第六十五節 悲憤慷慨②
『私たちの元になる魔族は、“海の守り神”と呼ばれていた』
『群島諸国の海は、私たちが守ることを約束していたの』
『永いながい時を経て、私たちが愛したヒトとの“盟約”だった』
“海神の烙印”の人魚が口々に語っていく。
「……愛した人?」
ヒロが眉を寄せて怪訝そうに口に出すと、人魚はゆるりと首を縦に動かした。
『古い時代に起こった、人間と魔族との戦争』
『今は“聖魔戦争”なんて呼ばれているわね』
『その時に私は、群島諸国を守護していたヒトを愛した』
“海神の烙印”の大本となった魔族は、太陽暦の始まりの頃に勃発した人間と魔族との争いである“聖魔戦争”で、人間に敵対する存在だった。海に生きる者たちである群島諸国の民たちの脅威となった、海を我が物としていた“海神”の魔族――。
その戦争の最中で“海神”は、ある人物と出会い愛することによって、人間たちに対する思いを改めるに至ったという。
『そのヒトとの約束だったの』
『そのヒトは、人間に敵対していた魔族と友好関係を結ぼうとしていた』
『とても真っ直ぐで素敵なヒトだったわ』
「もしかして……、群島諸国出身の“十英雄”のことか。――確か、名前はタケル・ミヤビだったか」
人魚の話を聞き、考える様子を見せていたヒロが口を開く。すると、ヒロの言葉を聞いた人魚は尾鰭を嬉しそうに揺らした。
『そうそう。その名前よ』
『黒髪に黒い瞳をした、綺麗なヒトだった』
『とても勇ましい素敵なヒトだったわ』
悦楽を含んで綴られる説話に、ヒロは口元に手を押し当てて再び思案の様を窺わせる。
「“海神”は愛した“十英雄”、タケルとの約束で群島諸国を守護していたっていうのか……」
ヒロは改めて認知する存在だった“海神”の魔族が、如何に人間を愛していたのかを悟った。そして、その愛した人間に裏切られた結末を思い、眉を曇らせる。
黙して傾聴していたビアンカも、人魚の語る話を聞き、一つの疑問を抱く。だので、その真意を確認するために口を開く。
「“聖魔戦争”の頃から“海神”の魔族は生きていたっていうことなのよね。魔族の寿命は、魔力の量によって左右されるって聞いたけれど、あなたたちの大本になった魔族は凄く強い人だったってこと?」
魔族は魔力を命の源としており、その寿命は持って生まれた魔力の量に左右される。そして、強い魔力を有するほど長命となる。
ビアンカが文献によって了していた魔族という種族の特性。それを思い返しての問い掛けであった。
『そうよ。まだ暦がハッキリと決まる前だから、五千年以上は生きていたのかしら?』
『“傲慢”や“怠惰”、“強食”に次いで長生きだったのよ』
『私たちは“羨望”の名を冠する、“七魔将”だったんだから』
「「えっ?!」」
“海神の烙印”の人魚が言い放った言葉に、ヒロとビアンカの吃驚を含んだ声が重なった。
「“海神”も、“七魔将”の一人だったのか……?」
ヒロが俄かに信じられないと言いたげな声音を漏らし、左手の甲に刻まれる赤黒い痣――、“海神の烙印”に目を向けた。眉間には深く皺が寄り、瞳には動揺の色が揺れる。
自身の宿している“呪いの烙印”が、人々に最も害を為し、畏怖される存在だったとは思いもよらなかったということを表情が雄弁に物語っていた。
そうしたヒロの狼狽の様相に、人魚はくすくすと愉快げな笑い声を立てた。
『もしかして、宿主は知らなかったの?』
『“喰神”と同じよ。強いつよい魔族だったのよ』
『“調停者”のあの子たちに教えてもらっていなかったのね』
嘲笑いを乗せた声が、僅かな同情も含んで発せられる。それにヒロは落としていた視線を再び人魚に向け、ゆるりと頷いた。
「“調停者”の双子は、そんなことを教えてくれなかった。なんで……?」
「あなたが、まだ“呪いの烙印”の宿主として未熟だったからだと思う。私も“喰神の烙印”を継承してからの今まで、自分の宿している呪いの詳しい話は、“調停者”には教えられていないのよ」
ヒロが口にした疑問にビアンカが答える。その返弁に、ヒロは忌々しげに唇を噛んだ。
「どうして、“調停者”たちは隠していた?」
「……“世界と物語の紡ぐ者”の指示なんでしょうね。何か考えはあるようだけれど、“調停者”は創造主に逆らわないようにしているみたいだし」
ビアンカは、今まで知恵を与えてくれた“調停者”であるルシトの言動を回顧していく。彼は様々なことをビアンカに語ったが、“喰神の烙印”の本質についてを殆どビアンカに伝えていない。恐らくはルシト自身も語るに語れない事情があったのだろうと、ビアンカは推察する。
そして、エレン王国での取り交わしで、ルシトが何れは創造主である“世界と物語の紡ぐ者”に反旗を翻す画策をしているのではないかと。そうビアンカに惟わせていた。
「噂の“傲慢”様か。あいつのことは話を聞いているだけで、いけ好かない奴だと思うよ」
『私たちも“傲慢”は嫌いよ。凄く威張っちゃっていてね』
『そうそう。世界は自分のものみたいな顔をしていて』
『凄く意地悪なんですもの。私たちのことも道具くらいにしか思っていないのよ』
ヒロとビアンカのやり取りを聞いていた“海神の烙印”の化身が肯定を示し、はたと二人は視線を人魚に向けた。
人魚はビアンカの肩に肘を付き、頬杖をついて漆黒の双眸を楽しげに細める。
『そういえば“傲慢”は、“喰神”と凄く仲が悪かったわね』
『うんうん。顔を合わせる度に喧嘩をしていたわ』
『だから“喰神”のご主人様も“傲慢”が嫌いなのね』
決め付けてかかった言い分で人魚が声を発すると、ビアンカは呆気に取られた表情を浮かせる。そして微かな苦笑いを次には見せた。
「えっと……。私は、そういうつもりでも無いんだけれど。確かに話を聞いていると、嫌な人だとは思うわ」
『そうでしょ。本当に嫌な奴なのよ』
『“喰神”はね。“傲慢”の奴のせいで死んだのよ』
『あいつに騙されたの。それで人間に殺されたの』
ビアンカの返弁を賛同と取った声たちは、当初の“海神の烙印”に関する話の本筋から離れてしまっていることも気に留めず、尚も当然の如く語りを続けていく。
そうした声たちの語る内容に、ビアンカとヒロの表情が変わる。顔を見合わせたかと思うと、同様のことに引っ掛かりを覚えたらしい様子を見せて頷き合う。
「“喰神の烙印”の魔族は、“傲慢”に騙されて死んだの……?」
『そうよ。“喰神の烙印”の大本となった“強食”もね、人間たちと友好関係を築き上げていたの』
『それを快く思わなかった“傲慢”は、人間たちを唆して“強食”を騙したの』
『流石の“強食”も、魔族からの騙し討ちと“十英雄”の本気に、ひとたまりも無かったみたい』
「待って。“喰神の烙印”の魔族の話。私はこの子が“貪欲”の名を冠していたって聞いている。でも、ヒロやあなたたちは、この子を“強食”だって言うじゃない。それって――」
『――女という生き物は姦しいものだな。無駄なお喋りは、そこまでにしておけ』
ビアンカが疑問に思ったことを口にし始めると、突として辺りに禍々しい気配が渦巻いた。それと共に響く威圧的な声。――その声は男とも女とも、大人とも子供ともつかない色を有する。
その声を聞き、ビアンカの表情が険しさを帯びた。
「この声は……?」
不意に耳に届いた声に、ヒロは警戒から身構える。今まで感じたことも無い不詳な気配に、肌が粟立つ感覚を覚えた。
「まさか、“喰神の烙印”なのか?」
ヒロがビアンカに目を向けて口に出すと、ビアンカは黙したままで頷いた。頷きで以て示された返弁に、ヒロは深く眉間に皺を寄せていく。
『あらあら? “喰神”ってば、起きていたの?』
『やだ。怒っているわ。怖いこわい』
『“喰神”は相変わらず怒りんぼさんね』
恐れている口振りで“海神の烙印”の声は言うものの、さして恐怖感を感じていない。それに“喰神の烙印”は不愉快げに一笑の音を立てた。
『また喋れなくしてやっても構わないのだぞ。青二才の若造と未熟者の小娘たちに相応しい状態に戻れば、少しは静かになるだろう?』
「青二才って、僕のことを言っているのか……」
“喰神の烙印”が発した言葉を聞き、ヒロは鼻上に皺を寄せて不快に唸る。そのヒロの態度に“喰神の烙印”は嘲笑いを上げる。
『貴様以外に誰がいるというのだ。相変わらず頭の回転が遅い奴なのだな』
「なにっ?!」
“喰神の烙印”の挑発的な言葉に、ヒロは声を荒げて食い掛る。それをビアンカが手を差し出すことで制した。
言葉を押し留められたことに異を唱えようとしたヒロはビアンカに目をやるが、ビアンカの翡翠色の瞳が見たことも無い冷たさを帯びていることに気付き、畏怖感から息を呑んで身を強張らせた。
『無知のままに、ただ我らの呪いの力に翻弄され滑稽に踊って――』
「口を閉じなさい。あなたこそ真名を奪って、話を出来なくしても良いのよ?」
猶々と続く“喰神の烙印”が放つヒロを侮辱する笑いに被せ、ビアンカの凛とした声が上がる。その途端に“喰神の烙印”は罵りを噤む。
『ふん。――お前は本当に強かな娘だな。用が足りれば、私に話すなと言うか。全く……』
面白くないという色を声に乗せ、“喰神の烙印”は言う。その後に完全に閉口し、喉を鳴らしているような低い笑いだけを辺りに残した。
「ごめんなさい、ヒロ。気を悪くしないで……」
申し訳無さげに眉根を下げ、ビアンカは口にする。
“喰神の烙印”とビアンカとの主従関係を感知し、ヒロは唖然とした表情を浮かせていた。
(ビアンカは……、“喰神の烙印”にあんな風に強く出られるのか……)
先ほどから信じられないことばかりだと。そうヒロは思ってしまう。
まさかビアンカが、これほどまで“呪いの烙印”たちと言葉の交わし合いを行い、優位に立てる存在だとは思ってもみなかった。
六百年以上を生きていたハルでさえ、永く身に宿していた“喰神の烙印”と意思の疎通は取れていなかっただろう。それを百余年ほどの付き合いの最中で可能にしているビアンカの力に、ヒロは驚愕の思いを抱く。
「あなたたちも。変なことを聞いて話の腰を折る形になって、ごめんなさい」
ビアンカが困ったような表情を見せて謝罪を口にすると、声たちの愉快げな笑いが響く。嫣然と笑う様を想像させる声音は、さして気にしていない情態を漂わせる。
「“海神の烙印”のお話の続き、聞かせて?」
小首を傾げてビアンカが口にすると、人魚はゆるりと尾鰭を揺らした。
『うふふ。“喰神”のご主人様は本当に強いのね』
『怒られない内に、私たちが生まれた経緯のお話をしなくっちゃ』
『私たちが呪いとして生まれたお話の続き、だったわよね』
そして改め、“海神の烙印”の話は続いていくのであった。




