第三十二節 潮騒の中で
空に広がるのは、青い展望。遠くに見えるのは、白い大きな雲。
視界の先一面には、広大な碧い海。
鼻孔を擽るのは、潮風の香り。耳に届くのは、波が打ち寄せては返す潮騒の音――。
いつ訪れても海というものは、その目に映る景色や鼻で感じる香り、耳に残る音の全てが不思議な感覚を抱かせると、ビアンカは思う。
ビアンカが足を運んだのは、中央大陸の南東部。エレン王国とゼクセ多民族国家の国境近くに存在する大きな港街だった。
その港街は“ソレイ港”という――、エレン王国にもゼクセ多民族国家にも属さない中立街であり、公平な立場から様々な国の様々な物産品などを他大陸へ輸出入を行うことを生業として栄えた場所であった。
ソレイ港は、世界地図上で最東部に存在する“オヴェリア群島連邦共和国”と呼称された小さな島国が点在して一つの国となっている地へ赴く船を、唯一出航させている街でもある。
ビアンカはエレン王国を旅立った後、かつて“群島諸国大戦”と呼ばれる大きな戦争があった地――、オヴェリア群島連邦共和国に興味を持った。
何故ならば――、その“群島諸国大戦”で勝利を収めた同盟軍たちの旗頭が、“呪い持ち”であったという話を耳にしていたためだった。
ルシトとの話で度々と“群島諸国大戦”のことを聞くことがあり、オヴェリア群島連邦共和国には、いずれ足を運んでみようと思ってはいたものの――。今までのビアンカは、ハルという少年の生まれ変わりの存在を探すことを最優先としていたこともあり、その地へ行くという優先順位が低かったのだ。
だが、無事にハルの生まれ変わりである青年と巡り合うことができ、漸く目的の目線を変えて新たな地へと足を向ける機会ができていた。
潮騒のさざめき。海鳥たちの鳴き声。そして旅客船や商業船、多くの人々が行き交う草々たる雰囲気の中――。
ビアンカは黒い外套のフードを目深に被った状態で、目前の建物の壁に貼り付けられる定期船の時刻表を見上げていた。
太陽の眩しい光と人目を避けるために被ったフードから覗く翡翠色の瞳は、どこか難色を纏っている。
「オヴェリア群島連邦共和国……。“ニライ・カナイ”行きって、何だろう……?」
時刻表をジッと見つめていたビアンカは、疑問混じりに独り言ちる。
ビアンカの見つめる定期船の時刻表には、『ニライ・カナイ行き定期船』と書かれており、その文字にビアンカは釘付けだった。
「こんな国の名前、聞いたことないし……。そもそも、年に数回しか航行していないの……?」
尚も独り言を零しながら、ビアンカは不思議そうに首を捻る。
見据え続ける定期船の時刻表に書かれた“ニライ・カナイ”という言葉に、ビアンカは聞き覚えが無かった。あまつさえ、その定期船は年に数回しか出ていないということが書き記されている。
オヴェリア群島連邦共和国に存在する港の名称かとも、ビアンカは一瞬考えるが――。オヴェリア群島連邦共和国行きの船は、その国に行くことを記される船が別に航行しているため、“ニライ・カナイ”がオヴェリア群島連邦共和国のどこを示して、どこに行く船なのかが良く分からなかった。
「とりあえず、オヴェリア群島連邦共和国方面には行く船みたいだけれど……」
頭を捻り考えているだけで、疑問は一向に払拭されなかった。
“ニライ・カナイ”行きの航行船が出るのは年に数回。しかも、運が良いのか悪いのか、次の出帆は三日後。これを見送ってしまうと、その次の出帆は約半年ほど経ってからとなっていた。
行くべきか、行かないべきか。今回を逃してしまい、次の機会にと思っていると、きっと忘れる。そうビアンカが胸中で思いを馳せていると――。
「やあっ! こんなところで出くわすとは思ってもみなかったよっ!!」
「きゃあっ!!」
ビアンカの背後から突として愉快そうな声が放たれ、彼女の考え事で隙だらけになっている背を、声を掛けてきた人物が思い切り叩いた。
パンッ――、と音がするほど背を叩かれ、痛みと驚きでビアンカは小さな悲鳴を上げる。
声の主がいる背面に、ビアンカは咄嗟に踵を返す。
ビアンカがフードの合間から声の主を認めると、彼女に面と向かう一人の青年が佇んでいた。
恐らく元々は黒色なのであろう髪は、太陽の光で色が抜けて僅かに焦げ茶掛かった色を擁する。その前下がり気味に切られた短髪と、海の碧を抱いたような紺碧色の瞳が印象的だった。年齢は十八歳ほどといったところだろう。
旅装束のマントを羽織っていることから、青年が“旅人”なのだということを、ビアンカに察し付かせていた。そうして、ビアンカの目に付いたのは――、青年が腰に下げる一対の長剣と短剣。
(――二刀流の剣士? オヴェリア群島連邦共和国の人……?)
二刀流の剣術は、本島と呼ばれる中央大陸や東西の大陸では主流で無く、オヴェリア群島連邦共和国独特の流儀である。
オヴェリア群島連邦共和国は、独特な古い風習や文化が未だに根付いているため、時折こうした珍しい流儀を扱う者たちを旅の中で見掛けることもあった。
だがしかし――。
まるで知り合いでも見つけたかのような口振りで青年はビアンカに声を掛けてきたが。その青年にビアンカは見覚えが――、全く無かった。
しかしながら、青年は猶々と知り合いを見つけた風情で、振り返ったビアンカに人懐こそうな笑みを見せる。
「相変わらず、背の高さは変わらないのか? 寧ろ、少し縮んだんじゃないか?」
青年はカラカラと楽しげに笑うと、右手を掲げ上げてビアンカの頭をフード越しに乱暴に撫でた。
「ちょっ、ちょっとっ!! 止めてっ!!」
見知らぬ青年に急に頭を撫でられ、ビアンカは困惑から身動ぎをしつつ抗議の声を上げていた。
だが、青年はビアンカの拒絶が楽しいのか、気を良くしたように満面の笑みを浮かし、変わらずにビアンカの頭を捏ね繰り回すようにして撫でてくる。
「止めてってば――っ!!」
「うわっ!!」
あまりにも乱暴かつ失礼な仕打ちに、ビアンカは憤慨に声を荒げ、両腕を突き出して青年を引き離す。突き飛ばされた青年は、その場で蹈鞴を踏むようによろけるが、何とか体勢を立て直した。
勢い良く腕を突き出し動いた反動で――、ビアンカが目深に被っていたフードが外れ落ちる。それと共に、フードの下に隠れていた亜麻色の長い髪が太陽の下に晒され、潮風になびく。
「あ……、あれ……?」
外れ落ちたフードの下から姿を現したビアンカを目にして、青年は紺碧色の瞳を見開いて固まる。今までビアンカの頭を撫で回していた青年の右手が、所在無さげに中空を彷徨っていた。
「もう、髪の毛――、ぐしゃぐしゃになっちゃったじゃないっ!」
「ご、ごめん。知り合いと同じ気配を感じたから、てっきり彼かと思って……」
怒り冷めやらぬ状態でビアンカが怒りの声を発すると、青年は今まで見せていた笑顔とは打って変わり、戸惑ったようにビアンカへ謝罪を口にした。
そんな青年に、ビアンカは不服な表情を窺わせる。
「誰かと間違えたにしても……、突拍子が無さ過ぎるんじゃないかしら」
「本当にごめんっ! 昔馴染みかと思ったんだ……っ!!」
言うと青年は自身の顔の前で両掌を合わせ、謝罪を意味する仕草を見せる。
青年の態度に――、ビアンカは仕方ないと言いたげな溜息を吐く。
「――あなたみたいな人に、乱暴に絡まれる昔馴染みさんも大変ね」
ルシトのような言い方だとビアンカは内心で苦笑しつつ、嫌味の言葉を投げ掛けてしまう。
かようなビアンカの言葉に、青年は謝意を更に示すように頭を下げる。
「申し訳ない。女性に乱暴に接するとか、群島の男として恥ずかしい」
青年は至極申し訳なさげに言いながら、チラリとビアンカの革の手袋を嵌める左手に目を向けていた。そして――、その眉間に微かに皺を寄せた。
「でも、可笑しいな……。確かに――、ハルの気配だと、思ったんだけれど……」
下げた首を上げながら、青年は呟きを漏らす。
青年の呟きを耳聡く聞きつけたビアンカは、顔色を変えた。
「ハルを……、知っているの……?」
「ん……?」
自身が口にした名前に反応を示したビアンカを、青年は不思議そうに見やる。
青年とビアンカの視線がぶつかった次の瞬間には――、ビアンカは青年に詰め寄るように、一歩足を踏み込んでいた。
「どのハルを、知っているのっ?!」
「えっ?!」
ビアンカの気迫ある問い詰めに、青年は短い声を零し怯む。
その後、青年は逡巡と視線の先を泳がせつつも再度ビアンカの左手に目を向け、一顧する様を窺わせた。かと思うと――、何かに思い至った気配を表情に漂わせる。
「あー……、そういうことか……」
ビアンカから感じた気配の正体と、彼女が発した問いの意味。それを悟った青年は、紺碧色の瞳に愁いを湛え、僅かに伏した。そして、自身の頭を掻く仕草を取り、溜息を零す。
暫し思案する間を置いてから青年は伏した瞳を上げ、再びビアンカを見据える。すると、革の手袋を嵌めている左手を上げ、ビアンカの左手を指差す。
「――それの、元の持ち主のハル、だよ」
青年は静かな声音で、ビアンカの問いに答えていた。




