第六十一節 呪いの代償
荒波が打ち付ける激しい音が響き、船が一際大きく揺れる。その揺れに足をもつれさせ、ビアンカはよろめいた。
「だいじょぶっ、ビアンカちゃんっ?!」
共にユキに支えられるアユーシが、更にビアンカを抱えるように腕を伸ばす。アユーシに触れられることでもたらされる不快感。それにビアンカは眉を寄せるが、物申す暇をも惜しいと言い表すようにしてアユーシに目を向けた。
「ヒロが……っ!」
焦燥に駆られる声をビアンカが絞り出す。ただならぬ状態で何かを訴えようとする彼女を目にして、アユーシが怪訝げな表情を浮かした。
「ヒロちゃんがどうかした?」
「倒れたわっ! 凄く苦しそうにしてっ!!」
「えっ?!」
ヒロの行使した“海神の烙印”が、海原に姿を現した海賊船団を一瞬にして掃滅させた。特にオーシア帝国船に対して、強い遺恨を含んだ呪いの魔力が纏わり付く気配を、ビアンカは感知していた。
直後にオーシア帝国船が罅ぜたことで大波が船を襲い、場は混乱を極めた。そうした最中でビアンカは、ヒロが痛みに耐えるような悲壮の有様を呈した現場を目にした。
苦悶に揺らぐ紺碧色の瞳。胸元に強く拳を押し当て、苦しげにしたと思えば――。ヒロは慣れた船上であるはずなのにも関わらず、揺れに足を取られて甲板室壁面に身体を強か打ち付け、膝を付いて倒れ込んでしまった。
その一部始終を目にしたビアンカは、ヒロが語ったある言葉を想起していたのだった。
「ヒロは、呪いの力を行使した後、自分のことを『使い物にならなくなる』って言っていた。いったい何があるっていうの……っ?!」
尚もビアンカが焦慮を宿し、アユーシとユキを見上げて声を荒げた。それを嗜めるように、アユーシはビアンカの背をさする。
「……あいつが“呪いの烙印”を使うところを、俺たちは初めて見た。何があるっていうんだ?」
「とにかく、揺れが落ち着いてきたんし。ヒロちゃんの様子、見に行こう?」
アユーシの言の通り大きく揺さぶられていた船体が、漸く落ち着きを取り戻して来ていた。波に襲われることに慣れている船乗り――、船長が船夫たちへと早々に指示を飛ばし、辺りには乗船客の安否を確認するために船夫が走り回っている状態だった。
すると、ビアンカはアユーシとユキを振り払うように、甲板室前に駆け出していく。焦りを窺わせ、ヒロが倒れ込んだ場へ足を運ぶが――。
ビアンカの赴いた場所に、ヒロの姿は無かった。
「ヒロ……?」
眉を曇らせ、周りを見渡す。しかし、どこに目を向けようともヒロの姿は無く、ビアンカは顔付きに焦慮の色を濃くしていった。
ふと、足元に視線を移す。そこにあったものを目にして、ビアンカは怪訝さを表情に帯びた。
ビアンカが視線を落とした先には――、真新しい血の痕が存在した。海賊たちとの戦闘の際に流された砂に塗れた血痕では無く、今しがた流されたものだということに、ビアンカは察し付く。
(ヒロの、血……? でも、怪我は治っていたはず……)
海賊船から離脱してきたヒロが一同を安心させるため、露わにした傷の数々。見せられた彼の傷口は呪いの力がもたらす宿主を癒す力によって、既に塞がり薄く痕を残す程度になっていたはずだった。
事態の解せなさに、ビアンカは懐疑の思いを抱いてしまう。
遅疑逡巡として思考の海に身を窶している時だった。
「――――っ?!」
ビアンカは翡翠色の瞳を見開き、咄嗟に身構えた。険しくなった顔付きは、突として感じ始めた気配に警戒心を具えた様相を醸し出す。
同時にビアンカの左手の甲。そこに刻まれる“喰神の烙印”が蠢き、楽しげな様を窺わせ始めた。
(――なに、この気配。船の下の方から感じる……?)
ビアンカは何かの、禍々しい気配を察していた。それは唐突に沸き上がり、船の底――、船倉に姿を現した。
遺恨と嘆きを含有した不穏で重苦しい感覚。その感知したものは、ヒロの操った“海神の烙印”から感じたものと同じだと、ビアンカは勘付く。
今まで“海神の烙印”は、ビアンカに忌まわしい印象を抱かせなかった。だがしかし、ヒロが“呪いの烙印”を海賊船団に差し立てた瞬間に、呪いは嬉々として自らの存在を主張するかの如く不詳の様を明示した。
ヒロ自身が強い精神力を以て、呪いの力を抑えていたのか。“海神の烙印”の大本となった魔族が自らの怨敵であるオーシア帝国の船を沈める喜びに沸き、呪念を溢れさせたのか――。
(ヒロと“海神の烙印”は、お互いにオーシア帝国に対して強い恨みを持っている。普段はヒロが呪いの力を抑えているけれど、二人が同調したことであれだけの禍々しさを発した……?)
しかしながら、遺恨の対象となる存在は消えた。なのに何故、また不穏な気配を感じるのか。ビアンカは考えの及ばない儀に思いなす。
逡巡と考えるだけで、答えに行きつかない。事態の解せなさにビアンカは唇を噛む。
――『“海神”の呪いが、あの男に力を貸した代償を求めている』
「え?」
不意に“喰神の烙印”が言葉を発する。頭の中に響いた声に、ビアンカは肩を震わせて反応を示した。くつくつと笑う声が猶々と聞こえ、ビアンカは煩わしそうに眉を寄せる。
「……どういうこと?」
小声でビアンカは“喰神の烙印”に対して返弁を促す。
――『我らに力を借りるには、それなりの見返りが必要だと分かっているだろう?』
その口舌に、ビアンカは微かに首を縦に振るう。
“呪いの烙印”が力を宿主に与える時――。その後に、呪いは力を貸した代償として、相応の対価を求める。
ビアンカの宿す“喰神の烙印”ならば、人間の魂を対価として欲する。それは、永らくの時を“喰神の烙印”と過ごすこととなったビアンカも、領得しているものだった。
「――それじゃあ、“海神の烙印”が求めるものって、なんなの?」
ビアンカが疑問を呟くと、“喰神の烙印”は嘲笑うように蠢く。さようなことも推察できないのかと、馬鹿にした情態をビアンカは覚える。
――『あれも自ら語っていたであろう。“海神”は宿主の精神と苦痛を糧にすると』
「精神と苦痛……」
ヒロがビアンカに“海神の烙印”のことを語った際、そのように説明をしていたことを彼女は思い出した。その時は、それがどのような意味を持つものなのかを理解しきれなかったのだが。
(ヒロが痛みをあれほど嫌う理由って、もしかして――)
ビアンカが思い至った事柄に、“喰神の烙印”は尚も可笑しげに笑い声を上げる。
――『あの男は“海神”の力を行使する代償として、死よりも過酷な苦しみを味わうこととなる。だが“海神”は易々と餌になる人間を殺さない。そして、あれは死ぬに死ねないことで絶望を感じ、故に死への憧れを抱いた。その願望すらも“羨望”の糧になるとも知らずにな。実に哀れで滑稽な若造だと思わないか?』
“喰神の烙印”が堰を切ったように多弁に語り、声高にして笑う。
――『だから私は、昔からあの男のことを何も知らない青二才だと思っていたのだ。だのに、この私に――』
「――黙りなさい」
楽しげな様子で侮言を述べる“喰神の烙印”の声を、ビアンカが強い口調で制した。それに“喰神の烙印”は喉を鳴らすかのような笑いを響かせる。
“海神の烙印”の無慈悲さに、ビアンカは胸を痛めていた。
ヒロは“群島諸国大戦”という大きな戦争を、自身が起こしてしまったと悔いている。そのために、自分の身も顧みず、心にも嘘をついて、必死になっている。そうビアンカは推知する。
オーシア帝国船が姿を現した時に『力を貸す』という一言を口に出せなかったことを、ビアンカは後悔した。何故あの時に、ヒロに手を差し伸べずに躊躇ってしまったのかと思う。
「――あなた。腹ごなしに付き合いなさい」
強い覇気を声音に乗せ、ビアンカは呟いた。翡翠色の瞳が何かに行きついた様を持って揺れる。彼女の考慮を推し量った“喰神の烙印”は、愉快げに低く笑い声を零した。
「あっ、ビアンカちゃんっ?!」
佇んでいたと思ったビアンカが、突如駆け出して甲板室の扉をくぐった。
それを認めたアユーシは咄嗟に追い掛けようと踵を返すが、ユキが腕を掴むことで止める。
「やめろ、アユーシは行くな。神族の血を引くお前が行ったら、瘴気に充てられる」
「で、でもっ!」
「俺たちは、ここの騒ぎを収めるぞ。ヒロの奴、普段は頑なに呪いのことを隠したがるくせに。あんな大々的に使いやがって……」
嘆息混じりにユキが口にすると、物言いたげにしていたアユーシは押し黙った。
甲板上はざわめきの様相を呈していた。船の揺れが治まったことにより落ち着きを取り戻し始めた者たちが、今度はヒロが行使した力を話頭にして騒ぎ始めていたのだ。
あるものは『凄い魔法を使える人だったんだ』と絶賛を述べ、あるものは『感じたことも無い恐ろしい気配がした』と震える声で囁き合う。
「……ビアンカちゃんは大丈夫なん?」
「“呪い持ち”に他の呪いの力は効かないと聞いたことがある。ビアンカがヒロの奴を何とかしてくれることに期待しよう」
ユキの言葉にアユーシは仕方なさげに頷く。そして、ヒロのために自分たちのできることを行おうと心に決めるのだった。




