第六十九節 安息
「うう。しんどい……」
人目を避けて船室まで辿り着くと、ヒロは覚束ない足取りで歩む。そして、床に膝を付いたかと思うと、ベッドに勢い良く倒れ込んだ。そのまま上体だけを突っ伏して柔らかな羽毛の掛布に埋もれさせ、安堵から深く息を吐き出す。
かんばせは幾許も良くなったが、流した血の量が多すぎて貧血が治まらなかった。目が回る浮遊感の中で無理に立ち上がって歩いたこともあり、ヒロは疲弊しきっていた。
「ヒロ。お布団が汚れるから着替えて」
クローゼットを漁っていたビアンカが声を掛けると共に、乗船客用に置かれている衣服をヒロに向かって投げる。床に無造作に落ちたそれに、ヒロはゆるりと怠そうに目を向けた。
「着替えるのも辛いんだけど……。脱がして着替えさせて――、くれないね。うん、ごめんっ!!」
つい口に出た戯言を耳にしたビアンカは、目元の笑っていない笑顔でヒロを見つめていた。それに気付いたヒロは慌てた様子で上体を起こし、床に置かれた衣服に手を伸ばす。
嘆息しながら遅鈍な動きで上着を脱ぎ始めるヒロを傍目に、ビアンカはベッドの上に大きめのブランケットを敷いてヒロが横になっても大丈夫なように準備をする。
本来であれば海賊との戦闘もあり、汗と埃、それに血で汚れているため、清拭程度でも良いので身を清めてほしいところだったが――、致し方ないと観念したような溜息を一つつく。
ビアンカがいることを気に留めず着替えを進めていくヒロに目を向けて、ビアンカは微かに眉を寄せつつ口を開いた。
「私は船倉の後片付けをしてくるわ。着替えたら、ゆっくり休んでいて」
「あ、うん。面倒を押し付けて、ごめんね」
ビアンカの声を聞き、ヒロは再び申し訳なさに表情を曇らせる。尚も謝罪を口にするヒロにビアンカは首を左右に振るう。
「大丈夫よ。あと、脱いだ服は適当に置いておいて。早く手を付けないと、血も落ちにくくなるし。私が代わりに見るから」
「え? あっ?! 洗ったりしなくて良いからねっ?! 自分でやるから、これは放っておいてっ!!」
よく回っていないのであろう頭で、ヒロはビアンカの言葉を咀嚼するように考える。そして意味を察した途端に狼狽を含んだ声を上げた。面食らった様相で脱ぎ捨てた衣服を引き寄せ、隠すような仕草を見せる。
焦燥に駆られて慌てふためくヒロの回申。それにビアンカは会話の噛み合わなさを感じ、首を傾げてしまう。
「切られて穴が開いたところとか、どうするの?」
「じ、自分で繕うから。いつものことだし……」
気まずげな声音で返されるヒロの言葉を耳にして、ビアンカは一つの疑問を覚えていた。そのため、それを伺うために問いただしの弁をヒロに送る。
「ねえ、ヒロ。“海神の烙印”は、宿主の傷を癒すだけなの?」
ビアンカが問い掛けると、ヒロの顔付きが不思議そうなものに変わった。
「え? 呪いの力って、普通そうでしょう?」
何を言っているんだと。そう内包された口振りの返しに、ビアンカは幾度か頷く。
「……そう、なのね。分かったわ」
返されたヒロの言に、嘘を言っている色は感知できない。それ故にビアンカは理解したことを示すように頷いた。そして得心を窺わせると踵を返す。
「それじゃあ、私は行ってくるわね」
「うん、お願いするよ。ありがとう」
ヒロの見送りの声を背に受け、ビアンカは船室を後にしていくのだった。
◇◇◇
船倉の清掃に手間取り、ビアンカが船室に戻るのに三刻近くを要した。
人の目に付かないよう注意しての作業となったものの、幸いにも甲板での作業や清掃に人出を取られていたようで、船倉に誰かが訪れることは無かった。
やや疲れた様相を呈してビアンカが船室に足を踏み入れると、部屋に入って早々に目に付くベッドではヒロが俯せに倒れ込み――、眠っていた。
ビアンカは、眠るヒロを起こしてしまわぬように気を付けながらベッドに近づき、その縁に腰を掛けた。
手を静かに動かして、ヒロの前髪を僅かに掻き上げる。紺碧色の瞳を縁取っている黒く長い睫毛は、触れられたことを意に介さず、伏せったままで微動だにしない。草臥れ果てていたために横になり、身を休めようとしたのだろう。だが、疲れが勝ったことで、そのまま寝入ってしまったのだということを窺い知ることができた。
“海神の烙印”が見せる悪夢に苛まれ、眠れないと言っていたヒロは穏やかな寝息を立てる。それは夢見が悪くないことをビアンカに悟らせ、微かに笑みを零させる。
「良く眠れているみたいね。良かった……」
ヒロの様子を確認すると、ビアンカは小声で独り言ちる。
ビアンカは再び腰を上げると、ベッドの傍らに脱ぎ捨てられたヒロの服を手に取った。その黒い衣服は血を吸い込み、微かに湿った感触と重さをビアンカに感じさせた。
それらを抱えると、船室の片隅に置かれる椅子に改めて腰を下ろす。
――『あの姦しい女たちは、満足して鳴りを潜めているな。お陰であれは悪夢に付き合わなくて良くなったようだ』
やにわにビアンカの中で響く、聞き慣れた“喰神の烙印”の声。それに応じるかの如く、ビアンカは小さく一笑を漏らしていた。
「今回ばかりは、あなたに感謝するようね」
眠っているヒロに気遣い、小さく口に出した返礼。その言葉に“喰神の烙印”が喉を鳴らす低い笑いを立てた。
「“海神の烙印”に話をする力を与えること、ヒロを癒すこと。それをあなたが申し出てくれるなんて思わなかったわ」
――『言ったであろう。腹を満たさせてもらった礼だと』
“喰神の烙印”は、ビアンカが船倉に赴く際にある提案を持ちかけていた。
ヒロが未だ“呪いの烙印”の宿主として未熟であり、“海神の烙印”の声を聞き取る力が無いこと。“海神の烙印”が呪いの力を貸し与えた代償として、宿主にもたらす痛みと苦しみ――。
それらを了していた“喰神の烙印”は、ヒロが総指揮を取る形で命を落とす結果になった海賊たちの魂を喰らい、『食事を振る舞ってもらった』という解釈の元で、ヒロの救済をすることを申し出ていたのだった。
「どんな理由だろうと、助かったから。――随分と協力的になってくれて、嬉しいわ」
捻くれた考え方はいただけないけれど――、と。内心で本音を吐露しながらも、ビアンカは礼の言葉を口にした。
ビアンカは浅く吐息をつき、抱えていたヒロの衣服を広げる。
その衣服には所々に斬られた跡、そして腹部を刺された際に付いた跡が見受けられる。だが、染み込んだ血の痕は――、目立ちにくい。そのことで、ビアンカは何故にヒロが黒を基調とした服を身に纏っているのかを推し量った。
「“海神の烙印”は、宿主の傷は癒すけれど。あなたみたいに身に着けているものを直したりとかは、未だできないのかしら?」
心中で疑問を持ち、先ほどヒロに投げ掛けた問い。それに対し、ヒロは宿主の傷しか癒さない旨の返弁をした。
――『あの若造が未熟なのもあるが。――娘。お前はそろそろ自身が特別な存在だということを、自覚すると良い』
「え?」
呆れ混じりの嘆息の音を立てて“喰神の烙印”の口をついた言葉に、ビアンカはキョトンとした面持ちを浮かす。
――『お前ほど“呪いの烙印”の力を引き出している存在は他にはおらぬ。私を恐れずに使役し、力を抑え込み。そして、必要な力だけを時々に引き出す……』
どこか苦々しげな声音で“喰神の烙印”は語る。
――『我らの存在を恐れず、立ち振る舞う。ましてや、この私に友のような感覚で接する者はお前が初めてだ。そのような存在は、私が“呪いの烙印”に身を窶してから、ただの一人も――』
多弁に言葉を紡ぐ“喰神の烙印”は、ふと言葉を切った。突然に話が途切れたことにビアンカが不思議そうにしていると、“喰神の烙印”は一考の様を窺わせ、再び声を発しだす。
――『いや。ただ一人、お前のような存在がいたな』
「え? そうなの?」
――『私にとっての原初の宿主。あれもお前と同じように、私を友か何かのように接してきた』
「……どんなヒトだったの?」
思いも掛けていなかった口述に好奇心からビアンカが問うと、“喰神の烙印”は喉を鳴らして一笑した。
――『それは、機会が来たら話そう。――そろそろ若造の衣服、手放したらどうだ?』
「あ、うん」
意地悪さを内包した声に煽られ、ビアンカは膝の上に乗せていたヒロの服を手に取って広げる。
先ほどまで斬られた跡や血の痕が見受けられた衣服は――、そのような解れや引き攣れ、汚れがあったとは思わせない状態になっていた。それを認め、ビアンカは浅く安堵の息を吐き出した。
「長く身に着けていたもの以外を直すのって初めてだったけど、上手くできて良かった。これで私が洗ったりしたわけじゃないから、ヒロも文句は無いわよね」
ビアンカは“喰神の烙印”が有する宿主の負った傷のみではなく、所持しているものにも影響を及ぼす魔力を操り、ヒロの衣服を修繕していたのだった。
さような行為に自らの魔力を行使された“喰神の烙印”は、溜息のような音を漏らしてしまう。
――『娘。お前は少々、あの若造に甘すぎないか?』
「せっかく初めて出会った“呪い持ち”だもの」
再三と呆れの混じる声で指摘され、ビアンカは微かに苦笑いを浮かした。
「ヒロと“海神の烙印”は、私にとっての『道標』っていうのかな。沢山のことを気が付かせてくれたから、とっても大切な存在よ」
綴られていくビアンカの返答に、“喰神の烙印”は嘆声のような音を彼女に感知させる。
「……あなたのこと、ヒロに聞いても良い?」
――『好きにするがいい。大したことを若造は知らんし、私の正体が分かったところで何が変わるわけでもない』
ヒロの無知を嘲るように“喰神の烙印”が口舌すると、ビアンカは頬に指を押し当てて一顧する。すると、何かを思いついたのか表情を悪戯そうに緩めた。
「また実態を現わして、あなたも一緒に話をするのでも良いのよ?」
――『ごめん被る相談だな。私の今の姿を目にしたら、若造も姦しい女たちも大笑いするのが目に見えている』
「意外と可愛かったわよ。――モルテの姿」
くすくすとビアンカが笑うと、忌々しげな舌打ちが聞こえた気がした。そのことで更に可笑しげにビアンカは笑いを零すのだった。




