第六十二節 羨望の人魚
禍々しく濃い瘴気が一面に漂っていた――。
船が激しく揺さぶられたことで、荷崩れを起こし乱雑な様相を窺わせる船倉。船舶ランタンが淡く光るだけの仄暗い船倉で、嘔吐を繰り返す音が聞こえていた。
そこでヒロは、荷が積まれる奥に身を隠すように座り込み、込み上げる不快感に顔を顰める。吐瀉される深紅の液体が床を汚していった。
“海神の烙印”が露わになったままの左手の甲からは、まるで香炉から煙が立ち昇るように黒い霞が湧き上がる。
呪いが対価を求めて蠢き、闇がヒロの身体に纏わり付いて彼を蝕んで苛む。
「カハッ――!」
喉に絡み息を詰まらせる血の塊を、顔を苦しげに歪めて吐き出す。息をつくこともままならないほど、血液が口から溢れ出した。
「うう……、痛い、なあ……」
背後にある木箱に身を預け、掠れる声で辟易と呟く。
胃から食道にかけて熱い血液が逆流してくる嘔吐感。堪らずにヒロは首を伏せて胸に手を押し当てると、再び血を吐いた。
激しい痛みがヒロを襲っていた。身体中を切り刻まれ、臓腑を滅茶苦茶に掻き回される感覚。灼け付くほどの苦痛がもたらす熱さに、眉を固く寄せる。
何度味わっても慣れることが無い、精神すらも蝕む痛みに耐えようとする。だが、痛みが誘う吐気は、ヒロの口元から血液を絶え間なく溢れさせた。
「――きっつ……。これ、だから……、こいつを使うのは、嫌なん、だ……」
“海神の烙印”は、宿主であるヒロの精神と苦痛を糧にする。“呪いの烙印”を行使した代償として、ヒロは死よりも過酷な苦痛を受けることになるのだった。
あまりの惨痛は、ヒロに普段の痛みをも過剰に反応させて忌避するに至っていた。心の奥深くに焼き付く鋭く重い痛みは、彼を疲弊させる。
血を吐き過ぎて眩暈がした。朦朧としだす頭に手を押し当てて叱咤し、深く頭を下げる。額に大粒の汗が滲み、紺碧色の瞳には涙の膜が浮かぶ。呼吸が整わないことで肩が上下に揺れた。一思いに意識を手放せれば楽なものの、それすらも痛みが許さない。
油断をしていると、自らが吐き出した血液から上がる錆びた鉄屑のような臭いが鼻につき、再び喉にせり上がった大量の血を吐出した。
ヒロが吐き出す血の量は――、明らかに人間が流せる血液の許容量を超えていた。それほどの血液が彼の喉を付いて溢れ、船倉の床板に大きな血溜まりを作り出す。
普通の人間ならば間違いなく失血で命を落としているだろう。しかしながら、“海神の烙印”は、ヒロが死ぬことを黙認しない。そのため、彼の臓腑を傷つけながら癒しを施し、終わりの無い窮愁の海へと突き落としていた。
ふと、ヒロは口元を手で拭いながら首を上げた。眉間に深く皺を寄せ、紺碧色の瞳を細める。
「――声が、聞こえる?」
誰に言うでも無く独り言ちる。内心でいったい何者が来たのかと考えつつ、この有様に気付かれるわけにもいかず、耳を澄ませて気配を消す。
「……ビアンカ?」
耳に届いた声を聞き、僅かな焦燥をヒロは表情に帯びた。
「――の? 本当に?」
「かま――ない、……礼だ――」
徐々に近づいてくる声。それは話し声であり、ビアンカと――、もう一人。聞き覚えの無い少年の声だった。
(――ビアンカと……、誰の声だ……?)
青年であるユキのものとは違う。変声期を迎えたばかりであろう年頃の少年の声。それにヒロは怪訝そうに眉を顰めてしまう。
「た――るわ、……ルテ」
ガタリと、船倉の出入り口が音を立てた。その音にヒロは肩を震わせる。
ヒロが音の出所へ目を向けると、逆光に映るビアンカの姿。そして、彼女の後ろにもう一人、人影が見えた。だが、その影は不意とヒロが視認できる場から姿を消した。
「ヒロ、いるんでしょう?」
暗い船倉の中に向かい、ビアンカが声を上げた。
だが、ヒロは返答の声を漏らさなかった。咄嗟に身を潜め、荒い息を押し殺す。
“海神の烙印”を行使し、その代償がもたらす苦痛に苛まれた際には、ビアンカに手を貸してもらおうと思っていた。しかし、いざその状況になると――、彼女の力を借りることをヒロは躊躇った。
(――やっぱり、これに関わらせるのは危険過ぎる。だって、僕は……、あの子に執着しすぎているから……)
心中でビアンカに対する想いを、吐露する。
“海神の烙印”の呪いは宿主であるヒロだけでなく、宿主が強い念を抱くものにも危害を加える。それは――、原初の宿主であるユラからヒロが呪いを継承するに至った事柄からも明らかなことだった。
自身に不測の事態が起これば、“海神の烙印”は次の宿主としてビアンカを選ぶだろう。いくら“呪い持ち”に呪いの力が通用しないことを了していても、“呪い持ち”に新たな呪いが宿らないとも限らなかった。前例が無いとは雖も、もしかしたらという憂慮の思いがヒロの脳裏を掠めていた。
(ビアンカに何かあったら、ハルに申し訳が立たない。これ以上、あの子たちが悲しい目に会うのを、僕は見たくない……)
気が付かずに去ってくれと、哀求してしまう。思想の海に身を窶していたヒロは、無意識の内に背を丸めて膝を抱えた。
「――そこに、いるのね?」
ビアンカが発した声を聞き、はたと下がっていた頭を上げる。すると、翡翠色の瞳と紺碧色の瞳の視線が交わった。
ヒロと目が合った途端に、ビアンカは足早に歩を進める。
「こっちに来るなっ!!」
今まで苦しんでいたとは思えないほど、ヒロが大きく声を張り上げた。その大声に一瞬、ビアンカは肩を揺らす。だがしかし――、目つきを鋭くしたと思うと、ヒロの叱責を気に留めずに歩みを進めた。
「頼むっ! 来ないで、くれ……っ!!」
焦慮に息を詰まらせ、ヒロは懇願の声を立てる。それでもビアンカは足を止めなかった。
ビアンカがヒロの吐き出した血の海へ、臆さずに足を踏み入れた瞬間だった――。
船倉に充満していた瘴気の色が濃くなり、血溜まりから突として闇の気配が蠢き、湧き出した。
膨れ上がった闇が触手の如く動きを見せたかと思えば、ビアンカの身体に絡みついて捉える。その事態にヒロは血の気が失せたかんばせを更に青白くさせ、息を呑んだ。
仄暗い船倉の強い瘴気が立ち込める中に、くすくすと笑う声が響く。
笑い声は幾重にも重なり、尚も響き渡る。ビアンカとヒロの耳に聞こえる声は、女性の声だった。
ビアンカは訝しげに翡翠色の瞳を細め、自身に纏わり付いた闇の塊に目を向ける。自身を捉える闇は歪に動きながら、遅鈍に蠢いていき徐々に黒い腕と手を形作っていく。背後には、ふわりと揺れる艶やかな漆黒の長い髪が見える。それに気を向けると、魚の尾鰭のようなものが目に映った。
ヒロは目の前の出来事に、驚愕から紺碧色の瞳を見開く。何が起こっているのか解せないと、そう彼の表情は物語っていた。
「――なん、だよっ。お前は……っ?!」
ビアンカの背後に現れた存在に、ヒロは愕然とした声を漏らす。
ヒロが目にしたのは――、闇を表面に蠢かせる一人の黒い人魚だった。その人魚は、ビアンカに背後から抱きつくようにして、彼女の肩から首に掛けて腕を回す。
辺りに響いていた笑い声が、嘲笑いの色を乗せて強くなる。人魚が声に合わせ、楽しげに尾鰭を揺らしていた。
人魚はゆっくりとした動きでビアンカを覗き込むように、彼女に顔を寄せる。その仕草にビアンカも人魚の様子を目にしようと首を傾けた。
(――女性の、人魚? “海神の烙印”が形作った呪いの化身……?)
形は歪な不完全さを印象付けるが――。それはビアンカが宿す“喰神の烙印”が、かつて彼女に見せた死神を模した姿に似ていると感じた。
しかしながら、ヒロの反応を見る限りでは、この黒い人魚が形状を示したのが初めてなのだと察し付く。
『“喰神”だわ』
『“喰神”ね。久しぶりね』
『随分と可愛らしいご主人様を連れているのね』
声が船倉内に反響する。若い女性の声。それは三人分の声音を奏で、“喰神の烙印”を呼ぶ。愉快げな談笑の音色に、ビアンカは眉を寄せた。
『それにしても、『なんだ』なんて。凄く寂しいことを言われたわね』
『そうよね。私たち、いつも一緒にいるじゃない?』
『ねえ、一緒にいるのにね?』
ヒロが驚愕から発した問いに、声は嘲笑うように応じる。そうした言葉の応酬に、ヒロは黒い人魚の正体を察し、紺碧色の瞳に驚愕と疑念の色を乗せた。
「まさか――、“海神の烙印”なのか……?」
信じられないと言いたげな声でヒロは漏らした。彼の驚きすら可笑しいと表すように、女性たちの笑声が上がる。
『漸く気が付いたの? のんびり屋さんなのね?』
『宿主は少し、頭の回転が鈍いのかしら?』
『四百年以上も一緒にいるのにねえ?』
一斉にヒロを侮辱する言葉が紡がれていく。
止まない笑いを耳に入れ、ヒロは奥歯を噛み締めていた。紺碧色の瞳には増悪を宿し、黒い人魚を射抜き殺さんほどの鋭い眼差しで睨みつける。
その最中にも、ビアンカを抱きすくめる人魚の腕は、徐々に力を籠めていく。
首を絞められていく不愉快さ。それにビアンカは眉を寄せるのだった。




