第七十二節 泡沫の願い
道中で海賊たちに強襲されたこともあり、航行船は僅かばかりの日数を超えた後に目的地であった“ニライ・カナイ”海域に行き着いた。
視界の先は島も何も存在しない紺碧色の海が広がるだけ。
太陽の光を反射させて煌めく海原は――、広大な範囲に渡って太陽の光だけではない、輝かしい光が海中から空に向かって漏れ出す不思議な光景を見せる。辺りには掌ほどの大きさの燐光が上空に漂い飛び、より幻想的な雰囲気を彩っていた。
「凄い、綺麗……」
ビアンカが感動した色を声に乗せて呟く。その声を聞いて、ヒロは満足そうに頷いた。
「これが“冥界”への門を開いた“ニライ・カナイ”だよ。周りに飛んでいるのが死者の魂で、これから遺された者の元へ帰っていくんだ」
ヒロは言いながら抱えている赤い扶桑花と白い緬梔花の花束から花を個別に分けていく。それをビアンカに手渡し、残りもアユーシとユキへ分けていった。
「よく船旅の間に枯らさなかったんね?」
手渡された赤と白の花を見やり、アユーシが感嘆を発する。
“ニライ・カナイ”へ赴くまでの間、花をしおれさせずに保つことは困難だった。だのにも関わらず、ヒロが船に乗り込む前に買った花は萎えた様子も無く、鮮やかな色を保ったままであった。
「ビアンカが世話をしてくれてね。一応買った時に蕾の多い花束を作ってはもらったんだけど、買った時とほぼ変わらない状態で持って来られたんだ。世話が上手だったんだね」
嬉しそうに笑みを浮かしてヒロは言う。その褒め言葉を聞き、ビアンカは気まずそうに視線を泳がせる。
ビアンカはヒロの花束を目にして、船旅の間に花が枯れてしまわないかを心配していた。そのため、自ら世話を買って出ることで“喰神の烙印”の魔力を些か与え、花が朽ちてしまわぬように面倒を見ていたのである。
そのことにヒロは気付いておらず、ビアンカの世話が良かったと絶賛していた。ビアンカも敢えて是正を口にすることなく、溜息を吐き出す。
「んで。これをどうしろって言うんだ?」
花を手にしてユキが不思議げに問う。すると、ヒロは海へと身体を向け、手にしていた花を投げ入れた。
海の紺碧と花の赤と白が対照的で良く映える。それを瞳に映し、ヒロは頷く仕草を見せた。
「これは死者への手向けの花。海に投げ入れたら、後は祈ってほしい。――祈り方は、形式に拘らないで自由にしてもらって構わないよ」
ヒロは言うと、拳に握った右手を左胸に押し当てて瞳を伏し、首を僅かに落とす。オヴェリア群島連邦共和国の形式で、彼は静かに祈りを捧げた。それに倣ってユキとアユーシも海へと花を投げ入れ、祈り始める。
ビアンカも花を投げ入れると、両の手を眼前で組んで瞳を閉じ、祈りを捧げる。
祈るのは、かつて懇意にしていた者たちの安息を。そして、今後“ニライ・カナイ”へ赴くことになるだろう人々を受け入れ、安寧を与えてほしいという願いだった。
祈りを終えてビアンカが瞳を開くと、ふと視線を感じ取る。自身を見やる相手に翡翠色の瞳を向けると、彼女の傍らに佇むヒロの紺碧色の瞳と重なった。
ヒロはビアンカと視線を交わし合った途端、優しげな笑みを浮かべる。
「ハルにも祈りを捧げさせてもらったよ。君を守ったっていう報告もしたけど――。どちらかというと、僕の方が君の世話になってばっかりって感じだったね」
ヒロは自嘲する口振りで言いながら、へらりと笑う。それを耳にして、ビアンカはかぶりを振った。
「そんなこと無いわよ。沢山のことをヒロは教えてくれたし、あなたの言葉でどれだけ救われたか分からないわ」
「ふふ。そういってもらえると、僕も報われるよ」
「生まれ変わって新しい人生を歩んでいるハルは、“旅人”の私にとっての還る場所――、『止まり木』になってくれるって言っていた」
不意にビアンカが紡ぎ始めた言葉を聞き、ヒロは紺碧色の瞳を不思議そうにまじろぐ。
「ヒロはね。私にとって、“呪い持ち”として気負わなくても良いっていう道を示してくれた『道標』なんだと思うの。あなたがいてくれたから、私は気持ちを改めることができたわ」
「あはは、そっか。僕は“旅人”の『道標』か」
そうしたビアンカの告白に、ヒロは嬉しそうに笑った。かと思うと、瞳を在らぬ方へ向けて一顧の様を見せ始め、再びビアンカを見やる。
「そうしたら、僕の『道標』としての役割はここまでだね――」
「え……?」
笑顔と共に口に出されたヒロの言を聞き、ビアンカは思わず首を傾げた。
だが、不思議げな様相を見せるビアンカに、ヒロは笑みを向けたまま頷くだけだった。
すると、ヒロは黙したまま徐に、腰に剣を携えるためのベルトを外し、上着を脱ぎ始めた。それを目にしていたビアンカやユキ、アユーシは驚きの表情を浮かす。
「なにしてるん、ヒロちゃん……?」
突然のヒロの行動に、アユーシが怪訝そうに問いを投げる。
尚も衣服を脱いでいき、表着とボトムだけの軽い姿になったヒロは悪戯そうに目を細め、身体を動かして身を解す動作を取り始めた。
「えーっと。ごめんね、みんな。――僕、“ニライ・カナイ”に行ってみようと思うんだ」
「は?」
突としてヒロの口をついた言葉に、アユーシとユキは意味を理解できずに瞳を瞬かせた。ビアンカだけがことを察し、眉を曇らせてしまう。
「“ニライ・カナイ”を直接見てみたい。僕が戻らなくても気に病まないで良いから。ソレイ港の方に戻るように船長に言ってほしい」
一切の犯意が無い口振りでヒロは言う。その言葉にユキが聡く真意を察してヒロの腕を掴もうとするが、それをヒロは身を捻って躱していた。
「ヒロッ、あなた……っ!!」
ビアンカが声を荒げると、ヒロは申し訳なさそうに微笑む。そして、ユキの手に捕まるまいとして、早々に手摺に素足となった足を掛ける。
「――行ってくるね。またいつか、みんなと巡り逢えるように、祈っておいたからっ!!」
ビアンカが咄嗟に手を差し伸べようとするも、ヒロは言うが早いか手摺を乗り上げて海に身を投じていた。
呆気に取られる一同の耳に、次には海に飛沫が上がる音が聞こえる。
「おいっ! 誰か落ちたぞっ?!」
「いや。自分から飛び込んだみたいだ。ボートを降ろせっ!!」
ヒロが海に飛び込むと、立ちどころに甲板上で焦燥の声が上がった。
船夫たちが慌てた様子で動き始め、“ニライ・カナイ”の景色に感動を覚えていた人々に騒然とした雰囲気が伝染していく。
そうした噪音の中でビアンカは手摺に手を掛け、身を乗り出すように眼下の海を見やる。だがしかし、見えるのは紺碧色の海面だけで、ヒロの姿は既にどこにも見当たらない。
「嘘、でしょ。なんで……?」
震えの混じる声でビアンカは呟き零す。
ヒロと“喰神の烙印”の正体について話をした時、そして酒興の場での賑わいの時。その最中でヒロの言葉の一つひとつに、ビアンカは引っ掛かりを覚えていた。まるで自身の死を目前に控えているような口舌だとは思った。
確かにヒロは“死への羨望”を抱いていた。しかしながら、それは“海神の烙印”に関する真相を聞き、彼が呪いのもたらす悪夢から解放されたことで払拭されたと。そうビアンカは勝手に考えていたが、それは彼女の思い違いだった。
(あれだけじゃ、ヒロにとって何の解決にもなっていなかったんだ。彼は最初から、自分を苛む力から逃れるためじゃなくて――、同盟軍の仲間やハルのところに行きたくて、死を望んでいた……)
そこまで考え及び、ビアンカは項垂れる。
自身の浅はかな考えが恨めしかった。どうして早く気が付いてあげられなかったのだろうと、ビアンカは後悔の念を抱く。
海から目を離すことができずにいたビアンカの肩を、ユキが静かに叩いた。それに反応を示してビアンカが瞳を向けると、ユキが神妙な面持ちで佇む。
「あいつ、飛び込む前に『ビアンカに迷惑を掛けられない』って考えていた。――なにか心当たりはあるか?」
ヒロが飛び込む直前。彼の考えを読み取っていたユキが怪訝そうに問いを投げ掛け、ビアンカは何のことだと言いたげに首を傾げる。しかし、あることに思い当たり、はたとした様子を窺わせた。
「なにか、あるんだな?」
「……ヒロの宿している“呪いの烙印”は、宿主の強い念を抱く相手が次の継承者として選ばれるらしいの」
ビアンカは真実を少しだけ隠し、ユキに説明する。その言葉にユキの表情が曇り、忌々しげに舌打ちを零させた。
「なんだよ、それ。それじゃあ、あいつは……」
「ユ、ユキちゃん。どうするんよお」
アユーシが狼狽から右往左往していると、ユキはその肩を抱いて宥めようとする。
さようなユキとアユーシのやり取りを傍目にして、ビアンカは再び海に目を向けた。
「ヒロは、私に“海神の烙印”を継承させないために、“ニライ・カナイ”をくぐろうとしているの……?」
事の解せなさを覚え、ビアンカは誰に言うでも無く独り言ちる。
“海神の烙印”の化身である人魚は過去の話をしている際に、呪いの継承方法についてを語っていた。
ヒロの宿すこととなった“呪いの烙印”は、宿主が強い想い――、愛しいと思う者を次の宿主に選ぶ。そして、その存在が目の前にいる時に宿主自らが命を絶てば、宿主は呪縛から逃れ、次の継承者に呪いが移行する。
それ故にヒロは敢えて、深い海の底で生涯を終えることを選んだ。
“海神の烙印”を誰にも継承させないため、そして自身の宿願であった死を掴み取るために――。
何という自分勝手な考えだろうと思う。そう考えると共に、ビアンカは手摺に掛けていた手に力を籠めて握る。
鬱屈とした思いに沈んでいたビアンカだったが、ふと垂れていた頭を上げた。
気付くとビアンカの目の前に、淡い燐光を発する魂が一つ、漂う。それはふわりとビアンカの横を抜けていくと、まるで彼女を誘うかのような動きを見せて人気の無い場所へ移動していく。
その魂に誘われ、ビアンカは甲板を人知れずに歩んでいった。




