第三十九節 ワケアリの旅人たち①
目の前の男女が囁き合っているのを、ビアンカは怪訝な面持ちで見守っていた。
そこで、ふと“喰神の烙印”の蠢く気配の強さが増していることに、彼女は察し付く。
まるで警鐘を鳴らすような左手の甲の痛み。それにビアンカは、一瞬だけ眉を寄せる。
しかし、自身に宿る“喰神の烙印”の存在を他者に認知されるわけにはいかないため、ユキとアユーシに悟られぬように素知らぬ顔を見せた。
(本当に、どうしたっていうのよ……)
内心で嘆息混じりに悪態を吐き出す。それは“喰神の烙印”に対してなのか、自身に絡んできた挙句に内緒話をし始めた男女に対してなのか。もしかすると両方なのかも知れない。
ビアンカが心中で呆れの混ざった雑言に思いを馳せているなど、気付くはずも無く。ユキとアユーシは尚も小さな声で話を続けていった。
「――いや、でもこの子。“邪眼持ち”じゃ無いんじゃない? 目の色も違うし……」
ユキと頭を寄せ合い、アユーシは背面に立つビアンカを、首を傾げ傍目に映しながら言う。
「ああ。“魔族”でも無くて、見た目も普通の人間だ。もしかしたら――」
そこでユキが思い当たった事柄をアユーシに伝えるために、言葉を綴ろうとすると。
「あ、ビアンカッ!! いたいたっ!!」
ユキの耳打ちを遮るように、潮騒と船夫や乗船客の織り成す喧噪に負けない大きな声が放たれる。その声に名を呼ばれた当の本人のみならず、ユキやアユーシ。周りにいた船夫や乗船客たちまでもが驚いた様相で、大声を発した正体――、ヒロに視線を投げ掛けていた。
だが、自身に向けられる視線を意に介さず、ヒロは大手を振りビアンカの元へと駆け寄ってくる。
「荷物、船室に置いて来たよ。その棍の方は、本当に置いて来なくて良かったのかな? 邪魔じゃない?」
「あ、ありがとう……。これは――、大丈夫よ。後で少しお手入れをしなきゃって、そう思っていたから……」
ビアンカは呆気に取られた様子で、ヒロの言葉に返す。彼女からの返答に、ヒロは微笑み「そっか」と小さく呟いた。
そんなヒロとビアンカのやり取りを目にしていた、アユーシとユキの顔色が変わる。それは驚嘆の色を宿し――、目の前の少女の元に駆け寄ってきた青年を目にした故のものだった。
「ヒロッ――?!」
「ヒロちゃんっ!」
「え?」
声を調和させ、アユーシとユキが驚愕とした音を奏でた。
名を呼ばれたヒロは声の主たちに振り返り――。その途端に表情を破顔させる。
「あああああ! アユーシとユキじゃないか!! 久しぶりだねえっ!!」
今までビアンカにしか目をやっておらず、二人の存在に気付かなかったのであろう。アユーシとユキを見止めたヒロは、嬉しそうな声を発する。
「何でお前がこの船に乗っているんだ?!」
久しぶりに出会った知人に満面の笑みを見せるヒロに、ユキが一歩前に歩み出て詰め寄った。その様相は、自分たちの乗った船に、ヒロが乗り合わせていることが解せないと。全身で言い表している。
「えー? 何でって。この船、“ニライ・カナイ”行きだし。僕が乗っていても、不思議じゃないんじゃない?」
「いや……。それじゃ理由になってねえし」
ユキに問われた内容に、ヒロは小首を傾げキョトンとした面持ちで返す。そうした訳合の通らない返しをされ、ユキは脱力したように肩を落とし項垂れる。
かような二人の掛け合いを目にし、アユーシは肩を震わせて笑っていた。
「ヒロちゃんは、相変わらずだねえ」
「そりゃあ、ね。僕は変わらないよ」
喉を鳴らすような愉快げな笑いと共に漏らされたアユーシの言葉を耳にし、ヒロは口角を持ち上げて笑う。
「やー……。てか、二人とも成長したなあ。“旅人”の貫禄が出てきたね」
「あんさ、ヒロちゃん。会う度に親戚の叔父さんみたいなこと言うの、止めてくんない?」
ヒロが二人を交互に見やり、感嘆の音を織り交ぜて綴った言葉。それにアユーシは苦笑いを浮かべ、ヒロは愉快げにカラカラと笑い始めた。
そうした交わし合いを目にしていたビアンカは、異なる思いに眉を寄せ、首を傾ぐ。そして大仰に笑うヒロを見やり、疑問に感じたことを口に出していた。
「この二人は、ヒロの知り合いなの……?」
「うん、そうだよ。ちょっと前に知り合った“旅人”たち」
「お前の『ちょっと前』ってのは、三年は経っているけどな……」
ビアンカの問いに、ヒロは首を縦に動かし然りを示した。その回申にユキが呆れ混じりに指摘の声を漏らすと、ヒロは「そうだっけ?」と視線を在らぬ方へ向けつつ不可思議そうに呟く。
ヒロの態度にユキは嘆息を吐き出し、腕を組み難しい表情を浮かせたかと見れば――、赭色の瞳でチラリとビアンカを見やった。ユキには何か思うところがあるようで、眼差しを彼女に向けたまま熟考の様を窺わす。
「――この子は、ヒロの連れなんだな。そうしたら、変わった子でも納得だ」
やにわに零されるユキの領得の意を宿した声。その誣言とも取れかねない物言いに、ビアンカの顔付きが不愉快さを帯びた。微かに小声で「変わった子って……」と漏らしたのを聞きつけたヒロが可笑しそうに笑い、彼女の背を軽く叩いて宥めるように接する。
そこでユキの口上を聞きヒロも何かに思い当たったのか、口を開き言葉を綴った。
「もしかして――、彼女の気配とあいつの気配を取り違えた?」
「当たり……」
「あはは。やっぱり」
気まずそうにユキが返答の声を零すと、ヒロはカラカラと笑った。その取り交わしにアユーシはことを察して顔を顰め、ビアンカは事情が分からないといった表情を帯びる。
ヒロは再びビアンカに紺碧色の瞳を向けると、幾度か首を縦に動かしながら何かを考える素振りを窺わせた。だが次には、言うべきことに思い当たった情態を漂わせ、暗唱し始める。
「ビアンカ。君のこと、この二人に話をしても良い?」
「え?」
突然の申し出に、驚きを宿した声がビアンカの口を付く。思わずヒロを見上げれば、憂虞の心中を察したのか、微笑みと共に一つ頷きで返された。
「――大丈夫。この二人は僕の事情も知っているし、信頼のおけるヒトたちだから」
どこか抗いがたい、しかし、柔らかな声音で発せられたヒロのそれに、ビアンカは黙したまま首肯してしまう。
ビアンカの承諾を得たヒロは再度頷きを示し、言葉を続けていった。
「えーっと。そうしたら、三人とも自己紹介からかな? その後に船室の方に降りて、話をしよう?」
「はいはい。ヒロちゃんはいつも通り、気配り上手でおいでだわ。リーダーの鏡だねえ……」
「いや、だって、みんなワケアリだからさ。こんな人目の多いところじゃ、話しにくいことも沢山あるしね」
ヒロが口にした提言に彼の性格を心得ているのか、アユーシが茶々を入れるように言うと苦笑いを見せる。アユーシの言にも、ヒロは当たり前と言いたげな様子で返していく。
なかなかと、そういった気配りはできるモノでは無い。話を耳にしていたビアンカは思いやる。
ヒロは人当たりも良いし、気も効く。その世話焼き癖から『お節介』などと揶揄される彼は、自分の利とならないことでも快く引き受けていたのではないかと。そんな風にビアンカは一顧していた。
かくいうビアンカも――、ヒロの好意に甘えさせてもらった部分もあった。
今回の“ニライ・カナイ”行きの船代も、『誘ったのは僕だからね』という一言で、ビアンカは財布すら出させてもらえなかったのだった。
(色々な人を軍主として取り纏めていたからなのか。元々がヒトの面倒を見るのが好きなのか。良い人なんだけれど、行き過ぎるとお人好しになり兼ねないわよね……)
好意に甘えた身でありながら、ビアンカは内心で嘆息する。
ビアンカがヒロという人物に対して、思いを巡らせていると――。
ユキとアユーシが各々に自己紹介を始めたため、それにビアンカは慌てて耳を傾けた。
「ユキだ。追い人がいてね。そいつを探して旅をしている」
「アユーシ・パトラでっす。ユキちゃんの人探しの手伝いをしていて、一緒に行動しているんだ」
ビアンカに対する警戒心を緩めたユキと、警戒の欠片も持たなかったのであろうアユーシが楽々と名乗ってきたので、ビアンカも応える。
「――ビアンカです。よろしくお願いします」
頭を下げ、礼儀正しく敬礼を行う。そして頭を上げると、ヒロが満足そうに頷いていた。
「さーて。それじゃあ、ここで立ち話もなんだし。船室の方で話をしようか」
仕切るようにヒロが口にすると、ユキとアユーシも首肯を示す。ビアンカも軽く首を縦に動かし、こうしてワケアリの“旅人”たちは船室へと降りていくのだった。




