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片翼の鳥~出会いと別れの物語~  作者: 那周 ノン
第二幕【ニライ・カナイ】
75/136

第七十四節 道標

「かなり長いこと海に潜っていたな。(えら)でもあんのか、あんた?」


「うん、そうだよ。僕、昔っから泳ぐのが得意でね。息継ぎも無しで泳ぐのじゃあ、誰にも負けたことが無いんだ」


 呆れを宿した問いに、ヒロは冗談混じりで返していく。


 ヒロは海面に上がってきて早々、捜索のためにボートを降ろしていた船夫たちに引き上げられた。

 全身ずぶ濡れの状態で水を滴らせ、額に張り付く前髪を手で掻き上げる。戯れを口にする割には、その表情はどこか曇ったものを窺わせていた。


「“ニライ・カナイ”は見えたか? 海に潜ってあそこを見ようとしたのは、きっと兄ちゃんが初めてだぜ」


「……凄く綺麗だった。あの先に行ったら、本当に死ねるのかって思っちゃうくらいにね」


 尚も問い掛けられ、ヒロは苦笑いを浮かべる。


 ヒロは“ニライ・カナイ”をくぐり、“冥界”に足を踏み入れて死ぬことが叶わなかった。それがヒロにとって、心残りとして胸に(わだかま)る。

 無意識の内に光り輝く“ニライ・カナイ”の海面に紺碧色の瞳を向ければ、船に打ち付ける波のさざめきに反し、魂たちが空に向けて漂い飛ぶ静かな状景。


 海中で魂に群がられた最中、ヒロの耳に届いた声。それは彼に多くの言葉を投げ掛けていた。その数々にヒロは思いを馳せる。


(同盟軍のみんなや、世話になった人たち。――それに、ユラの声も聞こえた気がする)


 懐かしい声が聞こえてヒロが反応を示した途端、“ニライ・カナイ”の大穴から突として急流が巻き起こり、ヒロの身体を大きく押し流していた。

 “ニライ・カナイ”から引き離すような、不可思議な力をヒロは感じた。まるで自身に『未だ“冥界(こちら)”に来るな』――、と。窘めるような力だったと、ヒロは思う。


(“ニライ・カナイ”をくぐることさえ許されなかった。僕はいったい、どうすれば良いんだろう……?)


 永い時に渡って心に抱いていた“死への羨望”。それが漸く叶うと思っていた故に、拍子抜けと共に落胆してしまう。

 ヒロは深い溜息を吐き出すと、無念さを窺わせて(こうべ)を伏していた。



   ◇◇◇



 パンッ――!!


 甲板に高い音が響き渡った。

 驚きからヒロは紺碧色の瞳をまじろぎ、左頬を手で押さえる。


 ヒロが甲板に戻り間を置かず、ビアンカが近寄ってきたと思った。

 自身の目の前に立ったビアンカの表情を目にして、ヒロはビアンカが怒っていることに察し付く。どのような言い訳をしようか、などとヒロが考えている最中――。


 先の音が耳に届くと同時に、ヒロの左頬には痛みが走っていた。


「……痛い」


 ヒロはぽつりと呟く。


 ビアンカは怒りの色を表情に浮かべ、右手を振り払った後の姿勢。

 まさかビアンカに叩かれるとは思わなかったと。ヒロの呆気に取られた表情が雄弁に物語る。


「ビアンカ……?」


 ヒロは頬を押さえたまま、小首を傾げた。なんで叩かれたのだろうと、誤魔化して言い表すような面持ちを浮かすヒロを目にして、ビアンカは不機嫌さを醸し出して口を開いた。


「――あなた。自分が死ぬために海に入ったのでしょう?」


 低い声音で綴られる言葉。それにヒロの眉がピクリと動く。


「だけれど、“ニライ・カナイ”にいた魂たちに追い返されたのよね? 『未だ“冥界(こっち)”に来るな』って言われたんでしょう?」


「ええ……、どうして、僕がそんなこと……」


 自身の思想を射貫く言葉を投げ掛けられ、気まずげな欺騙(きへん)が口端をつく。その抗弁を耳にしてビアンカの顔色が増々憤りを彩っていった。


「一人の魂が、私のところにお願いをしに来たの。“ニライ・カナイ”をくぐろうとしているあなたを凄く心配して、危険を顧みずにあなたのことを託しにきたのよ。――黒髪に翡翠色の瞳をした、あなたと同じくらいの歳の綺麗な女の人だったわ」


「ユラが……っ?!」


 ビアンカが口にした女性の見目を聞いた途端、ヒロは驚愕から目を見開いた。

 さようなことがあるはず無いと言いたげにしつつも、海の中でユラの声を聞いた気がしていたため、ヒロは困惑から眉間に皺を寄せていく。


「あなたがいなくなることで、悲しむ人は沢山いるんじゃないの?」


「え……?」


 ビアンカが紡ぎ始めた言葉に、ヒロは不思議げに彼女を見据える。


「過去に縛られるばかりで、通り過ぎていった人たちの背中を見送るままでいて。――目を背けている未来への道の先で、あなたを頼って待っている人たちがいるって。気が付かないの?」


「そ、それは……」


 ビアンカの諭しが胸に刺さった。言葉として投げ掛けられ、ヒロは察し付くものがあった。それが違うと断言できない部分が存在した。


 思えば自分は過ぎ去りし日々ばかり気にしすぎていたと、ヒロは思う。呪いの力で不老不死となり死を知らない彼は、多くの人々の住生を見送ってきた。それは胸への痛みを伴う想い出となって、ヒロの内を占めている。

 かつて出会い別れた人々を想い、これから出会うであろう者たちのことを、自身を慕ってくれる今を生きる多くの者たちのことをヒロは失念していた。


「……僕。みんな、いなくなってしまって。もう、独りぼっちなんだって思っていたよ。なんで、こんな簡単なことに、気付かなかったのかな」


 ヒロは震える声で独り言のように呟くと、口元に手を押し当てて黙してしまう。その姿をビアンカは気を静めた面差しで見つめる。


(思い悩みすぎて、気が付けなくなってしまっていたのね。自分が独りだと思い込んで、周りに沢山の人たちがいるのに、それが分からなくなってしまった……)


 それは、霊魂であるユラの話を聞いている中で、ビアンカの感じた引っ掛かりだった。


 ――『自分も誰かのために生きられればと、羨望を持ち始めているの』


 そうユラは口にしていた。だけれども、ヒロは既に幾多の人のために尽力している。彼を必要として慕う者は多くいた。だのに何故、そのような羨望を抱いているのかを、ビアンカは疑問に思った。

 独りぼっちになってしまった。そう思い込んだヒロの心は、周りを見やる余裕を無くしてしまった。さようにビアンカは推し量っていたのである。


「――ヒロちゃん」


 項垂れたヒロに、不意にアユーシが声を掛ける。その声に、ヒロは揺れる紺碧色の瞳を向けた。ヒロに見つめられた瞬間に、アユーシは満面の笑みを浮かす。


 かと思えば――。


「こんの馬鹿がっ! 心配かけさせてっ!!」


「うぇっ?!」


 アユーシは声高に発すると、ヒロの腹部に強烈な拳を見舞っていた。全く以て予想していなかった一撃を身構えることなく食らったヒロは、前のめりになりよろけた。


「げほっ。ア、アユーシッ?! なに、するんだ、よっ?!」


 突然の仕打ちにヒロは腹に手を当てて咳込み、掠れる声を絞り出す。それにアユーシの表情が見る見る内に険悪の情に染まる。


「なにするじゃ、なしっ!! おねーさんたちがっ、どんだけ泡喰ったと思ってるんっ?!」


 叫び捲し立て、アユーシは再度ヒロの腹に力加減の無い拳を打ち込む。動きを察したヒロは咄嗟に腹に力を入れてやり過ごそうとするのだが、その行為が癪に障ったようでアユーシは怒りの感情を増長させた様相で拳を振るっていく。

 幾度となく殴られることにヒロは苦笑いを浮かべ、制止の声を(つぐ)んでしまうほどの怒りを顕わにするアユーシを見やる。普段は明朗快活で勝気なアユーシが琥珀色の瞳に涙を浮かべていた。それだけで、どれほど自身を心配していたのかを、ヒロは推し量った。


「アユーシ。そのくらいにしておけ」


 神妙な面持ちを見せるユキがアユーシの肩に手を置き、喚くのを制する。それにヒロは安堵の表情を窺わせるが――。


「――今度は、俺の番だな」


 低い声音を喉から漏らしたと思うと、ユキは唇に弧を描く。それを耳に入れたヒロの顔色が立ちどころに変わった。


「え? え? ちょ、ちょっと、待ってよ……」


「問答無用……っ!!」


 ユキが右腕を大きく振るった直後――。鈍い音が甲板上に響いた。



 船夫たちの用意してくれた氷嚢(ひょうのう)を左頬に押し当て、ヒロは甲板の片隅に座り込んでいた。

 ビアンカからの平手打ちを受けた後、そこと同じ箇所にユキの強烈な拳を見舞わされたヒロの左頬は、微かに腫れて赤く染まっている。


「うう、痛いなあ。みんな、優しくない……」


 ヒロが不平を口にすると、(かたわ)らで手摺に肘を付いて海を眺めていたビアンカが冷ややかな眼差しを向けた。


「殴られたのは、自業自得だと思うのよね。――そもそも、それだけ怒ってくれるっていうのは、優しさだと私は思う」


 再び海に目を向け、ビアンカは冷めた声音で口にする。すると、ヒロは不服げに眉を寄せて(しか)め面を見せた。


「分かっているけどさあ。ビアンカまで厳しいことを言わないでよ。泣きたくなってくる……」


 言葉尻を(すぼま)ませながら発せられる言葉。その声は微かに震え、本当に泣き出す寸前のものだと、ビアンカに悟らせて再度ヒロに目を向けさせる。

 ヒロは唇を噛み、不意と膝を抱え込む。そして、顔を隠すように伏していった。


「……泣きたければ、泣くと良いわ。この船にいるみんながね。海に飛び込んだあなたのことを、心の底から心配してくれたのよ」


「うん。優しさが、身に染みるよ。ほんとに……」


 掠れた声を漏らし――、ヒロは静かに涙していた。嗚咽も立てずに泣くヒロを傍目(はため)に、ビアンカは黙したまま潮騒(しおさい)の音に耳を傾けていた。

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