第六十八節 懐疑心
ふっ、と吐声をつく音が響いた。それと共にビアンカの背に纏わりつく“海神の烙印”の化身である黒い人魚が、ゆるりと尾鰭を揺らした。
船倉の中は静かな様相を呈していた。姦しい笑い声も収まっている。そのことで、“海神の烙印”の話が終わったのだということを、ヒロとビアンカは察する。
ヒロが伏していた頭を上げてビアンカに目を向けると、心配を宿した翡翠色の瞳と視線が合った。ヒロは眉根を落とし、力なく笑みを浮かせたかと思うと、ビアンカの腕を掴んでいた手の力を緩めて離す。
『――優しいご主人様』
『“喰神”の新しいご主人様』
『ありがとう。お話を聞いてもらって、満たされたわ』
声が満足げに囁く。その声音は心の底から満ち足りたものを窺わせた。
今まで宿主であるヒロに悪夢という形で語り掛けていたにも関わらず、ヒロが眠ることを放棄したため、話を聞いてもらえなかったという心境があったのだろう。
『ふふ。何だか沢山お話をして疲れちゃった』
『私たち、暫く眠ることにするわ』
『ご主人様も宿主も、おやすみなさい』
人魚が安らぎを感じられる声で紡ぐと、闇が歪に蠢く黒い身体が形を歪めた。すると、見る見る内に音も無く崩れ落ちてビアンカの背から離れていき、ヒロが吐き出した血溜まりの中に身を投じ、彼の左手の甲――。赤黒い痣として刻まれる“海神の烙印”に吸い込まれるようにして消えていった。
その一部始終をヒロは眉間に皺を寄せ、見守った。闇の一片が完全に“海神の烙印”の中に入り込んでいった様を見届け、左手を上げる。紺碧色の瞳に哀憐の情ともいえる感情の色を乗せ、黙したままで左手の甲を見つめて短く息を吐き出した。
「……“海神の烙印”は、あなたに話を聞いてもらえて満足したみたいね」
ヒロの様子に目を向けていたビアンカが口切ると、ヒロは静かに頷いた。
「ありがとう、ビアンカ。“海神の烙印”から、話を聞き出してくれて……」
左手の甲に刻まれる“呪いの烙印”を見つめたまま、ヒロは礼の言葉を告げる。それにビアンカは、気にすることは無いと言いたげに首を振った。
「まさか、見たくないと思っていた悪夢が。彼女たちの悲嘆から来る言葉だったなんて、思わなかった……」
ただただ、宿主を苦しめるためだけに“海神の烙印”は悪夢を見せているのだと、ヒロは思っていた。だがしかし、それはヒロの思い違いだった。
“海神の烙印”の見せる悪夢は、宿主に自らが受けた辛さや痛み、苦しみを知ってほしいがためのものだったと、語りを進めた声音を耳にしてヒロは解釈するに至っていた。それ故の、心の蟠りが解けたような、腑に落ちた様相をビアンカに推測させる。
「あの子たちを受け入れてくれて、ありがとう。あと、辛い思いをさせて、ごめんなさい」
“海神の烙印”の語りを聞く最中で、ヒロが酷く怯えの様を見せていたことを思い返し、ビアンカは謝罪を述べる。その言葉が意味することを推し量り、ヒロは気恥ずかしげに苦笑いを浮かせてしまう。
「……みっともないところ、見られちゃったな。恥ずかしいや」
「仕方がないことだと思う。でも――、呪いはね。恐れて接すると、宿主に凄く意地悪をするの。呪いを受け入れて声を聞いてあげることで、“呪いの烙印”は宿主を“主”として徐々に認めてくれるわ」
「“喰神の烙印”と君も、そういう関係なの?」
ヒロが問うと、ビアンカは首肯する。
「恐ろしい力を持つとは知っているけれど、不思議と怖いって思っていないのは事実よ」
ビアンカは視線を自身の左手の甲に向け、翡翠色の瞳を細めた。その眼差しは、口をついた言葉の通りに“喰神の烙印”に対し、畏怖感を抱いていない様をヒロに感じさせる。
「……いつから?」
ヒロが尚も疑問に思ったことを投げ掛けると、ビアンカは眉根を下げて首を左右に振るった。
「あまり覚えていないの。最初は怖いって思っていたはずなのに。いつからか、そう思わなくなってしまって……」
ビアンカの返弁。それにヒロは、ふと思い至ったことがあったが口を噤む。
(――旅をしている最中で戦場を多く渡り歩いて。その間に、ってところなのかな……)
ビアンカの戦い振りの中で目にした、海賊たちに対しての無慈悲さ。相手の手足の腱を斬り払い、動けなくした後に止めを刺す。急所を狙った確実な一撃と躊躇いを感じさせない立ち回りは、ヒロに気掛かりの念を抱かせた。
ヒロが感じたのは――、ビアンカの擁する“他者の死”の概念が壊れているだろうことだった。自身の身近な者たちの死に対しては敏感な反応を示すにも関わらず、敵対する存在を死に追いやる罪悪感が彼女には希薄だった。
“喰神の烙印”をハルから継承して百余年以上を過ごす間に、ビアンカは数多の戦乱や動乱に巻き込まれたとヒロに語っていた。
その戦の中で、ビアンカは多くの者の死を目の当たりにしてきた。“喰神の烙印”の『身近な者たちに不幸を撒き散らし、死に至らしめる』という性質から来るのであろうビアンカと親しくなった者たちの死は――、気が付かない緩やかな速さでビアンカの精神を蝕んでいった。
それ故に“死”そのものの概念がビアンカの心中で変わり、死を司る呪いである“喰神の烙印”に対しての恐怖心をも空疎にさせていったのであろう。そうヒロは見解をする。
「そういえば、“海神の烙印”に聞きそびれちゃったな……」
ぽつりとビアンカが小さく呟いた。それにヒロは首を傾げる。
「私は“喰神の烙印”が何者なのかを知らないの。本当は“貪欲”を冠していた魔族なのか、“強食”を冠していた魔族なのか。その話になった時、止められちゃったから」
僅かに左手を上げながら“喰神の烙印”を示し、ビアンカは口にする。
“海神の烙印”が自身の過去を綴った際、話頭に出された“喰神の烙印”の大本の魔族のこと。それが語られ始めると、“喰神の烙印”は止めるような時宜で言葉を発した。
宿主であるビアンカが考えるに、あれは“海神の烙印”の話が逸脱し始めた故に、説話を先に進めろという意思表示だったと思い及ぶが、どこか釈然としないものを感じた。
「ああ。それは僕も聞いていて、何でビアンカは真実を知らないんだろうって思った」
「あるヒトから“喰神の烙印”の話を聞いたことがあるんだけれど。その人は、この子のことを“貪欲”を冠する魔族だったって話をしていたわ」
不思議げに首を捻るビアンカを目にして、ヒロは一顧する様子を見せる。そして、紺碧色の瞳をビアンカに向けた。
「僕が分かる範囲で良ければ、話をするよ」
事実の相違を申し述べる折を口にすると、ビアンカは頷いた。
だがしかし、ヒロが話を切り出そうとするとビアンカは首をゆるりと振るい、それを制止する。
「お話は後でにしましょう。――ヒロはまず休んで」
不意とビアンカに諭され、ヒロは紺碧色の瞳を瞬いた。呆気に取られた様相を見せるヒロに、ビアンカは他意を一切感じさせずに眉根を下げて微笑む。
「立てる? まだ顔色も良くないし、船室の方で休んだ方が良いわよ?」
「あー……、ごめん。実は貧血で、頭がぐらぐらしているんだ……」
「それじゃあ、支えてあげる。掴まって?」
力なくヒロが笑みを作ると、ビアンカはヒロの手を取る。そうしたビアンカの気遣いに有難いと思う反面で、ヒロは顔を顰めてしまう。
だが、ビアンカはヒロの様子を気にも留めず、自身の肩に彼の腕を回す。そのため、ヒロは浅く溜息を吐き出し、力が入らない膝を叱咤して無理矢理立ち上がった。
「女の子の肩を借りるとか……、格好悪いなあ……」
ビアンカに体重を掛け過ぎてしまわないように注意をしつつ、ヒロは支えられながら覚束ない足を動かす。そうした今の状態を自嘲して、思わず見栄が口をついた。
「今はそんなことを言っている場合じゃ無いでしょう? あなたを部屋に運んだら、私はそこの後片付けをするから……」
だから今は身体を休めて――、と。ビアンカはヒロの吐き出した血で汚れた船倉の床を示し、言葉を零す。それにヒロは申し訳なさそうにして首肯する。
「何か、面倒ばかり掛けちゃってさ。ほんと、ごめんね」
「気にしないで。人のことより自分のことって、何回も言っているでしょう?」
「ん。ありがとう……」
謝罪の次に礼の言葉を述べ、ヒロは押し黙った。
ふと、ヒロの中に一つの疑問が湧いていた。それは、ビアンカが自身の元に訪れる前に、彼女が誰かと会話をしていたということだった。
微かにヒロの耳に届いた話し声。その声はビアンカと、聞いたことの無い少年のものであった。変声期を迎えたばかりの――、恐らくはビアンカよりも年齢が幾許か下であろう声の主。さような年頃の少年が“ニライ・カナイ”行きの航行船に乗り合わせていた記憶は、ヒロには無かった。
(――一瞬だけ見えた白銀髪。それに、あの目の色は……)
僅かな合間に見えた、ビアンカの後ろに控えていた小柄な存在。その人物は白銀髪に――、鋭さと威圧感を宿した銀色の双眸を有していたのを、ヒロはあの瞬時の間に逆光の中に認めていた。
(初めて見る男の子だった。彼はいったい、何者なんだ……?)
さも当然のようにビアンカが従えていた少年の正体に、ヒロは懐疑を覚えていた。




