第七十三節 海の泡となり
人気の無い甲板の片隅で、ビアンカは一つの魂と向かい合う。
淡い光の粒子を纏わせるそれは、徐々に人の姿を成していき――、微かに身を透けさせる一人の女性がビアンカの前に佇むこととなった。
長い艶やかな黒髪に翡翠色の瞳。華奢ではあるがスラリと背の高い、綺麗な女性だと。そうビアンカは思って見惚れてしまう。
そして、その女性を見た瞬間に、ビアンカは彼女が何者であるかを察していた。
「――あなた。ユラさん、ね?」
確信を以てビアンカが問うと、女性――、ユラはゆるりと頷きを示す。
『私の声を聞くことのできる子で良かった。あなたの宿す“呪いの烙印”の近くに寄って大丈夫かと、冷や冷やしてしまったけれど……』
「そうも言っていられないから、身の危険も顧みずに出てきたのね」
ビアンカが口にすれば、ユラは再び首を縦に振るって然りを表した。
ビアンカの宿している“喰神の烙印”は、魂が多く存在する“ニライ・カナイ”海域に辿り着いても鳴りを潜めている。恐らくは海賊たちとの戦いで魂を多く喰らって満足しており、かつビアンカに“ニライ・カナイ”にいる魂に手を付けないように再三と窘められていたためだろう。
そのために、目の前に魂が現れても静かなままでおり、霊魂の存在であるユラを安心させた。
「ヒロのことで、何かあるの?」
ユラが無謀にも姿を現したということは、何か伝えたい事柄があるのだろうと。そうビアンカは思いなし、問いを投げる。すると、ユラは憂事の色をかんばせに帯びた。
『私が“死への羨望”を抱いたことで、ヒロには多くの不幸と悲しみを背負わせることになってしまった――』
ユラは悲しげな声音で、後悔と自責を口にする。
『ヒロは小さい頃から、とても責任感が強くて優しくて。他人のために、自分の身すら顧みない人だった。頼まれたことは断れないし、自分が損をすることになっても誰かに尽くす。そんな彼の優しさを、私は踏みにじって利用する形になってしまった』
“海神の烙印”の呪縛から逃れるために、ユラはヒロの目の前で自らの命を絶った。
そのことでユラは、呪いがもたらす苦しみから逃れることができたが――。ユラから“海神の烙印”の継承を受けたヒロは、その受け継いだ力を恐ろしいものと自覚して自らが宿し続けることを選び、その力で傷付こうとも他者を守るために尽力していたという。
『私にも、ヒロのような心の強さがあったらって思った。そうすれば、彼に苦しみを与えずに済んだのに……』
反面でヒロに“海神の烙印”を継承させてしまったことで、ユラは死してなお悔恨の想いに苛まれている。彼女の声音から、ビアンカはそれを推し量った。
『でもね、ヒロは優しすぎるの。懇意にしていた人たちを沢山見送って、彼は疲れ果ててしまった』
「だから、“死への羨望”を持ったのね。それで、みんなの元に行きたくて、“ニライ・カナイ”に向かった」
ヒロが“死への羨望”を宿すに至った切っ掛けは、自分と同じだとビアンカは思う。
ビアンカ自身は未だ『いつか死ぬこと』など考え及んでいなかったが、親しくしていた者たちを多く看取ることで、心が疲弊していったのは確かだった。
ヒロが“海神の烙印”を身に宿して四百年以上。いったいどれほどの人々をヒロは見送ってきたのだろうか。彼の人好きでいて人懐こい性格を考えるに、懇意にしていた者たちの死は、確実にヒロの胸中に数多の傷を残してきただろう。
それらを思えば、死を迎えることに憧れを持つのも致し方ないと、ビアンカは惟う。
『ヒロは、かつて懇意にしていた人たちに会うために。そして、あなたが考えていたように、あなたへ“海神の烙印”を引き継がせないために“ニライ・カナイ”をくぐることを望んでいる。――だけれど、反面で死ぬことも恐れているわ』
ユラの発した言葉を聞き、ビアンカは一考から垂らしていた首を上げた。
「……死にたくないとも、思っているの?」
ヒロは頑なに死を望んでいると。そう考えていたビアンカは驚嘆の表情を浮かした。その彼女の反応を目にして、ユラは首肯していた。
『ヒロはね。あなたの一途さに惹かれて、そうした生き方ができることを羨んでいるわ。自分も誰かのために生きられればと、羨望を持ち始めているの』
不意にユラが紡ぎ始めた内容に、ビアンカは怪訝そうに首を傾げてしまう。
ユラの言葉に引っ掛かりを覚え、その疑問を表情に浮かせるビアンカを見やると、ユラは優しく目元を細めた。
『あなたならヒロの『道標』になれる。大切なことに気付いていないヒロに、歩むべき道を指し示してあげてほしい』
「でも、ヒロは……」
もう海に身を投じて、“ニライ・カナイ”へ向かっていってしまった。そうビアンカが口にしようとするが――。その言葉が発せられる前に、ユラの姿は再び淡い燐光を発する魂へと変化していた。
――『ヒロのことを、お願いね』
霊魂の姿に身を窶したユラは、ふわりとビアンカの真横を抜けていく。その最中に、自身の願いをビアンカに囁き残し、“ニライ・カナイ”の眩く光る海に戻っていった。
◇◇◇
口元から漏れ出す空気が泡となって頭上に上がっていく。
それを傍目に追いかければ、紺碧色の瞳が映すのは、自身の瞳と同色の煌めく海面。差し込む太陽の光を眩しげにして目を細め、ヒロは海を深く潜るために水を掻いた。
改めて海の底へ視線を向けると、見えていた光が強さを増す。
いつの間にかヒロの周りには淡い燐光を発する魂が漂い、共に海中を泳ぐ。自身の傍らに寄り添う魂たちに気付き、ヒロは微笑みを浮かべた。
(――やっぱり、“ニライ・カナイ”は凄いな。近づくにつれて魔力とは違う気配を感じて、眩暈がする……)
徐々に目に見えてくる、強い光を発する正体。深く潜っていくに従って、感じたことの無い感覚に充てられて眩暈を覚える。頭がぼんやりとしてくるものの、ヒロは海を進むことを止めなかった。
願わくは、“ニライ・カナイ”に迎えてほしい。その羨望を叶えるために、ヒロは敢えて海に身を投じた。
自身の最期の我儘になること。それの後始末にユキとアユーシを巻き込んだことは、申し訳なく思う。そうして、自身を同じ“呪い持ち”として慕ってくれたビアンカに、謝っても許されないことをしたと思う。
それらが遺憾の想いとなって、ヒロの心に後ろめたさを抱かせた。
だけれども、致し方の無いことだと。そう自分自身に言い聞かせる。
(きっとビアンカは、自分のせいだって――。“喰神の烙印”の呪いのせいだって、思っちゃうんだろうなあ)
“喰神の烙印”の『身近な者に不幸を撒き散らし、死に至らしめる』という特性。恐らくビアンカは、その呪いのせいでヒロが死ぬことになったと、自責の念を持つだろう。
ビアンカが悲しむところを見たくないなどと思いながら、結局は悲しませることをしてしまったと、ヒロは思いやる。
(でも、仕方ないや。――“海神の烙印”は、次の宿主としてビアンカを選びたがるだろうし。そうさせないためにも、僕が“海神の烙印”を連れて“ニライ・カナイ”をくぐってしまえば良い)
“海神の烙印”は次の宿主を選ぶ際、現在の宿主が強い想い――、愛しいと思う者に牙を向ける。それを知ってしまった故に、安易に“呪いの烙印”から逃れることがヒロにはできなかった。
どうして気にしてしまったのか。どうして惹かれてしまったのか。
一目見た時から、故郷であるオヴェリア群島連邦共和国では目にしない見目に、年甲斐も無く胸が高鳴ったのは認める。接していく内に感じた、消極的で大人しそうに見えて、実のところは強かで怒りっぽくて行動的な面や、人当たりが良く優しい性格に惹かれたのも認めよう。
だがしかし、まだ出会って日は殆ど経っていない。だのに何故、こんなにも執着してしまったのかが、ヒロには解せなかった。
ビアンカのハルを一途に想う生き様が羨ましく思い、自身も同じように生きられたらと。ビアンカを見守ることができればと、そう僅かながらも考えた。
だがしかし――、今更と考えたところで何にもならないとヒロは思い、深慮を止める。
(まあ、好きな子のことを想って死ねるなら。海に生きた者としては本望かな)
ハルもこんな気持ちだったのだろうか。さようなことが、頭の片隅を過る。
(……あっちで逢えたら、聞いてみよう。良いなって思っちゃった相手が悪くて、話を聞き出すのは難しいかもしれないけど)
眼前に広がる光が、より眩さを増す。ヒロが眼下に見た“ニライ・カナイ”は、神々しく煌めき、辺りには魂の燐光が夜空の星の如く多数漂う。その情景はこれまでにない美しさを感じさせ、ヒロに感嘆の思いを懐抱させた。
かつてない景色にヒロは紺碧色の瞳を細める。そして、その最奥に大きく口を開いた穴が穿たれ、そこから強い光や魂たちが湧き出していることに気付いた。
(あの更に奥が“冥界”への入り口ってところかな。あんなに深くまで潜っていけるか……)
魂の燐光を纏わり付かせ、ヒロは思案する。しかしながら、考えるだけでは何の解決にもならないと思い至り、首を微かに動かした。
そして、ふと、革の手袋も外していることで露わになっている左手の甲――。“海神の烙印”に紺碧色の瞳を差し向けた。
(――“海神の烙印”も、僕と一緒に眠ろう。もう、永く呪い過ぎて、疲れただろう……?)
心中で“海神の烙印”に語り掛けるも、それが返事を発することは無かった。そのことにヒロは、再び自嘲じみた笑いを漏らしていた。
意を決し、ヒロは深く潜り進める。
あと少しで、永い間に渡って想い焦がれた願いが叶う。そう考えていた最中だった。
“ニライ・カナイ”から海面へ昇っていく魂の燐光が、突としてヒロに向かって群がる動きを見せた。あまりにも突然の出来事に、ヒロは吃驚から瞳を見開く。
(――これはっ?!)
ヒロは驚きから狼狽を示す。だが、自身の回りに魂が群れたと思った瞬間――。
“ニライ・カナイ”の大穴から急流が発せられたと同時に、ヒロの身体は強い流れに飲まれ、まるで弾かれるように“ニライ・カナイ”から引き離されていた。
(なんだよ……。みんな、まだ僕に、“冥界”に来るなって言うのか……)
立て続けに起こる事象に狼狽える中、ヒロの耳に声が届いた気がした。それを感知して、ヒロは歯噛みをして哀傷の念に瞳を伏した。




