第四十六節 アユーシのお誘い
船が“ニライ・カナイ”海域に向かい出帆して、三日ほどが過ぎた。
海も穏やかで、このまま天候が崩れることさえなければ、予定通りの日数で船は“ニライ・カナイ”へと到着するだろう。
ビアンカがヒロに“海神の烙印”のことや、彼の身の上に起きた出来事を聞いた翌朝――。
ヒロは何事も無かったかのように、普段の調子でビアンカに接してきた。星の海の下でヒロが語った羨望は、ビアンカの胸にしこりとして残ってはいたものの、彼女はヒロに問いただしなどをしなかった。
朝も早い食堂の一角。四人掛けの席に対面で腰を掛け、朝食を摂るヒロとビアンカの姿を見つけたアユーシは、足早に二人の元へ歩み寄る。
「ヒロちゃん、ビアンカちゃん。おはよーっ!!」
「おはよう、アユーシさん。ユキさんも」
「おはよー。アユーシもユキも、元気そうで何より」
アユーシが朝の挨拶をヒロとビアンカへ投げ掛けると、彼女を見止めた二人は笑顔で言葉を返す。
アユーシの後ろから遅鈍な足取りで歩んでくるユキは無言のまま、やたらと機嫌の悪い雰囲気を醸し出してヒロの隣に腰掛ける。
ユキは朝に弱く、起きると機嫌が悪いということを了得していたために、ヒロもビアンカもさして気にしない。
「いやあ。てか、二人とも早起きだねえ。やっぱ、歳なんかねえ?」
ヘラヘラと笑いながらアユーシは手にしていた朝食の乗るトレイをテーブルに置き、ビアンカの隣の席に腰を掛けた。そんなアユーシの戯れの言葉に、ヒロの眉がピクリと動く。
「――アユーシ、そこの席に座るの禁止。君は外で食事を摂ると良いと思うよ?」
「ああっ、ウソウソ。ヒロちゃんは若くて格好良くてイケメンだなー」
ヒロが目元の笑っていない笑顔を見せると、アユーシは慌てた声音でへつらう。
するとヒロは今度こそニコリと笑みを浮かし、食事の続きを摂り始めた。それにアユーシはワザとらしく胸を撫で下ろす仕草を取り、朝食に手を付ける。
ふと、アユーシがビアンカに目を向けると。いそいそと緑の野菜――、苦瓜を拙い箸使いで平皿の隅に寄せている様子が目に入り、アユーシは笑ってしまう。
「ビアンカちゃん、苦瓜嫌いなん?」
何気なく問い掛けると、ビアンカの動きが止まる。そして気まずそうな色を表情に浮かした。
「うう……。お肉以外は苦手なものは無いと思っていたんだけれど。この群島のお野菜……。これだけは食べられないの……」
「ふふ。朝食のメニューにあったからさ。群島の食べ物を味わってもらおうと思って勧めたんだけど、一口食べた後の反応が面白かったよ」
ビアンカが眉根を下げて言い訳を口にすると、それにヒロが可笑しそうに笑いを零す。
オヴェリア群島連邦共和国に生息する植物の実である苦瓜。その苦瓜を卵と和えた料理を朝食の献立に見つけたヒロは、『群島のことを知るため』と称してビアンカに勧めていた。
ビアンカも旅をする中で、様々な国の文化に触れることを良しとしているため、ヒロの言葉を受け料理を口にしたが――。思いがけない苦瓜の苦さに困惑して顔を顰め身悶え、それを口にすることを断念していたのだった。
「卵は食べられるから良いんだけど……。これだけは、どうしてもね……」
尚も苦瓜を皿の隅に寄せながら、ビアンカは溜息をつく。
「うーん。この瓜、結構苦いもんねえ。――ってか、ヒロちゃんは何を当然の顔して、その選り分けたのを食べてるん?」
「え? だって勿体ないじゃない? ビアンカから食べても良いって許可は貰っているよ?」
傍目にしていたヒロがビアンカの皿から苦瓜を取り、口に運んでいることに気が付き、アユーシは呆れ混じりに言う。
だが、ヒロは悪びれた様子も無く、当たり前の顔をしながら箸を器用に使って苦瓜を食む。ビアンカが苦いと顔を顰めていたにも関わらず、ヒロは慣れているのか顔色一つ変えていない。
「残すのは申し訳ないなって思っていたんだけど。ヒロが代わりに食べるって言うから、お願いしたの」
「そういうこと。ねー?」
ヒロがビアンカに声を投げ掛け、それにビアンカは微笑んで首肯する。そして顔を見合わせ、笑い合う。
その気を許し合った様子を目にしたアユーシは、琥珀色の瞳を瞬かせた。
「なーんか、そうしていると。お二人さんは、仲の良い兄妹みたいだねえ」
アユーシが思ったことを口にすると、はたとヒロの箸が止まった。そして、何かに納得した色を表情に浮かし始める。
「あー……。そうか。兄妹に見えているんだ」
「え?」
ヒロの漏らした言葉に、ビアンカは不思議げな装いを宿した声を上げた。アユーシも何事かと言いたげな楽しげな表情を窺わせ、話の続きを待つ様を見せる。
「いや。船乗りたちがね。『あの子に彼氏はいるのか?』って、僕に聞くんだよ。僕が一緒に行動しているのを分かっていてだよ?」
ヒロはビアンカの容姿が、男受けの良いものだと了している。そのため、彼女に声を掛けようとする者がいると、さり気無く近くにいることで牽制し排除していた。否、――しているつもりでいた。
だがしかし。ビアンカが席を外している際などに、ヒロにビアンカのことを問う者が後を絶たなかったのだ。それをヒロは不思議に思っていたのだった。
「ヒロとビアンカは雰囲気が似ているからな。つまりが、兄貴だと思われているってことか。まあ、兄貴に妹の彼氏のことを聞くってのも、どうかと思うが……」
漸く覚醒してきたユキが怠そうな風体で口にすると、ヒロは首を縦に幾度か動かす。
「そういうことなんだねえ。なんかスッキリした。――でも、ビアンカに悪い虫が付かないように、ヒロお兄ちゃんは頑張るっ!」
「えええ……?!」
ヒロの宣言にビアンカが頬を引き攣らせて困惑の声を発する。それを聞き、ヒロは楽しそうに笑みを作った。
「だって、ビアンカにはイイヒトがいるじゃない? あんまり声を掛けられるの、好きじゃ無さそうだしね」
「そ……、そうだけど……」
猶々とヒロが述べると、ビアンカは増々困惑の色を表情に示唆させる。そのやり取りを見ていたアユーシは、肩を震わせて笑いを噴き出した。
「あっはは。ヒロちゃんが悪い虫除けかあ。ただ、自分だってお嬢さん方に注目されているって、忘れないようにねえ」
「え? 誰が?」
ケタケタと笑い出したアユーシを見やり、ヒロは怪訝な表情を見せて問いを投げた。それにアユーシは悪戯そうに口角を上げ、ヒロを指差す。
「ヒロちゃんに決まってんじゃん。ビアンカちゃんのことで聞かれるのも、お嬢さん方からの探りなんよ。気付いてないん?」
「全く……」
アユーシの返答を耳にして、ヒロは首を振るった。そうしたヒロの返しに、アユーシは溜息を吐く。
ビアンカに男が寄り付かないようにと心配をしていたものの、ヒロはヒロで乗船客の女性たちに並々ならぬ熱い視線を送られていた。
だが、当のヒロ本人はそれを気にも留めず、船内で彼らしい気さくでいて優しい態度を以て女性たちに接していたのである。
「……あんね。ヒロちゃんは、アユーシおねーさんから見ても、女顔でかーわいいって思うわけさね。そのくせ意外と身体は鍛えてあって、締まってるし。行動は男前だし。そーいうのに、おねーさま方はギャップを感じて惹かれるワケ。お分かり?」
「全く」
多弁に語るアユーシの言を聞き、ヒロは先ほどと同じ返しを言い放ち、首を振る。
さようなヒロの返答に、アユーシは顔付きを変え、再三の嘆息を吐き出した。
「無自覚ってないわー。この天然タラシがっ。女の敵っ!」
「えええ。何でそんな風に言われないといけないのっ?!」
辟易した様相で悪態を吐き出し始めたアユーシの物言いに、ヒロは驚愕を呈してしまう。そうした二人のやり取りをビアンカは呆気に取られ、ユキは冷めた面持ちで見やっていた。
周りの乗船客たちの注目を集めつつ、暫く舌戦を繰り広げていたヒロとアユーシであったが――。
不意にアユーシが気を改めたように、話を切り替えていく。
「――ところでヒロちゃん」
「うん? なに?」
「今日は、アユーシおねーさんとイイコト、しようぜえ」
言いながら、アユーシは不敵な笑みを浮かべる。
「えっ?! 嫌だよっ!!」
間髪入れずにヒロが拒否を返すと、アユーシはワザとらしく嘆声した。
「群島の男は、レディの頼みごとを無下にするのかなあ?」
アユーシはテーブルに肘を付いて、ヒロに向かい身を乗り出す。琥珀色の瞳を妖しげに細め、髪を掻き上げると、まるでヒロを挑発するかのような風体を漂わせる。
そうしたアユーシの言葉にヒロは気乗りがしなさそうな、渋い顔を浮かしてしまう。
「うーん……。それを言われると困るなあ。――アユーシ、また剣の腕を上げているでしょ? 僕、手加減してあげられるか、分からないよ……?」
ヒロが澄ました情態で口にすると、アユーシの唇が愉快げに弧を描いた。
「上等だわよ。ヒロちゃんの手加減無しを経験できるんなら、怪我の一つや二つ、屁でも無いってな」
カラカラと笑いながら、大仰な身振りでアユーシは言う。それにヒロは思わず呆れの溜息をつく。
「あのねえ、アユーシ。女性が『屁でも無い』とか言うものじゃないし。そもそも痛いのってイヤじゃない?」
諭すようなヒロの言葉を、アユーシはフッと鼻で笑い捨てる。
「痛いのを怖がってちゃー、腕も上がらないワケさね。つべこべ言わずに、お相手を願いますよ。お師匠様」
「仕方ないなあ……」
黒髪に手をやり搔き乱し、不服げな声音でヒロは応えるのだった。




