第六十七節 悲憤慷慨④
『檻から出された“海神”の魔族は、実験室みたいな場所に連れて行かれたわ』
『そこは魔法で灯された明かりだけが変に眩しくて、陰鬱で嫌な雰囲気の部屋だった』
『周りは薄い灰色の壁。血に塗れた道具が沢山置いてあった』
“海神の烙印”の化身である人魚たちが語る。その話を聞いていたヒロの顔色が、青白さを宿していく。咄嗟に口元を片手で覆い視線を落としたかと思うと、浅い呼吸を繰り返す。
そうした様子を目にしたビアンカは患いの様相で、ヒロの二の腕に手を伸ばして労わるようにさすった。
『私たちの魔力を胎内から取り出すために、人間は刃物を握った』
『でも人間は、どこに魔力溜まりができるのか知らなかったみたいでね』
『身体の彼方此方を切り刻んでいったわ』
“魔導砲”の砲弾に込めるべき魔力を手に入れるために、オーシア帝国にあった施設に所属する人間たちは、魔力を有する存在の身体から魔力を取り出す研究と実験を行っていた。しかし、さような所業はそうそうと上手く行えるものでは無く、悪戯に実験体となったものたちを苦しめる結果を生み出した。
“海神”の魔族も抗う術を奪われた中で、実験体として身を切り刻まれた。胸や腹を裂かれ、臓腑を掻き回され、その内臓すら傷付けられて抉られた。
灼け付くような傷口の痛みと、臓腑を乱される不快感。多くの血が流されることで、徐々に身体から熱が奪われていくのを感じた。苦しみの最中で漸く死ねることに喜びを感じると、無慈悲にも癒しを施されて延命させられる。
終わりの無い窮愁に“海神”の魔族は、深い絶望を抱いた。
哀惜を以て口に出されていく説話に、ヒロの肌が粟立った。自身の二の腕を優しくさするビアンカの腕に縋り、身を強張らせる。
人魚の話の内容は――、ヒロが“呪いの烙印”を行使した際に、その身に受ける呪いの代償そのものだった。与えられる痛みに恐怖するヒロは、紡がれる言葉に怯えを見せていた。
「……あなたが受ける痛みと同じもの、なのね」
ヒロの青ざめた顔色から、ビアンカはヒロが何に委縮しているのかを察する。ビアンカの零した言葉にヒロは声無く頷く。
『いくら泣いて許してって言っても、人間たちは笑って見ているだけ。とっても怖かったわ』
『自慢だった若枝のような、しなやかな腕。それも邪魔だからって、切り落とされちゃったわ』
『大好きだった歌もね。叫んで煩いって、喉を切られて奪われてしまったわ』
宿主であるヒロの様子を意に介さず、人魚は自分たちに起こった出来事を口弁する。
「ヒロ、大丈夫……?」
かんばせを真っ青にしているヒロを覗き込み、ビアンカは心配げに声を掛ける。ヒロが話を聞き続けることが辛いのであれば、“海神の烙印”の話を止めさせようという思いも過っていたが、彼女の物案じにヒロは力なく首を縦に振った。
「この話、ね。僕が見ていた、悪夢の……、内容と同じ、なんだ……」
頭を伏せ、震えの混じる声でヒロは零す。それにビアンカは眉を寄せてしまう。
「――最後まで、こいつらの話を聞く。だから、ここにいて、付き合って」
疲弊しきってはいるものの決意を示唆させるヒロの言葉に、ビアンカは僅かに頭を縦に動かす。そして、再び“海神の烙印”の説話に耳を傾けた。
『何日も何日も。それは続いたわ』
『“羨望”の魔族が死に憧れるほどに、酷いことを沢山された』
『腕も無くなってしまったし、声も出せなくなった。その内に身体から色々な部分が無くなっていった』
猶々と人魚は己の身に起こった出来事を口にしていく。そして、はたと言葉を区切る。思い出すことも忌々しいという気配を窺わせ――、声たちは再び語り出した。
『それでね。“海神”の魔族は、あることに気が付いたの』
『そう。気が付いたのよ。ああ、そうだって思った』
『私たちが酷い目に会うのは、あのヒトのせいだってね』
声が遺恨の音を発した。その途端に“海神の烙印”が放つ瘴気が濃さを増す。
無念さと悲観。そして、呪念を色濃く宿す瘴気の感覚に、ヒロとビアンカは息苦しさを覚える。
『あのヒトは、私たちが酷い目に会っているのに、ただの一度も逢いに来なかった』
『そんな時にね。ふと、人間が話しているのを私たちは聞いた』
『あのヒトが、自分の国のお姫様と婚約をしたっていうお話よ』
その言葉を聞き、ヒロは眉を顰めていた。彼の胸中には、声が話頭に出した人物が思い浮かぶ。
『切り刻まれた身体も痛いし、心も痛かった』
『苦しくて痛くて辛かった』
『だからね。呪ったの』
“海神”の魔族は痛みに苛まれる最中で、トウマが自身に接触した当初からの目的であろう事柄を改めて悟った。そうして、多くの実績を上げてオーシア帝国に貢献したことから、オーシア帝国皇帝の娘と婚約した事実を耳にする。彼女はそれらに深い絶望を感じた。
そして、“海神”の魔族は――、矢意の感情から封じられた魔力を解き放ち、“呪い”として振るったのだった。
『あのヒトのイイヒトを、最初に呪ってやったわ』
『どうなるか見物だと思った。いい気味だって思った』
『長い艶やかな黒髪に遠浅の海の色みたいな瞳をした、綺麗な女の子を呪ったのよ』
“海神の烙印”の人魚が悲壮の声を一転させ、嘲笑いの音を奏で始めた。
くすくすと再び響き始める笑声に、ヒロは頭を伏したまま、やり切れない心中を乗せて浅く吐息する。
「それが――、ユラのことなのか……」
口惜しさを宿した声がヒロの喉から絞り出された。
魔力を呪いとして発動させた“海神”の魔族は、本来恨むべき相手であるはずのトウマでは無く、彼の婚約者――。オーシア帝国の第一皇女であったユラを呪う対象とした。
“海神”の魔族に他意は無かった。ただただ、自分を裏切ったトウマを苦しめようという思いから“呪いの烙印”に身を窶し、トウマを最も責め苛むであろうと考える人物を原初の宿主として選んだのだ。
『呪ったその子には、私たちがあのヒトのせいで受けた苦しみと痛みと辛さを分けてあげたわ』
『眠る度に沢山たくさん、私たちの身に起こったことをお話してあげた』
『毎晩、悲鳴を上げながら目を覚ますの。胸がスッとする気持ちだったわ』
ケタケタとけたたましく笑いが立つ。
“海神の烙印”としてユラの身に宿った呪いは、ユラが眠りに就く都度、彼女に悪夢を見せた。
魔力を胎内から取り出すという実験で“海神”の魔族が受けた仕打ちを、痛みや恐怖の感情そのままに夢で見せ、次第にその精神を消耗させていった。
『その内に震えながら『もう許して』なんて言うようになったのよ』
『“海神”の魔族が沢山たくさん人間に言った言葉を、あの子は口にした』
『でもね。許してなんかあげなかったわ。人間だって、私たちがお願いしても、止めてくれなかったもの』
悪びれなく綴られていく言葉に、芳しくない顔色を見せるヒロが憎らしげに表情を歪め、歯噛みをする。
「――どうしてユラなんだよっ! ユラは優しい良い子だった。お前たちの恨み事に何で彼女を巻き込んだっ!!」
ヒロが食って掛かるように吠えた。それに声は鼻を鳴らすような一笑する音を立てる。
『さっきも言ったでしょう。あのヒトのイイヒトだったから呪ったって』
『でもね。あのヒトは、私たちが呪ったあの子でさえ利用しようとしたのよ』
『流石に私たちも、あのヒトの狡猾さには驚いたわ』
“呪いの烙印”がユラに宿ったことで、トウマは呪いが持つ魔力を“魔導砲”の砲撃に担う手口を提案した。トウマにとって自身の婚約者という立場にあるユラでさえ、群島諸国を軍事力で統治するための道具として見たのだった。
その後に戦場に連れ出されることとなったユラは、“海神の烙印”の有する力を行使し、その呪いが代償としてもたらす痛みと苦しみに苛まれた。だが、徐々にやつれていくユラの身を案じることなく、トウマは彼女を運用という形で使い、軍師としての知恵を与えて海賊たちが棲む海域を監視する巡視船団の総指揮を任せるに至った。
『やつれて疲れ果てたあの子は、遂に“死への羨望”を抱いたわ』
『その強いつよい願いは、私たちの糧になった』
『そうして私たちは――、宿主。あなたに出会ったのよ』
ビアンカの背に纏わりつく黒い人魚が、ゆるりとした動きで腕を上げてヒロを指差す。
『あなたと出会ったあの子は、『これで願いが叶えられる』って、心の中で凄く喜んだ』
『申し訳なさと逸楽の入り混じった不思議な感情を、剣を向けたあなたに抱いた』
『それは今まで感じたことも無いほどの、強烈な感情だったわ』
心身ともに疲弊しきったユラは、海賊たちの出没する海域を巡視していた際に、ヒロが率いる海賊船団に強襲された。ヒロが立てた作戦に誘われて白兵戦に持ち込まれる事態に陥り、初めは応戦していたものの――。本船に乗り込んできたヒロは、総指揮者であったユラに剣を突きつける。
黒髪に碧い瞳の青年。その姿を目にした瞬間に、ユラは船に乗り込んできた人物がヒロだと気付いた。そうして、内に抱く“死への羨望”が叶えられる思いに、喜び打ち震えた。
『あなたは自ら死を選べば、私たちの呪縛から逃れられると思っていたみたいだけれどね。それは間違えなのよ』
『私たちは宿主にとってのイイヒトを、次に呪うことにしているの』
『愛しいヒトが目の前にいる時に自ら死を選べば、私たちは許してあげられるのよ』
「なん、だよ……。それ……」
意地悪な笑いを零しながら綴られる声に、頭を上げたヒロは困惑の感情を表情に醸し出す。今まで自身が思議していた事物を否定され、伝えられた真実はヒロを驚愕させた。
『あの子はね。私たちの夢を最後まで見て、その事実を知っていた』
『だから、あなたが目の前に現れた時に、とっても嬉しそうだったわ』
『あなたは私たちの悪夢を最後まで聞いてくれないから、知らなかったけどね』
“海神の烙印”は悪夢の中で、自分たちが宿主を呪縛から解き放つ方法を口述していたのだった。
原初の宿主であったユラは、呪いの見せる悪夢を最後まで見届けていた。そして、自身が“呪いの烙印”を継承する人物がいるのならば。それは幼き日に出会った少年――、ヒロであると悟った。
だがしかし、ユラは半ば諦めの心を持っていたという。楽しき日々を共に過ごしたヒロとは、もう再会することは叶わないであろうと。そう心中で思いなしていた。
それ故に、戦場での後会を遂げた時――、ユラはヒロに対しての申し訳なさに胸を痛めながら、“呪いの烙印”の力から逃れるために嬉々として自害する結末を選んだのである。
『こうして私たちは次の宿主として、あなたを選んだ』
『あなたにも私たちの痛みと苦しみと辛さを分けてあげたのよ』
『でもあなたは臆病だから。私たちの悪夢から逃げているわよね』
口々に出されるヒロへの嘲り。その言葉と事の真相に、ヒロは再び頭を伏して苦々しげに奥歯を噛み締めていた。




