第四十三節 海神の烙印
「“海神の烙印”は、あなたの命を糧にするの……?」
それほどまで、悪い気配は感じない。自身の宿す“喰神の烙印”の禍々しさを尺度に置き、ビアンカが問う。すると、ヒロはビアンカの考えを見抜き、ゆるりと首肯した。
「うん、そうだよ。徐々に精神を蝕んでいき、そこから生み出される苦痛。様々なことに宿主が苦しむことが、こいつの力の源だ」
言いながらヒロは、自身の目の前に左手を掲げ上げる。
“海神の烙印”を見つめるヒロの眼差しは鋭さを持ち、普段は優しげな様を湛える紺碧色の瞳に不似合いなものをビアンカに窺わせた。
(禍々しさは感じないけれど。やっぱり、“呪い”は“呪い”なのね)
ヒロの眼差しを目にし、ビアンカは思う。
(周りの人々に害がある“喰神の烙印”とは違って、ヒロの宿している“海神の烙印”は宿主に影響を及ぼす。でも夢見が悪いという程度ならば、さして危険も無いものなのかしら……?)
そう心中で逡巡と考え、僅かに「羨ましい」という思いを、ビアンカは抱いていた。
“近しい者たちに不幸を撒き散らし、死に至らしめる”という性質を持つ“喰神の烙印”。その質の悪さを思えば、ヒロの宿す“海神の烙印”の自己犠牲的ともいえる性質は、ビアンカにとって羨望のものであった。
(いえ。もう止めましょう。羨ましいなんて思うのは……、ヒロに失礼だわ……)
いくら他者に害を及ぼさない呪いであろうとも、その力は強大でいて忌々しい。自分自身とは違う性合の呪いではあるが、内に抱く深刻さはヒロも変わらないはずである。そうビアンカは思い至り、惟うことを止めた。
そして、翡翠色の瞳をヒロに向け、続きを促すために口を開いた。
「夢見が悪い――。悪夢って、どんな夢なのかしら?」
詳しい話を聞きたいと考えビアンカが問えば、ヒロは瞳を伏し、一顧する様子を窺わせる。そして一呼吸を置き、瞳を上げて再びビアンカを見据えて言葉を紡ぐ。
「苦しくて痛くて辛くて仕方のない夢、っていうのかな。この呪いを宿してからは殆ど眠っていないから、細かいことはあまり覚えていないんだけど――。恐らくは、“海神の烙印”の大本となった魔族が、呪いを遺すに至った経緯なんだと思う」
「そんなに眠れていないの……?」
ヒロの返弁に、ビアンカは驚愕から唖然とした表情を浮かべてしまう。まさかヒロがそれほどまでに眠れていないとは、ビアンカは思ってもみなかった。
驚いた様相を顔に見せたビアンカを見やり、ヒロは然りを意味して頷いた。そうして、話の続きを語っていく。
「夢で、断片的に覚えているのは――、どこかの研究室。そこで身体を切り刻まれて、死ぬに死ねなくて、必死に許しを請うんだ……」
ヒロが夢の中に思い出すのは、魔法で灯された明かりだけがいやに眩しく感じる、陰鬱で無機質な部屋だった。
室内で耳に聞こえるのは、人間たちの囁く声と嘲笑いの声。そして――、苦悶に唸る、“呪い”の大本となった魔族の意識に溶け込んだ自分自身の声。
恐怖で混乱しきった頭の中に蠢くのは、許しを懇願する感情。それに激しい憤りの感情であった。
様々な道具で身を切り刻まれる痛みと苦しみ。夢の中であるはずにも関わらず、その痛みは、強くヒロの精神に刻み込まれている。
手を振るい抵抗をするからと、腕を切り落とされる。喚いて煩いからと、喉を潰される。
傷口から溢れ出る血液が、妙に熱さを帯びていた。反対に身体から、徐々に熱が失われる感覚を覚えていく。しかし、死ぬことは許されず、癒しを施された。
そうして、苦しさと痛みと辛さに恐怖して、声にならない叫びを上げると共に目を覚ます――。
夢の内容を口に出す。それだけでヒロの顔色が、徐々に芳しくないものになっていく。時折、声を詰まらせ唇を噛み、絞り出すように尚も言葉を綴るヒロ。その様子に、ビアンカは眉を曇らす。
ヒロの見る悪夢は、彼の精神を確実に蝕み疲弊させていった。結果、夢を見ることに怯えたヒロは、人間の三大欲求の一つである“眠る”という行為を放棄した。
“呪い持ち”は、不老不死の特性を持つ故に眠ることや食べることを、さして必要としない。
但し、呪いを上手く扱うためには、精神を安定させることが必要不可欠であり。その第一の方法として、『睡眠と食事を摂ること』――。というのが、過去にビアンカがルシトに説かれたものだった。
ビアンカはルシトの言葉を思い出し、ヒロが眠れていないものの、“海神の烙印”の力を暴走させずにやり過ごす精神力を有していることに、内心で驚嘆していた。
「――この“海神の烙印”の大本となった魔族は、オーシア帝国の“魔導砲”に関わる実験の材料にされて……、それで命を落としたんだと思う」
「え……っ?!」
「“海神の烙印”の魔族はね。群島で“海神”って言われて親しまれ、海の守り神として崇められていたんだ」
ビアンカの吃驚の声を聞き、ヒロは微笑む。
「僕がまだ、普通の人間だった頃。“海神”は『人間の隣人』と呼ばれる魔族だった。――信じられないかも知れないけれど、昔の群島は人間と魔族、それに他の種族たちが寄り添い合って暮らしていたんだよ」
今から四百年以上前。オヴェリア群島連邦共和国が、まだ群島諸国と呼ばれていた頃――。
海に隔離され、独自の風習や伝統を持つに至った島国は、穏やかで大らかな気質を持つ者たちが多かった。本島と呼ばれる東西の大陸や中央大陸では、蔑まれる存在であった魔族やエルフ族、亜人族たちをも、諸国の人間は受け入れ、身を寄せ合って共に暮らしていた。
そうした中で一人の魔族が――、蔑まれて迫害される運命にあった他種族にも分け隔てなく接する人間たちに恩を返そうとするかのように、群島諸国を古い時代から守ってきた。
“海神”と人々に呼ばれ敬愛を受けていた存在は、人魚の姿をした美しい女性の魔族であった。彼女は、多くの戦乱から群島諸国の人々を守り、人間たちに協力的だったという。
「“海神”は群島の人々を悪手から守り、慈しみ愛した。だけれど――、その人間。オーシア帝国の連中に裏切られるという形で、その生涯を終えた……」
ヒロは嘆息と共に言葉を吐き出す。その表情は無念さを孕み、そして心が不安定に揺れている様をビアンカに推知させ、彼女を俯かせた。
「“海神”の魔族は、オーシア帝国が開発した“魔導砲”の犠牲者になってしまった、っていうことなのね」
ビアンカが首を垂れたまま呟くと、ヒロは頷く。
「確かに、当時“海神”がオーシア帝国に捕えられたという話は、耳にしていたんだ。だけれど、そんな酷い目に合わさせられているとは――、思っていなかった。“呪い”を遺すくらいだ。余程、人間に対して絶望を感じたんだろうね。可哀そうに……」
ヒロが歯噛みをして、同情の言葉を零す。
そこでビアンカは彼からの説話を聞き、はたと首を上げると、思ったことを口に出した。
「オーシア帝国が関わって、呪いが生まれたということは。その呪いは、そんなに古いものでは無いってことよね……?」
ビアンカの宿す“喰神の烙印”は、この世に“呪い”として生まれ落ちてから、千年単位の年月が過ぎているであろう。
だが、ヒロの持つ“海神の烙印”が、オーシア帝国が存在していた時代――、ヒロが普通の人間として過ごしていた頃に健在した魔族の遺恨だと言うのならば、まだ耳新しい、未知数の部分が多いのではないかと思い当たる。
ビアンカの言いたいことを察したヒロは、微かに首を縦に振るう。
「察しの通り。僕の宿す“海神の烙印”は、“調停者”たちが知るだろう“呪い”の中では比較的若いんじゃないかな。――とは言っても、もう四百年以上は経っているけどね」
そこでヒロは、浅く息を吐き出した。そして間を置くと、再び言葉を紡ぎ始める。
「“海神の烙印”の力は、まだまだ分からないことが多い。宿している僕自身も、何をやらかしてくれるのか、知らないことが沢山あるんだ。――だから、“喰神の烙印”をハル以上に上手く扱っているビアンカに、この船旅の間だけ僕を見張っていてほしい」
ヒロが真っ直ぐに紺碧色の瞳を向けて言い放った言葉を聞き、ビアンカの目つきが険しくなった。その強い眼差しに――、一瞬、ヒロはたじろいだ様子を窺わせる。だが、すぐに気を改めた様相を見せた。
「ビアンカからは“喰神の烙印”の気配は感じるけれど、嘗められている様子は無いなって思うんだ。上手く“喰神の烙印”と付き合えているんでしょ?」
尚もヒロはビアンカに疑問を送るが――、ビアンカは黙したままで、応えることをしなかった。僅かにかぶりを振るい、それに答えることはできないということを、ビアンカは表す。
「――ヒロ。あなたの呪いは生まれたばかりだって言うけれど、あなたが“海神の烙印”にとっての、最初の宿主なの……?」
ヒロの問いには答えずに、ビアンカは話題を変えるようにして、新たな問いを投げ掛けた。
話を切り替えられたことに、ヒロは微かに眉を動かし不服げな反応を示すものの、ふっと笑いを漏らし首を左右に動かす。
「この呪いには、僕の前に一人だけ――。宿主がいるんだ」
そして、ヒロはビアンカの疑問に答えるべく、口を開いた。




