第六十三節 懇篤
“海神の烙印”が立てる笑い声が船倉に響き渡る。
呪いが実体化した黒い人魚は腕に抱くビアンカを覗き込み、漆黒の双眸を愛おしげに細めた。
『“喰神”のご主人様、可愛い子ね』
『ね、可愛い子。やっぱり女の子は良いわね』
『この子、宿主のイイヒトなのかしら?』
嘲笑いを含んだ声音で、次々と発せられる言葉。その声を聞き、ビアンカは嘆息を漏らしていた。
(御伽噺で人魚のお話を読んだことがあるけれど。――確か、人魚は恋に生きる存在みたいに書かれていたっけ……)
子供に読み聞かせをされる伽に、『人魚』と呼称される種族がいたことをビアンカは思い出した。
幼い頃に読んだ物語に登場する人魚は、魔族とは違う優しく友好的な存在として描かれていた。ヒトを愛し、ヒトとなることを夢見て、そして海の泡となって消える。悲壮な生き方をした人魚は、色恋話が好きな恋に恋するものとしてビアンカの記憶に残っていた。
架空の生物として書かれた人魚の性質は、魔族の中にいる人魚の姿をした者たちの性質を大本としたものなのだろうかと。ビアンカは思いなす。
『この子が宿主のイイヒトなの?』
『うん、きっとそうよ。宿主はこの子が大好きなのね』
『そうよね。こうしていると、凄く苦しそうにしてくれるもの』
黒い腕が更に力を籠らせる。あと少し力が加われば、ビアンカの首を確実に締め上げるだろう。微かに息苦しさを感じ始め、ビアンカは眉を寄せてしまう。
「やめ、ろっ! ビアンカにはっ、何も、するなっ!!」
険しい面差しを見せるヒロが絞り出すように叫ぶと、声たちは嬉しそうに笑い声を立てる。
けたたましく辺りに響く笑声に合わせ、ヒロの左手の甲――。そこに刻まれている“海神の烙印”から立ち昇る闇の気配が濃さを増していく。それがヒロに纏わりついていったかと思うと、彼は顔を顰め激しく咳込み始めた。
『あはっ、素敵ね』
『素敵な、美味しい感情』
『宿主。もっともっと苦しんで』
「ぐ……っ!!」
呪詛のように紡がれる、悦楽を含んだ言葉。
途端にヒロは胸元に拳を押し当て前のめりになり、再び口元から大量の血を吐出する。
ヒロの凄惨な有様に――、ビアンカは哀れみを宿した眼差しを向けていた。ヒロを苦しめる“海神の烙印”の真なる力を目の当たりにし、それに苛まれる彼の姿は、ビアンカの胸に強い痛みを伴わせて締め付けた。
心にわだかまるのは、“海神の烙印”が持つ禍々しさを感じさせない、他者に害を与えない特性に『羨ましい』という感情を抱いてしまった申し訳無さだった。
――やっぱり、“呪い”は“呪い”なんだ。良いも悪いも無い……。
そう思い馳せ、ビアンカはゆるく首を振るった。
「あなたの呪いは、随分と賑やかなのね……」
緊張を吐き出すように短く息をつき、ビアンカは言う。すると、自らを抱きしめている黒い人魚の手に、左手で触れる。ひやりとした冷たさがビアンカの指先に伝わった。
ビアンカに触れられたことで、人魚は小さく身体を揺らして反応を示す。自身の首を絞めつけてくる腕を、ビアンカが慈しむようにして優しく撫でると――。その腕に籠められた力が、ゆっくりと抜けていった。
『あらあら? 貴女は優しいのね?』
『“喰神”は、私たちを無視して見てもくれないのに』
『ご主人様の方は優しいのね』
“海神の烙印”が騒ぎ立てる中、ビアンカの宿す“喰神の烙印”は鳴りを潜めている。そのことを『無視』と揶揄する声に、ビアンカは微かに笑みを浮かせた。
「ごめんなさいね。“喰神の烙印”は、あまり他の人とお喋りをするのが好きじゃないから。あなたを無視しているワケではないのよ?」
優しい声音で諭すようにビアンカは口を開く。その様を目にしていたヒロは、痛みに胸を押さえたまま、眉間に深く皺を寄せた。
(――何で、 “海神の烙印”にそんな風に接しているんだ。それに、『この子』って、“喰神の烙印”のことだよな……。ビアンカはいったい、何をしている……?)
ビアンカの言動に黒い人魚は彼女の首を絞める腕を緩め、ただ楽しげに尾鰭を揺らす。何故に自身の宿している“海神の烙印”がビアンカに危害を加えることを止めたのかが、ヒロには解せなかった。
そして“喰神の烙印”のことを表しているのだろう言葉は、“呪いの烙印”の力を恐れていない彼女の心情をヒロに察し付かせていた。
ヒロが疑問に思いを馳せていると、ビアンカが傍らに跪いた。衣服がヒロの吐いた血で汚れることも厭わずに膝を付いたビアンカは、左手に嵌めていた革の手袋を外す。顕わになった左手の甲には――、“喰神の烙印”が淡く黒い燐光を発している。
死神が鎌を抱えるような印象を抱かせる紋様。その赤黒い痣の刻まれる左手を、ヒロの左手の甲に重ねた。血に塗れた手に触れることで、自らが汚れることも構わない様子を見せるビアンカに、ヒロは驚愕の眼を向ける。それにビアンカは、眉根を下げて微笑んだ。
『あら? もしかして、施しをしてくれるの?』
『まあまあ。“喰神”が力を貸してくれるなんて』
『大変。明日はきっと嵐が来ちゃうわ』
ビアンカに絡みついたまま、彼女の肩越しに様子を窺っていた人魚が吃驚の声を上げる。
「あなたが魂を振る舞ってくれたお礼、ですって。だから、これでヒロを苦しめるのは止めて、少しだけ静かにしていてくれる?」
尚も“海神の烙印”を窘めるような言葉がビアンカの口をつく。すると、声たちは不思議と従い、会話を噤む。くすくすと、笑い声だけが辺りに反響するように聞こえていた。
(これじゃあ、この子は。――本物の死神みたいじゃないか)
悪びれも見せずに紡がれる、魂を喰らったことを比喩する言葉。呪いに畏怖を抱かずに接する仕草や、あまつさえ慈しみを窺わせる顔付き。それらを目にし、ヒロは寒気を感じる。
優しげに自身に差し向けられる翡翠色の瞳に、ヒロは恐怖心を覚えてしまう。
思わず身を竦ませたヒロだったが――、ビアンカの手が重ねられた左手の甲に、何かの気配を感知して眉を寄せた。
血を流し過ぎた故、冷え切った手に感じる温かな感覚。身震いを起こしそうなほどに熱が奪われた身体全体に巡る、包み込むような慈愛を含んだ流れに、ヒロは紺碧色の瞳に安堵の様を乗せて細めた。
「これ、は……?」
徐々に全身を蝕んでいた痛みが薄れていくことに、ヒロは不思議げにしてビアンカに目を向ける。
「ごめんなさい。見様見真似でやっているから、あまり上手にできないけれど――。“喰神の烙印”の魔力を、あなたに分けてあげているの……」
視線をヒロの手元に落としたまま、ビアンカは語る。それにヒロは眉を曇らせる。
「“ニライ・カナイ”の魂を喰らうことはしていないわ。でも、“喰神の烙印”を使うなっていう、あなたの言いつけは破ってしまった」
静かな声音でビアンカは綴っていく。その言葉を聞き、ヒロは自身を癒す力の正体が、“喰神の烙印”が魂を喰らったことによって生み出された魔力だということを悟った。
魔力を分け与えることで、“海神の烙印”が求める対価と代用する。さようなことができるとは、ヒロも知らなかった。そして、そのような手技をビアンカが行えることに、内心で感嘆の思いを持つ。
「……海賊連中の魂を、喰わせたの?」
ヒロが問うと、ビアンカは首を縦に動かす。頷きで返された真相に、ヒロは嘆息する。
「盗み食いとか行儀の悪い真似をさせて、ごめんなさい。“喰神の烙印”は、食い意地ばかり張っていて、止めても聞いてくれなくて……」
「そいつが言っても聞かないってことは、僕も知っているよ。それでハルも、苦労していたからね」
喉を鳴らすような笑いをヒロは立てる。そして、ふと、かぶりを垂れてビアンカから視線を外す。
「僕、ビアンカに任せたいとか言っておいて、逃げ出しちゃった。やっぱり君を危ない目に会わせたくないと思って」
「……突然、姿が見えなくなるんだもの。驚いたわ」
ビアンカが不服げに零すと、ヒロは僅かに血色が良くなった面持ちに苦笑いを浮かす。
「ごめんね。それと――、来てくれて、ありがとう……」
ヒロの口をついた謝罪と礼の言葉、それにビアンカはゆるりと首を振るった。
(ビアンカは僕が心配する必要も無いくらい、強い子だったな。呪いに関して言えば、僕よりも良く分かっている。こんな風に“呪いの烙印”を飼い慣らすなんて……)
恐らくは“海神の烙印”も、ビアンカならば上手く使いこなしてくれるのではないか。彼女にならば、全てを託してしまって良いのではないか。そうヒロは思う。
(――いや、駄目だ。これ以上、負担を増やしてしまったら……、この子は壊れてしまうかも知れない。今でさえ……)
行きついた憂虞の思いに、ヒロは伏していた頭を上げた。未だに自身の手元に視線を落としているビアンカを、悲しげな眼差しで見据える。
ヒロはビアンカが他者の死を嫌うように見えて、死に関しての感情が希薄になっていることに気付いていた。そのことに勘付いたのは、海賊たちと応戦をしている最中だった。
これ以上、ビアンカの心を疲弊させてはいけない。彼女の心が卒した際の末路。それを想い、ヒロは愁いに唇を噛み締めた。




