第六十四節 悲憤慷慨①
ヒロに“喰神の烙印”の魔力を分け与え、癒しを施す手技を終えてビアンカは左手を離した。
身体中を苛んでいた痛みが完全に消え、ヒロは安堵から溜息を吐き出す。まだ貧血からの眩暈と軽い頭痛は残る。顔色も芳しくなかったが、それでも気の抜けた様子がヒロの面持ちから見て取れた。
強張っていた肩から力を抜いて浅い呼吸を繰り返すヒロの額に、ふと柔らかなものが触れる。何かと思いヒロが伏せ気味だった瞳を上げると、ビアンカがハンカチで彼の額に浮かんだ汗を拭ってやっていた。
突然の出来事にヒロが目を瞬かせていると、ビアンカは視線を気に留めた様子も無くハンカチを折り返してヒロの血に塗れた頬や口元を拭い始める。
「わわっ、ビアンカッ?! ハンカチ、汚れちゃうよっ。せっかく綺麗な刺繍もしてあるのに……っ!」
血色の良くなってきた頬を赤くして、ヒロはビアンカの腕を軽く去なそうとするが、自身の腕や手が血で汚れていることに気が付いて止めた。ヒロが挙げた手を行く当てなく彷徨わせているのを目にして、ビアンカは微かに笑みを浮かせてしまう。
「ハンカチの一枚くらい、気にしないで。私、言ったでしょう。人のことより、自分のことを優先してって」
「うう……、ごめん。代わりのもの、何か買ってあげるからね……」
「……もう。気にしないでってば」
尚も申し訳なさそうにして言葉を零すヒロに、ビアンカは苦笑いを見せる。
その二人のやり取りをビアンカの肩越しに見守っていた“海神の烙印”の化身である人魚が、尾鰭を楽しげに揺らしてくすくすと笑い声を立てた。
『やっぱり宿主は“喰神”のご主人様が好きなのね』
『良いわね。ヒトを好きになるって』
『ヒトを愛することって、本当に素敵よね』
「……あのね。確かに僕はビアンカのことが好きだけど。お前たちの言うような『好き』とは違うから」
悦を含んで囃し立ててくる声に、人魚を忌々しそうに睨みつけてヒロは言う。
さり気なく漏らされたヒロの言葉に、ビアンカは翡翠色の瞳をまじろがせた。そうしたビアンカの反応に気が付き、ヒロは気まずそうに笑みを見せる。
「えっと、ビアンカのことは『妹』として好きなんだ。それに、僕は友達の彼女に手を出す気は無いからね」
「ハルの、こと……?」
キョトンとした面持ちでビアンカが問うと、ヒロは首肯した。
「ハルは僕の大切な友達だ。だから、ハルが大事だと思っていたビアンカのことを、僕も大切だと思っているよ」
ヒロの言い分を聞き、ビアンカはくすりと笑う。
「ヒロは本当にハルのことが大好きだったのね」
「うん。今も昔も――、ハルのことが大好きだよ。君と一緒だね」
ビアンカが笑い始めたことで、ヒロも緊張を解いて表情を綻ばせる。顔を見合わせて暫しの間、二人でくすくすと笑い合っていたが――。
ふと、ビアンカが面差しを改め、“海神の烙印”の人魚に翡翠色の瞳を向けた。それに倣うように、ヒロも紺碧色の瞳を人魚へと差し向ける。
「――“海神の烙印”。あなたは、“喰神の烙印”の魔力に充てられたのよね?」
ビアンカが問うと、人魚は尾鰭を揺らす。肩に緩く回していた左腕を伸ばしたかと思うと、その手でビアンカの左手の甲に触れた。
『ふふ。そうよ。“喰神”がいるから』
『そうそう。“喰神”が近くにいたから』
『私たち、お話ができるようになったの』
「……今までお前たちは僕に何かを語ったり、姿を現すこととか、一切無かったよな。何故、そんなことができるようになったんだ?」
訝しげにしてヒロが疑問を投げ掛ける。すると声は嘲笑いを立ち上げた。
『これは“喰神”のご主人様が望んだことなのよ』
『ご主人様が“喰神”にお願いしてくれたから』
『私たちがちゃんとした自我を持てるように、“喰神”の力を借りたのよね』
人魚の返弁を耳にして、ヒロは眉を寄せた。紺碧色の瞳をビアンカに向けると、彼女はゆるりと頭を縦に振る。
「何で、そんなことをしたの……?」
「“海神の烙印”に聞きたいことがあったの」
「こいつに聞きたいこと?」
事情が解せない様相でヒロが尚も問うと、ビアンカは頷いた。自らの左手の甲に重ねられる人魚の手を、掌を返すことで握り返し、ビアンカは人魚に再び視線をやる。
「あなたたちが呪いを遺すことになった経緯。それを教えてくれる?」
ビアンカが綴った言葉を聞いて、ヒロは更に怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「ビアンカ。どうしてそれを……?」
「……聞いてあげて。怖がらないで、この子たちを自分の一部として受け入れてあげて」
ビアンカの返答に、ヒロは声を詰まらせた。
現存する“呪いの烙印”の中で、ビアンカの宿す“喰神の烙印”よりも強い攻撃性を持つであろう“海神の烙印”。だが、その反面でこの呪いは、宿主に最も負担をかけるものだった。
呪いの力を行使した後に宿主を苛む死よりも過酷だと思われる苦痛は、ヒロに力を使うことを躊躇わせ、険悪させるに至った。
宿しているだけで悪夢を見せ、精神を蝕んでいく“海神の烙印”の忌むべき力。
しかし、その力に頼らなければ、自身が起こした“群島諸国大戦”という大きな戦争の名残を消し去れない。そのことを分かってはいるものの――、ヒロは心の奥底で“呪いの烙印”を恐れていた。
(――“海神の烙印”を受け入れることで、何かが変わるのか……?)
“呪いの烙印”の力を恐れていない様子を窺わせるビアンカの言葉。それを聞き、ヒロは唇を噛み、ビアンカの背に纏わり付く黒い人魚を睨むように見据える。そうした彼の情態に、笑う声が響き渡る。
『良いわよ。“喰神”のご主人様』
『可愛いかわいいご主人様』
『私たちのお話を聞いて』
声が嬉しそうに発する。その声と共に人魚は、ビアンカの頬に顔を摺り寄せた。さような“海神の烙印”の創り出した化身の行動をビアンカは甘んじて受け入れるが、ヒロは不愉快げに眉を寄せる。
『宿主は、本当に私たちのことが嫌いなのね』
『ほんと、怖い顔をしているわ』
『口では恋をしているんじゃないって言っていたけど――』
そこで一斉に再び喚きたてるような、ケタケタとした笑いが上がった。
『やっぱり宿主のこの感情は恋心なのよ』
『ええ、そうね。そうじゃなきゃ、“喰神”のご主人様に執着しないわよね』
『ねえ。別にお友達に義理立てしなくても良いじゃない。そこはハッキリ言っておかないと損しちゃうわ』
「あーっ!! もういい加減にしてくれっ!!」
再び捲し立てるように口に出される言葉の数々に、ヒロは大声を張り上げた。声に驚いたビアンカがヒロに視線を向けると、ヒロが耳まで赤くしているのが目に映る。
ビアンカが呆気に取られた表情を見せていることに気付いたヒロは、気恥ずかしげに首を垂らしてしまう。その彼の仕草を目にし、ビアンカは翡翠色の瞳を不思議そうに瞬かせて小首を傾げた。
『大きな声を出さないで。ビックリしちゃうわ』
『何で宿主は隠そうとするのかしら? 男の子の考えって理解できないわねえ?』
『“喰神”のご主人様は、ハッキリ言わないと分からない子みたいよ?』
ビアンカの肩から身を乗り出して、人魚はヒロを覗き込む。頭を伏したままのヒロは、自身に身を寄せてきた人魚を避けるように身を捩った。
「……いや、ほんと勘弁してよ。何でお前たちに諭されないといけないんだよ」
消え入りそうな声でヒロが零すと、声たちは愉快げに笑声を上げる。
『私たちも“喰神”のご主人様なら良いと思うわ』
『そうそう。可愛いし優しいし、素敵じゃない』
『宿主は可愛いお嫁さんが欲しかったんでしょ?』
矢継ぎ早に囃し立てる声を掛けられ、ヒロは増々頭を伏せて背を丸めていく。
恐らく、力を付けた“海神の烙印”は、ヒロの思考に同調して彼の考えを読み取っているのであろう。隠し事と嘘で常に身を固めていたヒロは、胸中の想いを語られたことで恥じ入るように身を小さくしてしまう。
その様子を傍観していたビアンカは、呆れ混じりに嘆声をつく。
「ねえ。意地悪をしてヒロをからかわないであげて。――そろそろ、あなたたちのお話を聞かせてくれない?」
ヒロに向かって身を乗り出していた人魚を再び背後に押しやり、ヒロを庇うようにビアンカが促しを発すると、声たちは悪戯げな笑いを漏らす。
『そうね。お話、しましょう』
『宿主はね。私たちのことを怖がっているから、お話を聞いてくれなかったの』
『だから、代わりに“喰神”のご主人様が聞いて』
気を改めた声音で、“海神の烙印”が綴る。
『これはね。今から約四百年以上前のお話よ』
『私たちが、まだ呪いとして存在しなかった頃のお話』
『宿主が、まだ普通の人間だった頃のお話ね』
漸く語られ始めた、“海神の烙印”がこの世界に生まれるに至った話。
その語り手の綴る経緯に、ヒロは伏していた頭を上げる。紺碧色の瞳は真摯さを宿し、“呪いの烙印”の言葉を聞き逃すことの無いように、傾聴の姿勢を示すのだった。




