第六十節 過去の亡霊
「ビアンカッ! 勘弁してよっ!!」
縄をよじ登り、甲板に上がってきて開口一番。ヒロは憤慨の様を窺わせて言う。それにビアンカは眉根を下げ、申し訳なさそうに両掌を合わせた。
「ごめんなさいっ! 私、的に狙いを定めないと、上手く弓を射ることができなくて……っ!!」
素直に謝罪を述べるビアンカを目にし、ヒロは嘆息する。
傍らでは、アユーシとユキが苦笑いを浮かべていた。
腕を掲げて髪を乱すように頭を掻くヒロをチラリと見やり、その満身創痍な井出達にビアンカは眉を曇らせてしまう。
「……ヒロ。大分、怪我をしたわよね。お腹も刺されていたみたいだけど、大丈夫?」
心配を声音に宿しビアンカが問うと、ヒロは微かに口角を吊り上げた。
「凄く痛かったけど、もう傷は塞がっているし。こんな時だけ、自分の体質には感謝するよ」
言いながらヒロは上着を捲り、海賊のカトラスで貫かれた箇所を顕わにする。
黒い衣服が裂かれた布地の下に見える肌。頬や腕などに血がこびりついているものの、既に出血は止まっていた。そうしたヒロの傷跡を認めたビアンカたちは、安堵に胸を撫で下ろす。
「それにしても。流石に酷い有様だね」
ヒロは航行船の様子に視線を移し、再び溜息をつく。
甲板は、いたるところに海賊たちの亡骸が横たわり、大量の血と砂で汚れていた。
亡骸を隅に寄せるために忙しなく動く船夫や乗船客たちは、皆がみな、一様に傷だらけで疲労困憊の呈を擁する。
だが、周囲を見渡した限り、横たわる亡骸は海賊のものばかりで、船夫や乗船客に死者が出なかったことを悟らせた。
「そりゃ、ねえ。あんな混戦じゃあ、しゃーなし。肝が一個座った感じだわ……」
「こっちの死者は無しだ。全員、魔力がすっからかんで治癒魔法を使うこともできやしないけどな」
アユーシが海容の口舌で肩を竦めると、ユキが疲れを滲ませる笑みを浮かせて口にした。
口述するアユーシとユキも傷を多く負っており、果敢に前に立って奮闘したことを雄弁に物語っていた。
「そうしたら、船室の方に行って魔法札を持ってくるよ。ソレイ港で買い占めてきたから、腐るほどあるし」
ヒロの言葉を聞き、ビアンカはフッと彼の荷物のことを思い出した。
“ニライ・カナイ”行き航行船に乗り込む前。桟橋でヒロと合流した時、彼が手にしていた色鮮やかな花束にばかり気を取られていたが――。
今思えば、ヒロが肩に掛けていた鞄は妙に膨らみを帯びており、重たげな状態を見せていた。
「……そんなに買って、お金は大丈夫だったの?」
ビアンカが思ったことをつい口に出すと、ヒロは満面の笑みを見せる。
「本国の経費で落ちるから、僕の懐は痛くないっ!」
自らの胸を右手で叩き、ヒロは得意げに口にした。
そのヒロの言い分に、一同は思わず失笑してしまうのだった。
◇◇◇
海賊との戦闘が終わり、楽しげな話が続く。
気を抜き、暫しの談笑していると――。
耳を劈く轟音が響き渡り――、辺りの空気が震えた。
その音から僅かばかり間を置いて、海が波立ち、航行船が大きく揺さぶられる。
その場にいた誰しもが体制を崩し、よろめいてしまう。
即座に甲板上が騒めき、混乱の様を見せ始めた。
「なに?」
よろめいた拍子に座り込んでしまったビアンカが立ち上がり、音のした方へ目を向ける。
驚きに目を見張ると、進路を変えられた海賊船が大破し、沈没していく状景が映った。
「まさか、もう出てきたのかっ?! 修復に手間取って雲隠れすると思っていたのにっ!!」
焦燥に声を荒げたヒロは、勢い良く手摺に手を掛けた。海原に目を向けると、顔色が見る見る内に変わっていく。
ヒロの表情の変化にビアンカは怪訝そうに眉を寄せ、彼が見据える方向へ顔を動かした。
海原には、肉眼で確認できるほど近づいて来ている数隻の帆船の姿があった。どの船も、今しがた沈没した海賊のガレオン船と同型のものであったが――。
船団の中に一隻だけ、毛色の違う帆船が混じっていた。
その船は古臭さを醸し出しながらも、重厚かつ堅牢な様相を有した。船体は黒く塗られ、四本のマストには黒い帆が広げられる。
軍隊の船――。それを顕示する帆船は、船嘴に重ねられるように大口径の砲が積まれる。砲口は航行船側に向けられており、立ち昇る煙の状態から、先ほど海賊船を轟沈させた正体だということを一同は感知した。
「ヒロ、あれは……?」
ビアンカが疑問の声を漏らすと、唇を噛んでいたヒロは口を開く。
「――オーシア帝国船だ」
「えっ?!」
喉から絞り出すようにヒロが呟き漏らす。その思いも掛けない返答に、ビアンカが吃驚の声を上げた。
「で、でも、オーシア帝国って。“群島諸国大戦”で滅びたんじゃ……」
何故に過去の戦争で存在したオーシア帝国の船が、今ここに存在するのかがビアンカには解せなかった。そのため、尚もビアンカが疑問を投げ掛ける。
「あの戦争の最中、かなりの数の帝国船を沈めた。でも、破壊しきれなくて、形を残したままで漂流させてしまった船が多くあったんだよ」
ヒロが苦々しげな声で語る。
「人目の付かないところに流れ着く船もあった。――そして、ある程度の形を残したままで、この何百年もを過ごした。そいつを海賊連中が拾ったんだ」
「それじゃあ、さっきの砲撃って、まさか……」
ヒロの説話を聞き、ビアンカは海賊船を沈没させた砲が何であるか察した。彼女が勘付いた事柄に、ヒロは頷く。
「“魔導砲”だ。あの砲は風の流れに左右されず、勢いを殺さずに砲撃する。込められた魔力は、普通の砲とは違う破壊力を持つ。当てられたら、ひとたまりもないぞっ!!」
唸るような声が鼻上に皺を寄せたヒロの口をつく。その気迫にビアンカは肩を竦ませ、息を呑んだ。
ビアンカが驚きからたじろいだのを傍目にし、ヒロは顔付きを困窮したものに変えて彼女に目を向けた。
「僕が群島のお偉い方から与えられる依頼をこなす本当の目的はね。――過去の亡霊を、僕たちの時代に起こった戦争の残りカスを始末するためなんだ」
いつもの穏やかな口調でヒロは語り始める。その表情は微かに曇り、悲観の色を帯びていた。
「ぼう、れい……?」
唖然としたビアンカが呟くと、ヒロは首肯した。
「“魔導砲”なんていう危険なものを。――僕が起こした戦争の名残を、そのままにしておくわけにはいかないからね」
まるで卑下するような口振りだと、ビアンカは思った。そしてその言葉は、ヒロもまた自身と同じように過去の出来事に縛られ、もがき苦しんでいることを推し量らせた。
思い至った儀にビアンカが眉を寄せると、ヒロは微笑む。
「これの後始末は、僕の役割。だけど――、この後のことは。ビアンカにお願いしたいな」
「え……?」
ヒロが零した言葉の真意を量り兼ね、ビアンカは続きを促す視線を投げる。だが、ヒロは鋭さを持った紺碧色の瞳を、再び海賊船団へと向ける。その眼差しは決意の色を示唆して揺らめく。
ビアンカは物言いたげにヒロに手を伸ばそうとするが、躊躇いから拳を作り、強く握りしめた。
ヒロは黙したまま、左手に嵌めていた革の手袋を外した。
水平線に身を沈ませかけた太陽の光が、ヒロの露わになった左手の甲を照らす。――そこには、人魚が天秤を携えているように印象付ける、歪な紋様の赤黒い痣が刻まれる。
左手を肩辺りまで掲げ上げ、海賊船団へと差し立てる。すると、一帯に禍々しさを感じさせる空気が沸き上がった。
「<――審判を司る呪いよ>」
ヒロの口から、呪いの言の葉が紡がれる。それと共に、彼の左手の甲に刻まれる“呪いの烙印”が赤と黒の入り混じった採光を発し始める。
「<我が身に宿りし“海神の烙印”よ。我が命を啜り、罪の重さを量り罰を与える糧とせよ――>」
赤と黒の採光の中に黒い燐光が飛び、闇が霞のように溢れ出す。ヒロは顔を歪ませ、額には汗が浮かぶ。だが、彼の唇は不敵な弧を描いた。
「<その無慈悲なる力を裁きの刃と変え、咎人を滅せよ――っ!!>」
壮烈な声音でヒロが呪詛を完成させると、辺りに広がった赤と黒を纏った闇が、立ちどころに収束して消えた。
次の瞬間だった――。
海賊船団周辺の海面が黒い渦を巻いた。凄絶な音を立て、闇が立ち昇り海を引き込んで脹らむ。闇は瞬く間に黒い津波へと姿を変え、海賊船団を飲み込んでいく。
その途端に海原に轟音が響き――、“魔導砲”を積むオーシア帝国船が罅ぜた。
「な、なんだ、ありゃ……っ?!」
「魔法、か?」
海賊船団の末路を目にして、船夫や乗船客からどよめきが上がる。突として起こった事象に誰しもが狼狽え、何事かと声を発する。
その有様をビアンカのみならず、アユーシやユキが焦燥し、感氏した。
「――大波が来るぞっ! 構えろっ!!」
騒めきの最中、航行船の船長が慌てを内包させ、大きく叫んだ。
それと同時に、オーシア帝国船が破裂した衝撃で立ち上がった波が航行船を襲う。舷側を波に凄まじい勢いで叩かれ、立っていられないほどに船体が大きく揺さぶられた。
船上に叫声が沸き上がり、ユキがビアンカとアユーシを抱え込んで手摺に強く手を掛ける。
ビアンカも自身の手で手摺を握り、焦慮からヒロの姿を探す。
「ヒロッ!!」
ヒロの名を呼ぶ大声が、慄きに声を荒げる者たちの合間に響いた。
ビアンカが見止めたのは、手摺に手を掛け、頭を伏したヒロの姿だった。
不意にヒロは手摺から手を離し、苦しげにして胸元に拳を押し当てよろめいた。かと思うと、船の揺れに足を取られ、甲板室の壁面に強か身体を打ち付けてしまう。そして、力が抜けたように膝を折り、崩れ落ちた。




