第七十五節 船旅の終熄
“ニライ・カナイ”行き航行船は紆余曲折の末に目的地に辿り着いた。ヒロが海に飛び込むという大事を起こしたものの――、その後は滞りなく船はソレイ港へ帰港するに至った。
ソレイ港へ航行船が戻るまでの間に再び酒興の場が設けられ、羽目を外したヒロがビアンカに酒の飲み比べ勝負を挑み、深酒をして酔い潰れるなどの珍事を起こしてはいたが――。
その際のヒロの様子は、心のつかえが取れたことで真意から楽しそうにしていたと。そう一同に思わせ、安心させている。
ヒロの中にあった“死への羨望”は、『自分も誰かのために生きたい』という独りぼっちだと思い込んだ故に羨んでいたものが、実のところ既に自身の身近にあったという事実に気付くことで払拭された。
これでもうヒロが死への憧れを抱くことは無いとして、ビアンカは心弛びの思いを持つのだった。
“ニライ・カナイ”行き航行船がソレイ港に着港し、ビアンカたちは久方ぶりとなる地に足の着く安堵感を噛み締めた。
「あーっ! ようやっと大地を踏み締めた感じがするわ。二週間以上も船の上とか、きびしーったらないわっ!!」
桟橋に足を運んだ途端に、アユーシは清々した様子で大きく身体を伸ばす。アユーシの傍にいたヒロはきょとんとした表情を浮かしている。
「そう? 僕は陸地に上がると陸酔いしそうでなあ。海に出ていた方が良くない?」
「良くないっ! おねーさんは生粋の陸地っ子なんよ。鰓のあるヒロちゃんとは違うっつーの!」
「あはは。流石に僕も鰓は無いってば。船乗りたちに言った話、本気にしている?」
「あんなん誰も本気にしてるわけないっしょ」
桟橋で足を止めて言葉の応酬をしているヒロとアユーシを傍目に、停泊した船から降りていく人々が何事かと言いたげな面様で視線を投げ掛ける。だが、ヒロとアユーシは好奇の目を気にも留めず猶々と言い合いを続けていく。
そんな二人の様子を往来の邪魔にならぬよう、早々に桟橋から歩み出ていたビアンカとユキが呆れの混じる眼差しで見つめていた。
「おい! 二人ともさっさとこっちに来い!!」
ユキが辟易とした色を宿して声を張り上げると、はたとヒロもアユーシも反応を示す。二人で気まずげに顔を見合わせて苦笑いを浮かべると、会話を止めて埠頭へと足を運んでくる。
反省の色を感じさせない面持ちでいるヒロとアユーシに、ユキは冷ややかな眼差しを差し向け嘆息してしまう。
「まったく。ガキじゃないんだから、時と場所を弁えろっていうんだ」
「えへ。そんな怒らないでよ」
「そうそう。怒ってばっかじゃー、身体に良くないよん」
「……誰のせいで俺がイライラすると思っている?」
苛つきを隠そうともしないユキに、ヒロとアユーシはへらりと笑みを浮かして返弁をしていく。そうした取り交わしを見ていたビアンカの口元から、くすりと可笑しそうに笑いが漏れ出した。
「ふふ。ほんと、みんな賑やかよね。船に乗っている間も同じ感じで、飽きなくて楽しかったわ」
くすくすと笑いながらもビアンカが別れを窺わせる言葉を口にすると、ヒロたちの顔色が僅かながら寂しげに曇るのが分かった。それを目にして、ビアンカも同様に人恋しい気持ちが湧き上がり、表情を曇らせてしまう。
「うん。凄い楽しかったから、ほんと寂しいなあ」
ビアンカの思いにヒロが同意を表すと、アユーシとユキも首肯する。
「まあ、なんつーか。波乱万丈っていうんかね。ちーっとばっか濃い船旅だったよねえ」
「波乱万丈っていうのは大げさだろ、アユーシ。そもそも微妙に意味合いが違う。――だけど、まあ。濃かったのは確かだな。誰かさんのせいで肝も冷えた」
ユキの嫌味混じりの言に、ヒロは紺碧色の瞳を在らぬ方に逸らして苦笑いを浮かす。そうしたヒロの態度を目にして、再び場にはくすくすと笑い声が響く。
笑いの対象となったことで気まずそうにしていたヒロであったが、ふと、気を取り直したようにユキとアユーシに目を向ける。その面差しは未だに寂しげなものを宿し、思い切りの悪い様子を窺わせるものだった。
「えっと。二人はもう行っちゃう感じ?」
口切り出しにくそうにヒロが言うと、ユキとアユーシは頷いた。
「ああ、予定外の船旅で時間を取られちまったからな。さっさとあいつを追い掛けないとだ」
「そうそう。早い内に決着をつけんとだかんねえ。何が目的なのかも、よう分からんし。これ以上の悪さをする前に止めないとって思ってるんよ」
ユキとアユーシは“ニライ・カナイ”行き航行船がソレイ港に着く直前に二人で話し合いをしていた。
二人の本来の目的である、ユキの持っていた“邪眼”の魔力の化身である存在を捉まえること。それを引き続き取り進めるため、ソレイ港に帰港して直ぐにでも旅立つ算段を立てていたのである。
「そっかあ。二人には凄く助けられたから、本当だったら僕も手伝ってあげたいんだけど……」
ヒロの申し訳なさげな口振りにユキはかぶりを振った。
「それは気にするな。お前が群島から出たくないのは分かっている」
「そうさね。それに、ヒロちゃんは群島を守んないといけんし。あと、無茶苦茶寒がりだかんね」
ユキとアユーシが立て続けに発すると、ヒロは再び苦笑いの表情を浮かして頬を掻く仕草を見せた。かような言葉を聞いていたビアンカは、ふとヒロを見上げる。
「ヒロは寒いのが嫌で群島から出ないの……?」
「群島って暖かいからねえ。随分前に一度だけ旅に出てみたことがあるんだけど、本島が思っていたより寒くてさ。海が恋しくなったのもあって、半年くらいで群島に戻っちゃったんだ」
「ああ、なるほど……」
ヒロらしい理由だと思い、ビアンカは納得してしまう。また一つ、くすりと笑いが漏れ出した。
僅か二週間ほどの船旅だった。それでも、ビアンカはヒロたちの性質を理解するに至るまで、濃い期間を共に過ごしたと思う。
そうして、ビアンカは船旅の間に打ち解け、近くで過ごすこととなった三人に何かを残したいと思い至っていた。このように想ったのは百余年を過ごし初めてであり、そこでビアンカが考えたものは――。
「あのね。みんなに渡したい物があるの」
不意にビアンカが口切り始めると、一同の表情が不思議そうにしたものへと変わる。
微かな笑みを表情に帯びたビアンカは、徐にショルダーバッグを漁り、丁寧に折り畳んだ布を取り出す。
「これ。旅のお守りなんだけど、持って行って」
ビアンカは言いながら、ユキとアユーシに布を手渡す。その布を目にして、赭色の瞳と琥珀色の瞳がまじろいだ。
ユキのものには紫色の小ぶりな花弁を持つ花と葉を象った刺繍が、アユーシが手にした布には六枚の花弁からなる赤い花を縁取った刺繍が施されていた。
それを目にして二人は感心したように吐息を漏らしてしまう。
「すんごい綺麗な刺繍がしてあるんね。もしかして、ビアンカちゃんが縫ったん?」
嬉しそうに表情を綻ばせたアユーシが問うと、ビアンカは気恥ずかしげに頷く。
「私の故郷の風習でね。本当は戦場に出る騎士や戦士の無事を祈るお守りとして、自分が普段身に着けているものか作った物を贈るんだけど。ユキさんとアユーシさんに無事でいてもらいたいって思って作ったの」
ユキへ渡した布に施した刺繍の花は“シラン”と呼ばれる花。花言葉は『互いに忘れないように』。
アユーシに手渡したものの刺繍は“グラジオラス”の花で、『思い出』を意味することをビアンカは説明する。
「俺とアユーシのを合わせて、この船旅での出会いを忘れない思い出にっていう意味か。ありがとうな」
ユキが頬を緩ませて返礼を述べると、ビアンカは首を縦に動かし微笑む。そして羨ましげにその光景を見つめていたヒロへとビアンカは向き直り、最後の一枚である布を差し出した。
「――それで、これはヒロの分ね」
「えっ、ほんとっ?! 嬉しいっ!」
ビアンカに声を掛けられると、ヒロの表情は瞬く間に明るく華やぐ。心底嬉しそうなヒロの様子は、再三とビアンカに笑いを零させる。
「ヒロは鞘に着けておいて。赤い扶桑花が『勇敢』の花言葉を持っているのは良いけど……、また無茶な戦い方をして汚したり無くしたりしたら、許さないからね」
「絶対そんなことしないよ。――わわ、どうしよう……。本当に嬉しいんだけど……」
ヒロに手渡された布には、赤い扶桑花が一つ。それは白い布に良く映え、ヒロの頬は刺繍糸の色と同様に赤く染まる。
「……顔、真っ赤だぞ。お前」
「だ、だってさあ。こんなの貰えるなんて思っていなかったし。嬉しすぎて……、何て表現したら良いか……」
ヒロは快然たる雰囲気を誤魔化そうともせずに全身で表しており、その様子にユキが可笑しげに笑う。
「ふーん? ヒロちゃん、好きな子から贈り物されて嬉しいんっしょ?」
「んんっ?! な、なな、なにを言っているのかな、アユーシってばっ!!」
意地悪そうにアユーシがほくそ笑んで口にした言葉を聞き、今度は焦燥からヒロの顔色が赤く染まった。そうした反応にアユーシは一笑する。
「わっかりやすいの。ヒロちゃん、かーわいいねー」
「ほんと、いい歳して思春期のガキかっての……」
「ぼ、僕はっ、気持ちは見た目相応なんですっ!! てか、二人してからかうのは止めてよねっ!!」
慌ててヒロが声を荒げれば、アユーシとユキは微笑ましげに見つめる。
そんな取り交わしをビアンカは不思議げにして見やっていた。




