第三十六節 ニライ・カナイ
グラスに入れられた氷が溶け、中の飲み物が水と果汁に分離してしまった頃。
個室となっている部屋、その扉を数回叩く音がヒロとビアンカの耳に届いた。
ヒロが扉に目を向け、暫しの間を置いた後に「どうぞ」と声を掛ける。すると、遠慮がちに店主が扉を開け、個室に姿を現す。
「人払いしているのに悪いな、ヒロ」
店主が申し訳なさげに口にすると、ヒロは首を振るう。
「いや。構わないよ。――それより、どうかした?」
そうしたヒロの促しの言葉に、店主は頷きと共に話を切り出していく。
「最近この近海に、質の悪い海賊連中が顔を見せるようになったんだがな。その海賊どもが、沖の海域で妙な拾い物をしたっていう噂話を聞いてよ。忘れない内にお前さんに伝えておこうと思ってな」
店主の言葉を聞き、ヒロは口の端を持ち上げて不敵な笑みを浮かしていた。そのヒロの表情に、ビアンカは疑問を感じて首を傾げてしまう。
「何でも、古い船の残骸だったっていうことだから。お前さんの出番かなと……」
歯切れの悪い言い方で店主は口にする。
だが、ヒロはそれで全てを察したような風体を醸し出し、頷いていた。
「噂は……、本当っぽいんだね。――その話を耳にしたから、僕は本島に上がってきたんだ」
「ああ、そうだったかい。相変わらず、俗耳だな」
言うと店主は可笑しそうにして、大仰に笑う。
「お前さんは世捨て人だが、耳が早かったようだ。いらん心配をして、話の邪魔をしちまって悪かった。ゆっくりしていってくれ」
店主は尚も愉快そうに口にすると、謝罪の言葉と共に個室を後にしていく。部屋を立ち去る店主に、微笑みを浮かべながらヒロは手をひらひらと振って送り出した。
ヒロと店主の会話に、ビアンカが怪訝そうに眉を寄せていると――。ヒロは紺碧色の瞳をビアンカに向け、首を傾げて「どうしたのか?」と言いたげな色を表情に纏う。
「ヒロって……、世捨て人、なの……?」
世捨て人――。謂わば、俗世との縁を切った隠者のことである。そのような名称でヒロが呼ばれたことに、ビアンカは疑問を抱いていた。
だがヒロはビアンカの問いに、優しく目を細めて苦笑いを浮かべる。
「あはは。僕はね、“群島諸国大戦”の決戦時に、死んだことになっているんだよ」
「あ……、そういえば、そうだったような……」
そこでビアンカは、はたと自身が読んだ“群島諸国大戦”の文献を思い返す。
オーシア帝国と同盟軍の最終決戦の場となる、オーシア帝国海域。文献によると、その居城でオーシア帝国の皇帝と同盟軍の軍主一味が、激しい戦いを繰り広げるに至った。
文献に詳細は記載されていなかったが、その戦いの最中で、同盟軍の軍主はオーシア帝国皇帝を打ち破ったものの――。城の崩落に巻き込まれ、軍主自身も帰らぬ人となったとされていた。
ビアンカが“群島諸国大戦”の結末を領得している様を見せたことで、ヒロは首を縦に動かし、言葉を続けていく。
「死ぬほど痛い目にはあったけど――。“呪い”の力で死ねなかったんだ」
「そっか……。“呪い持ち”は……、大怪我を負っても、“呪い”の力で傷が癒えてしまうから……」
ヒロがあっけらかんとした声音で綴ると、ビアンカは“呪い持ち”が持つ特性を思い出し、眉を寄せた。
“呪い”は、宿主を不老不死の存在とする。その力は恐ろしいほど強大であり、例え宿主が致命傷と言える命に関わるほどの怪我を負っても――、その身に宿す呪いの力が傷を癒し死ぬことを許さない。
そのことは、ビアンカ自身も多くの戦場や動乱の場を渡り歩き、嫌というほど思い知らされた残酷な事実であった。
「うん。まあ――、だけど殆どの人たちが、僕が生き延びていたことを知らない。未だに僕が生きているのを知っているのは、一部のヒトと群島を取り仕切る高官辺りだけなんじゃないかな?」
ヒロは言いながら視線を在らぬ方に向け、考えるような仕草を取る。そうして、何やら不快なものに思い至ったのか、顔を顰めて眉間に深い皺を寄せ始めた。
「――僕、普段は群島の隅っこにある無人島で、隠居生活をしているんだけれど……。偶にお偉いさんたちから海鳥便っていう手紙が届いてね。今回その手紙で、今さっき店主が言ったことを知らされてさ。『死者に鞭打つ』って、こういうことを言うんだよね。人使いが荒いったらないんだよ」
早口で多弁に――。そして使いどころの間違えた揶揄を内包し、オヴェリア群島連邦共和国を取り纏めている上の立場にいる者たちへの悪態を吐き出すヒロに、ビアンカは呆気に取られた表情を浮かべてしまう。
さようにして、ぽかんと間の抜けた顔付きを帯びるビアンカを目にして、ヒロは何かを思いついた面差しを見せて再度口を開く。
「ねえ。ビアンカは――、“ニライ・カナイ”に興味があるのかな?」
「え?」
話題を変えるようなヒロの会話の投げ方に、ビアンカは声を零した。そんなビアンカにヒロは、まるで少年の如く微笑み掛ける。
「会った時に、一生懸命に“ニライ・カナイ”行きの時刻表を見ていたから。若いのに感心だなーって思ってね」
「あ……。興味は、あるわ。――ただ、“ニライ・カナイ”が何なのか、私は知らないのよ……」
ソレイ港に着いた際にオヴェリア群島連邦共和国に向かうため、船着き場で航行船の時刻表を確認していたビアンカであったが。彼女はその際に、『ニライ・カナイ行き定期船』と書かれた船の時刻表の存在に気が付いた。
その貼り出された時刻表を目にして、ビアンカは“ニライ・カナイ”が何であるか、疑問を抱き興味も抱いた。そして、『ニライ・カナイ行き定期船』について考え馳せている最中で、ヒロと出くわしたのであった。
「お、そうなんだ。そうしたら――、僕が案内をしてあげるよ。一緒に、行かない?」
「ええ?!」
突とヒロが発した言葉の内容に、ビアンカは驚いた声を上げてしまう。だがヒロは、そんなビアンカの一驚に「ふふ……」と、声にならない呟きのように笑う。
「ハルの弔いも兼ねて、行っておきたいんだ」
「弔い……?」
ヒロの言葉の一部を掻い摘み、ビアンカが不思議げに声を漏らすと、ヒロは首肯を示した。
「“ニライ・カナイ”はね。群島から見て北西、辰巳の場所って言われる海域のことで、一年に二回だけ、その地で“冥界”への門を開くと言われているんだ」
ヒロは楽しげにして、舌も滑らかに語り始める。その様は、彼の故郷であるオヴェリア群島連邦共和国――、群島諸国のことを至極誇りに思っていることを、ビアンカに推し量らせた。
「航行船の方は年に数回出ているけれど、この“冥界”――、死者の国への門が開くのは、今の時期と春先の間のたった二回。その時には、まだ輪廻転生をしていない死者の魂が一時の間、遺された者の元に戻ってくると信じられている」
「それがハルの弔いと何の関係があるの?」
ヒロの話を聞き、ビアンカは首を捻る。
“冥界”と呼ばれる、死を迎えた者が行きつくとされている地のことは、様々な御伽噺として語られている。ビアンカも幼い頃より、伽や数多の本を読むことで、そのことを知識として了していた。
だがしかし、それが“ニライ・カナイ”と関係があることは知りもしなかった。そして、そこに赴くことがハルの弔いとなるとヒロが発した意味合いに、繋がらなかった。
「ハルは生まれ変わって、その魂は“冥界”には無いんだけれど……。死を迎えた者は皆がみな、“冥界”に魂が誘われて、そこで生まれ変わるための準備をする。誰しもが一度は通る道――、ってところかな」
ヒロは一度言葉を区切る。合間に水っぽくなってしまった果汁の飲み物を口に含み、喉を潤した。その後に軽く息をつき、気を改めたように口を開く。
「まあ、これ以上詳しい説明をすると、話が長くなっちゃいそうだから省くけれど。群島の人間にとって死者の魂の拠り所である“ニライ・カナイ”に行くっていうのは、本島の人たちで言うところの“墓参り”みたいなものなんだよ」
「それじゃあ、魂が“冥界”にいてもいなくても、あまり関係が無いってことね」
ヒロの説話に、漸くビアンカは“ニライ・カナイ”が何であるか解した様相を窺わせた。ビアンカの納得いった声を耳に入れ、ヒロは幾度か軽く頷きを見せる。
「そう言うことだね。――でも、最近は“ニライ・カナイ”に弔いのために出向く人間は、群島でも少なくなってね。今じゃ金持ち連中の観光っていう、道楽の場になっちゃっているけど」
まるで「嘆かわしい」と、そう言うようにヒロは嘆声を吐き出す。
そうしたヒロの言動を目にして、ビアンカは眉を下げて苦笑いを表情に浮かしてしまった。それは内心でヒロに対し、「年寄りくさい」という印象を抱いた故のものだった。
(昔の群島の風習を大事にしているせいで、ヒロは言うことが年寄り臭いのね。ハルはハルで時々、おじいちゃんみたいなことを言っていたけれど……。それとは違う感じで、ヒロはおじいちゃんっぽいわ……)
かようなことを内心で吐露しつつ、ビアンカは、ヒロに対する警戒心を徐々に緩めていくのであった。




