。
「今の時は、まだ一緒にはいられない。だけれど――、お姉ちゃんと、このお兄ちゃんは、きっと逢えるから」
(――どうして……?)
ビアンカは言葉を発せられないまま、カルラの言葉に耳を傾けていた。だが、心中穏やかではいられなかった。
「自分に“嘘”をついて誤魔化さないで。お兄ちゃんの言葉を“優しい嘘”だと思わないで。全部を――、信じて……」
ビアンカの左手の甲に触れ、真っ直ぐに彼女を見据えていたカルラは、そこまで言うと口を噤んだ。――かと思うと、ビアンカの左手から手を離し、優しげな笑みを浮かべて立ち上がる。
「お兄ちゃんの“魂”は、お姉ちゃんに逢って、一緒に過ごせることを楽しみにしているよ。だから、お姉ちゃんも待っていてあげて――」
カルラは言うと、くるりと踵を返し、その場を後にしていく。立ち去っていくカルラの後姿を、ビアンカはただ黙って見送るしかできずにいた。
「――どうして、そのことを知っているの……?」
ビアンカの酷く乾いた喉から、漸く漏れ出した愕然の色を宿した言葉。それは蚊の鳴くような、か細く小さなものだった。
(そんなこと……、誰にも話したことなんてないのに……)
本当にカルラの持つ金色と銀色の双眸に、心を見透かされてしまったのだろうか。そんなことを、ビアンカは考える。
カルラの紡いだ言葉は、ビアンカだけしか知らない想いだった。
百年以上もの前――。まだビアンカが“喰神の烙印”という呪いを受け継いだばかりの頃に、自身の想い人であった彼の人と交わした再会の約束。それは、その約束を果たそうとして旅立つに至ったビアンカに、“再会の約束という言葉の呪い”を掛けたも同然だったのではないかと――。永く旅を続ける内に、ビアンカの思考を苛んでいた。
(あの約束は――、彼が、私を安心して“生かさせるため”に紡いだ“優しい嘘”だったんじゃないかって、心のどこかで諦めていた……)
心の表面では約束がいつか果たされることを期待していると“嘘”をつき、その裏ではそれが彼の人がついた“優しい嘘”だったのではないかと。ビアンカは、百余年を一人で生き続け、心の片隅で思っていた。
そうして、そのことをビアンカ自身が苦手意識を抱いていた幼い少女によって、気付かされることになるとは思ってもみなかった。
ビアンカは手にしていた釣り竿を、木の枝を組んで作った竿立てに立て掛け――、その場に仰向けに寝転がる。身体を横たえたことで、周りの土と草の香りがビアンカの鼻孔をふわりと擽った。
「“優しい嘘”――、か……」
ビアンカは言いながら、自身の左手を掲げ上げ、革の手袋で覆われる左手の甲に視線を移した。
革の手袋の下には――、ビアンカから多くのものを奪い、彼女に虚無の心を抱かせるに至った“喰神の烙印”の宿主であることを指し示す赤黒い痣が隠されている。
その左手の甲を見つめながら、ビアンカは先ほどのカルラの言葉を思い返す。
「あなたは――、また私に巡り合えることを、楽しみにしていてくれているのに。私は、それを“嘘”だと思って、諦めようとしていた……」
ビアンカは小さく独り言ちると、掲げ上げていた左手を自身の額と目元を覆い隠すように落とす。そして、溜息を一つ、漏らした。
「“嘘”だと思って信じきれないでいて、ごめんね。――ハル」
ビアンカの呟いた言葉は、風が揺らす草木のざわめきの中に――、掻き消されるように流れていった。