第三十八節 海上での邂逅
船に並走して空を駆る海鳥の鳴き声。船が軋みながら海を掻き分けて進む音。マストに広がる帆が風を孕む音。
様々な音が聴こえてくる甲板でビアンカは一人、歩みを進める。
ヒロはというと、ビアンカの持っていた棍以外の手荷物を快く引き受け、船室へと降りていった。
なのでビアンカはヒロが戻ってくるまでの間、忙しなく動く船夫や楽しげに談笑を交わし合う乗船客たちに目を向けながら散策をしていた。
潮風に亜麻色の長い髪をなびかせ、太陽の光の眩しさに瞳を細めていたビアンカであったが――。不意に、その眉を寄せた。
暫くの間、鳴りを潜めていた“喰神の烙印”。それが蠢く様を感じ、ビアンカは難しい顔付きを作る。
“呪い持ち”であるヒロと出会った際に黙したままであった“呪いの烙印”が、何かを訴えるようなチクチクとした痛みをビアンカの左手の甲に伝えてきた。
「どうしたの……?」
その場に立ち止まり、革の手袋に覆われた左手を僅かに持ち上げ、軽い痛みを伴う手の甲にビアンカは語り掛ける。その声は小さく、雑多な音に紛れて消えていく。
しかし、ビアンカの問い掛けに、“呪いの烙印”は言葉を発しない。それに彼女は怪訝そうにして、尚も左手を見据える。
「お腹が空いた、とか言わないでよ? これから向かう“ニライ・カナイ”は魂の集まる場所だっていうじゃない。あなた、盗み食いとか、しないでよね……」
呆れの混じる声音でビアンカが雑言を口にすると――、“喰神の烙印”が一際大きく揺らぐ。そうすることで不服を申し立てているようだと、ビアンカは思案する。
(――この子が何かに反応を示すって、どうかしたのかしら……?)
“喰神の烙印”が蠢きを以てビアンカに訴えかける時、それは大抵が彼女の身に何らかの不測の事態が起きる場合が殆どであった。
そのことをビアンカは心得ているため、“喰神の烙印”が啓示したいのであろう事柄に頭を捻ってしまう。
徐々に痛みが強くなっていく左手の甲に、ビアンカが僅かに顔を顰めた頃。
はたとビアンカは、“喰神の烙印”に落としていた視線を上げた。
潮風に揺られ、ひらりひらりと踊る長い赤毛。その動きに合わせ、共に揺られる真っ白なストールは鳥の羽を象ったような形を施され、まるで翼のようだ。そんな風にビアンカは傍目に映った――、甲板の手摺に凭れ掛かり海を眺めていた女性を見つめて思う。
ビアンカの目にしている女性は、腰までの長さをした畝の強い赤色の髪に琥珀色の瞳を有する――。同性であるビアンカから見ても、綺麗だと意識してしまう容姿をしていた。
首に巻かれた真っ白なストールが、女性の持つ赤毛に対比して映えている。時折、身に纏った外套が風に大きくたなびき、腰に携える一本の剣が顔を覗かせた。そのことが、貴族然とした乗船客の多い中、女性が“旅人”なのであろうことを察せさせる。
女性の風に泳ぐ赤毛とストールの動きから、目を離せずにいたビアンカの視線に気付いたのであろう。ふっと女性が振り向き、ビアンカと視線がぶつかった。
目を丸くした女性の琥珀色の瞳に見据えられ、ビアンカはたじろぐ。既視感のあるざわりとした感覚と見つめすぎていた気まずさ。それらはビアンカに、居たたまれなさを植え付けた。
ビアンカに見つめられていたことに気付いた女性は、不思議そうにして小首を傾げる。かと思うと――、黙したまま、ビアンカの方へゆっくりとした足取りで向かう。そのことにビアンカは、内心で焦りを感じていた。
(え……、どうしよう。見すぎていて、怒られる……? それに、この感覚は……)
歩みを進めてくる女性から尚も目が離せないまま、ビアンカは狼狽する。
だがしかし――。
「どうしたん、お嬢ちゃん? 人のこと、マジマジと見つめちゃって?」
近くまで歩み寄ってきた女性は、琥珀色の瞳を真っ直ぐに向けて問い掛ける。その表情は――、見られていたことに不快感を表すものでは無く、穏やかな笑みを浮かべていた。
そうした女性の人の良さそうな笑みを目にして、ビアンカは胸を撫で下ろす思いだった。
「ご、ごめんなさい。髪の毛とストールが風になびいているのが、綺麗だなって思って……」
「ん? ああ……、おねーさんに見惚れちゃったワケかあ?」
ビアンカの返答を聞き、女性は「そうかそうか」と言葉を続け、楽しげに笑う。そして、ビアンカの頭から足先まで視線を滑らせ、「ふむ……」と声を漏らして何かを考える様子を窺わせた。
「お嬢ちゃんは折角の可愛い子ちゃんなのに、随分と古めかしい外套を着ているんだねえ? しかもそれ、男物じゃん?」
「え? ええ、そうです……、けど……」
突として女性に衣服の指摘をされ、ビアンカは呆気に取られた声音で返答してしまう。
「そのデザインだと――。百年くらい前のもの? お嬢ちゃんのお爺さん辺りが着ていたお古ってところかなあ?」
頬に人差し指を押し当てながら、女性はビアンカの格好についてを語る。
「お嬢ちゃんくらいの歳の子なら、もっと流行に敏感にならないとねえ。可愛い格好をしておかないと、良い出会いを見逃しちまうよ?」
「あ、あの……。私は別に出会いとか、求めているわけじゃなくて……」
捲し立てて物申す女性に、指摘をされているビアンカ本人は、しどろもどろに言葉を綴る。
「んー? そうしたら、何? 敢えての悪い虫除け、とか?」
「ま、まあ……、そういうことにしておいてください。男物のこれを着てフードを被っていた方が……、男の子と間違われて、変に絡まれることもないんで……」
「ふーん……?」
立て続けに投げ掛けられる女性の疑問に、ビアンカは押され気味に拙く答えていく。ビアンカの返しに、女性は「変なの」と言いたげにしていた。
(うう……。まさか、こんな風に絡まれるなんて思っていなかったわ。今度からは男の人だけじゃなくて、女の人も警戒しておかないといけないわね……)
居然として語りを続けていく目の前の女性。それの相手をしながら、ビアンカは内心で嘆息する。
今までビアンカは、その容姿から男性に絡まれることが多々あった。それ故に、身に纏っている黒い外套のフードを目深に被るなどをして人目を避けてきた。
しかしながら――。現在はヒロと共に行動していることと、今、目の前にいる存在が女性であることで気の緩みがあり、女性の言う『悪い虫除け』を怠っていた。
ビアンカは自身の軽率な行動に、後悔の念を抱く。
項垂れ気味になり、ビアンカが女性の話に耳を傾けていると――。
「アユーシ」
不意に二人の元に、男性の声が投げ掛けられた。
女性――、アユーシという名前らしい女性が、声が聞こえた方へと目を向ける。
ビアンカも釣られ、声の主へ視線を送ると。彼女たちの方へと一人の青年が歩んできた。
青年は蘇比色の髪を襟足辺りで一括りに結っており、赭色の瞳は意思の強そうな印象を与える。
旅装束である薄い茶色のマントを風にひるがえす様は、その青年が乗り合わせている貴族たちとは違い、“旅人”であることを指し示した。
「お、ユキちゃん。お帰り。どうだった?」
アユーシは青年の名を呼び、問い掛ける。アユーシの問いに、ユキと呼ばれた青年は緩く首を振るった。
「悪い。もしかしたら、やっぱり俺の勘違いだったかも――、って」
申し訳なさそうにして言葉を紡ぐユキであったが――。そこで、ふと、アユーシの傍らに佇むビアンカに気付き、口を噤んだ。そうして、見る見る内に眉間に皺を寄せ、驚愕の色を表情に呈した。その驚きを隠すように、ユキは口元を手で覆う。
「そんなに驚いちゃって。ユキちゃん、どうしたー?」
芯から驚いたといった様相を見せ、言葉を失っていたユキだったが、アユーシに声を掛けられてハッと我に返る。次にはアユーシの身に着けているストールを掴み、彼女を強引に引いて頭を寄せた。
「この子、誰だよ……っ?!」
アユーシにユキは小声で耳打ちをする。
突然にストールを掴まれたアユーシは、首元を締め付けられた反動で軽く咳込み、恨めしそうにユキを睨みつけた。
「ごほっ。ユキちゃん、マジ無いわ。首締まったっつーの……」
「良いから、さっさと答えろっ!」
抗議の声を発するアユーシをユキは叱責し、彼女に返答を迫る。だが、叱責など意に介さない風体で、アユーシはコロリと愉快げに顔色を変えて口を開く。
「今、ナンパしていたとこ。かーわいい子でしょ?」
琥珀色の瞳を悪戯そうに細め、口元を緩ませてアユーシは言う。さような彼女の応えに、ユキは嘆声した。
「この子……。あいつの気配と同じだぞ……」
警戒心を含んだ声音でユキは呟く。その言葉に、アユーシは首を捻った。
「ん? どういうこと?」
「俺、もしかしたら――、あいつの気配とこの子の気配を取り違えたっぽい……」
「へ……?」
ビアンカの耳には届かぬよう、コソコソと小声で囁き合っていたユキとアユーシは、示し合わせたかのようにビアンカへと視線を向ける。
二人に見据えられたビアンカは、翡翠色の瞳を丸くして瞬かせていた。




