第六十六節 悲憤慷慨③
太陽暦の始まりの頃に勃発した人間と魔族が対立するに至った“聖魔戦争”。その大きな戦争の中で、“海神”は“羨望”の名を冠した“七魔将”の一人であった。
“海神”の魔族は“聖魔大戦”の最中で、魔族の軍勢を率いて海を我が物顔にして振る舞い、海に生きる者たちであった群島諸国の人々の脅威となっていた。さような存在であった“海神”と対峙する人間側の勢力に、“十英雄”と呼ばれて勇者として祀り上げられたタケル・ミヤビという名の人物がいた。
“十英雄”のタケルは、己の故郷である群島諸国を守護する立場に座し、群島諸国の勇士たちが集った『ミヤビ衆』と呼称される軍団を率いて“海神”と敵対した。
幾度となく“海神”の魔族とタケルの一軍は刃を交えたが、ただ悪戯に諍いを起こすだけでなく――、意志の疎通を図り、時に討議までをも行っていたという。
そうした取り交わしを繰り返す内に、“海神”は次第に人間たちに心を開いていき、“十英雄”のタケルに惹かれて愛していった。
数年の後に“聖魔戦争”は、“海神”の魔族のように人間と親密になるものが増えていき――、魔族が敗北を喫することになる。
それは史実に一切残されていなかった事柄として、ヒロとビアンカを驚愕させた。
『結局、タケルと“海神”の魔族は生きる寿命も違うこともあって、一緒にはなれなかった』
『その代わりにタケルは人間の素敵なお嫁さんを貰って、人間として幸せな一生を終えることとなった』
『だから、あのヒトと“盟約”を結んで約束したの。群島諸国は私たちがタケルの代わりに守るわって』
“海神の烙印”の人魚は、どこか寂しげな声音で語る。その言葉に、ビアンカは眉を曇らせていた。
(――きっと、私も。今のハルと同じような別れ方をするようなんだろうな。その時に、私は……、どうするんだろう……)
ビアンカの心には、自身も“海神”の魔族と同じような思いをするという憂慮があった。まだまだ先の出来事となることは了している。しかしながら、いつか訪れるであろう別れを想い、ビアンカは胸を痛めた。
僅かに瞳を伏して人魚の話を聞いていたビアンカを傍目にし、ヒロまでも表情を曇らせていたが――。ビアンカはそれには気付かなかった。
『それから何千年も経ってね。私たちはあるヒトに出会ったの』
『それが、今から四百年くらい前のお話ね』
『ここからが本当のほんとうの本題よ』
そこで声たちは、自身が群島諸国を守護することに至った話を区切り、気を改めたように言葉を綴り出す。その声を聞き、ビアンカは伏していた瞳を上げて、背に纏わりつく人魚に向ける。
『ある日、私たちの元となった“海神”の魔族は、海に大きな魔力の流れを感じたの』
『それを不思議に思って、魔力の流れを作った存在を確認するために北方の海に出たわ』
『そこで私たちは、帆も船体も黒い大きな船たちを目にしたの』
声たちの言を聞き、ヒロの眉がピクリと動いた。不愉快げな表情を浮かし始めたヒロの反応に、ビアンカも船団が何であるかを悟る。
「……黒い大きな船って」
帆も船体も黒い巨大な船。その特徴は先にビアンカも目にした、ある船のものと一致する。
それらを想起してビアンカがヒロに問い掛けると、ヒロは首肯を表した。
「オーシア帝国船のことだろう。魔力の流れっていうのは、きっと“魔導砲”のことだ」
忌々しげな声音がヒロの口をつく。彼が漏らした返弁に、ビアンカは結句の頷きを示す。
『その黒い大きな船にね。あのヒトがいたの』
『黒髪に黒い瞳。あのヒトにうり二つだった』
『私たち、ビックリしたわ。あのヒトの生まれ変わりじゃないかって思った』
大きな魔力の流れを感じた“海神”の魔族は、それを不審に思い、警戒を抱いて不詳の気配を感知した海域に向かった。そこではオーシア帝国艦隊が“魔導砲”の砲撃演習を行っていたのだということを、説話を聞いてヒロは推察した。
“魔導砲”の砲撃演習を執り行っていた船団は、ある一人の男が指揮を取っていたという。その男は黒髪に黒い瞳を有し、かつて“海神”の魔族が愛した“十英雄”――、タケルに生き写しだった。
陳述される言葉を耳に入れ、ヒロの顔色が変わっていく。“海神の烙印”の人魚が口にする人物の特徴を聞き、ヒロはある人物を回顧していたのだ。
かようなヒロの情態を目にしてビアンカは小首を傾げ、問い掛けたそうな様子をヒロに察せさせる。すると、ヒロはビアンカに紺碧色の瞳を向けて口元に押し当てていた手を外し、口を開いた。
「トウマ・マジキナって奴のことだと思う。そいつはオーシア帝国で皇帝の片腕として動いていた。“魔導砲”での軍事戦略を一挙に任される頭の回る兵学者で、僕たち同盟軍はトウマの立てた策略に散々苦しめられた」
「……そう、なの?」
苦々しげな様相で思い至った人物のことを語るヒロの口舌に、ビアンカは眉を寄せる。
「トウマは群島の最北端――、当時の名称で“オシロの都”って言われていた国の出身者でね。そこの国出身の者は、黒髪に黒い目を持つのが特徴なんだ。“十英雄”のタケル出生の地だって言われていたんだけど群島の諸国と交流をしない国で、“オシロの民”はあの頃に珍しい存在だった。だから、“海神の烙印”の言っている奴で間違えないと思うよ」
『あのヒト、トウマっていう名前だったのね』
『私たちに、あのヒトは名前を教えてくれなかったわ』
『でも、私たちに気付いたあのヒトはね。優しく笑い掛けてくれたのよ』
ヒロが多弁に口にしたオーシア帝国の軍師だった男――、トウマの名を耳に入れ、人魚は言葉を継続していく。
“魔導砲”の砲撃演習。その指揮を取っていたトウマと“海神”の魔族は、そこで邂逅を果たした。
トウマは“海神”に気付いた瞬間に驚いた様相を見せていたが、“海神”の魔族に微笑み掛けると話し掛けた。敵意を感じさせないトウマに“海神”の魔族も応じ、友好的に接することになった。
その後も幾度となくトウマと“海神”の魔族は交流を重ねていき、次第に“海神”の魔族はトウマに惹かれていったということだった。
『沢山たくさん、群島諸国の海のことをお話したわ』
『でも、あのヒトは、海で多くの船を出して何をしているのかは話さなかった』
『その代わりに、どの魔物や魔族が多くの魔力を持っているか。それを聞かれたわ』
言説を聞くに従い、ヒロの表情は険しくなっていく。人魚の話は、ヒロに一つの事実を察し付かせていた。
ヒロが思うところに、トウマが行っていた所業は、“海神”の魔族を通して群島諸国にある各島国の状況を把握するためだったのだろうこと。そして、“魔導砲”に籠めるための魔力を担うに足るものを探し求めていたのであろうことだった。
そうして、トウマにとっては“海神”の魔族でさえ、魔力を持つ魔物や魔族を集めるための餌であり、“海神”の魔族のことも“魔導砲”を扱うための道具としてしか見ていなかったのであろうと思いなす。
その観取した事情に、ヒロは苦々しげして唇を噛む。
『あのヒトと会える日は、凄くすごく楽しみだった』
『だけど、その日は長くは続かなかったわ』
『ある時に、あのヒトは沢山の黒い船を連れて、私たちの前に現れたの』
トウマと仲合の関係を結んでいた“海神”の魔族であったが、そうした彼女の前にある日、トウマはオーシア帝国艦隊を引き連れて現れた。
“魔導砲”を積むオーシア帝国船を指揮するトウマは、海の魔物や、“海神”が懇意にしていた他の魔族たちを襲撃して捕らえていった。驚嘆に値する事態から充分な抗戦ができなかった“海神”の魔族も――、そのままオーシア帝国に捕らえられる結果となった。
『私たち、あのヒトに刃を向けることができなかった』
『群島の海を守らなくちゃいけなかったのに、仲間たちすら守れなかった』
『凄くすごく悔しかったし――、悲しかったわ』
悲観を帯びた声吐が人魚の口から絞り出される。
言明とされていく事実にビアンカは面差しを憂いの色に染め、傾聴をする。心中には“海神”の魔族が抱いたであろう無念を思い、重苦しい感情が立ち込めていく。
『捕まった後は、自分で魔力を操る術を封じられた』
『何も抵抗できないようにされて閉じ込められたわ』
『沢山の檻があってね。沢山の人間やエルフ族、魔族や魔物が中にいたわ』
オーシア帝国に捕縛された“海神”の魔族は、その力を封じられ、無機質な研究所へと収容された。そこで彼女は、魔力を有する人間やエルフ族、亜人族や魔族たちの姿を目にした。
狭い牢獄の中に囚われて身を寄せ合い震えていた者たちの姿に、“海神”の魔族は眉を顰めた。その者たちは皆がみな、大きな傷を負った後に癒しを施された状態を窺い知れる酷い有様だったと、人魚は暗唱していく。
『あのヒトは私たちを捕らえてから、一度も会いに来なかった』
『きっと、最初っから私たちを捕まえるのが目的だったのね』
『あんなに優しくしておいて。酷いヒトだと思ったわ』
恨み言を人魚が口走る。喉が泣くような哀調で奏でられる音色は、“海神”の魔族が如何に裏切りの仕打ちに絶望したのかを物語った。
『檻の中にいた子たちは、日に日に元気がなくなっていった』
『そんなある日にね――』
『遂に“海神”の魔族だった私たちが、檻から出されることになったの』
“海神の烙印”の人魚は、僅かばかりの思案の間を空け、再び哀愁に満ちた歌声の如く口述のために声を発し始めるのだった。




