第三十一節 渡り鳥の止まり木
ビアンカは何かを言いにくそうにしている雰囲気を、僅かに窺わせていた。そのことにハルは勘付き、不思議そうにして首を捻る。
「あのね、ハル。一つ、お願いがあるんだけれど……」
「何だ……?」
恥ずかしげな様を表情に浮かしてビアンカが発した『お願い』の意味を測り兼ね、ハルは更に首を傾げてしまう。そして、おずおずとした印象を与えるビアンカに、続きを要求するように視線を投げ掛ける。
ハルから続きを待つ仕草を取られたことを察すると、ビアンカは「ふぅ……」と一呼吸を置き、ハルを翡翠色の瞳で見上げた。
「あのね……。お別れの前に……、ギュッてしてもらって、良い……?」
たどたどしい、どこか遠慮気味な小さな声で、ビアンカは言う。
その思いも掛けていなかったビアンカの言葉に、ハルは一瞬だけ吃驚から目を丸くするが――、すぐに表情を崩し優しげな笑みを浮かべた。
「ああ、遠慮するな。こっち、来い」
ハルは両腕を大きく広げ、ビアンカを招く。
そんなハルの行動に、ビアンカは嬉しそうに顔を綻ばせた。そして、肩に掛けていた荷物を床に置くと両腕を広げるハルの元に歩み寄り――、彼の胸元に顔を寄せる。
身を寄せてきたビアンカの身体を、ハルは両腕でそっと抱きしめていた。
抱きしめたビアンカの髪から漂う甘い香りが、ハルの鼻孔を擽った。その香りに――、ハルは懐かしいと思う感情が、胸に灯る。
(――こいつは、本当に変わらないな。外見的な意味じゃなくて、内面の……、甘えたところも……)
さようなことをハルは思う。
ハルが朧気に思い出していた、生まれ変わる前の自分自身の記憶。そうした記憶の中に存在するビアンカも、度々とハルという少年に甘えた態度を見せることがあった。
過去のビアンカは、それほどまでハルに絶対的な信頼を置き、彼を慕っていた。
本来であれば共に居たいという気持ちは、甘えたがりであるビアンカも同様であろう。だが、今は一緒には居られないという現実が、ハルにもビアンカにも酷な選択をさせるに至った。
それに対し、ハルは憂慮な思いを、心中に抱かずにはいられなかった。
「ビアンカ――」
思いを馳せ、ハルは、ふとビアンカの名を呼ぶ。ハルに不意に呼び掛けられたビアンカは、ハルに抱きしめられたまま、首を上げる。
ビアンカの翡翠色の瞳とハルの赤茶色の瞳の視線が交わると、ハルは微笑みを見せ言葉の続きを紡いでいく。
「あんたは、旅から旅の一つ処に留まらない“渡り鳥”だけれど。――俺は、そんなあんたの、翼を休めるための“止まり木”になれたら良いなと思うよ……」
「止まり木……?」
ハルの言葉に、ビアンカは不思議そうな面持ちを浮かべ問い返す。その問いに、ハルは頷いた。
「旅の合間に、良いことも悪いことも。あんたの身に起こるだろう――」
これからのビアンカの旅路を憂い、ハルは語る。
恐らくは――、至極厄介とされる“呪い”を身に宿すビアンカには、これから様々な禍災が訪れるであろう。ビアンカの旅路が、彼女を喜ばせることばかりでは無いのだと、ハルは自身も旅をしていた経験から思いなす。
旅の最中でビアンカが精神的に疲弊を来してしまう事態も、大いにあるだろうとハルは考えてしまう。
「俺はあんたに『前を向いて歩み続けてくれないか』って言ったけれど。旅に疲れたら――、偶には後ろを振り向いて引き返してみるということも、大切だと思う」
ハルは優しい声音で、諭しの言葉を述べていく。そんなハルの伽を、ビアンカは黙したまま耳を傾け聞いていた。
「だから――、旅の合間に何かあったら……。また、俺のところに戻ってくると良い。俺のことやエレン王国のことを、自分の“新しい故郷”だと思ってさ」
「――新しい、故郷……」
ビアンカは小さな声で、ハルの言葉を反復する。
ハルの発した言葉は、ビアンカの望郷となってしまったリベリア公国の代わりに、ハル自身やエレン王国をビアンカの新たな帰る場所にしろと提言するものであった。
帰る場所を持たない“旅人”であるビアンカにとっての、新たな“故郷”になるというハルの言論は――、ビアンカの翡翠色の瞳に愁いを宿させる。
(――ああ……。ここを帰ってくる場所にして、良いんだ……)
ハルの言葉の意味を飲み込み、ビアンカは思惟し――、ハルの胸元に再び頭を寄せて縋っていた。
頭を伏し、再度擦り寄る様を見せたビアンカにハルは穏やかに笑い、その背を優しく撫でる。
「――ありがとう、ハル。私、きっとここに戻ってくるから」
「ああ……」
ビアンカは囁くように言う。その声音はビアンカの抱いた強い意思を、ハルにも感じさせる。
それにハルは短く返事の声を漏らしたかと思うと――。ビアンカの背を撫でていた左手を動かし彼女の額に押し当てる。そうして、伏していたビアンカの首を上げさせた。
そして――。
「良い旅を。ビアンカ――」
ハルは言うと、ビアンカの前髪を左手で掻き上げ――。顕わになったビアンカの額に、唇を寄せていた。
「――――っ?!」
「うわっ?!」
突然のハルの行為に、ビアンカは翡翠色の瞳を見開き、ハルの身体を突っ撥ねるように腕に力を込めてしまう。そのビアンカの動作と同時に、ハルは慌てたような声を上げる。
ビアンカの反応の仕方。それにハルは「やってしまったか」と内心で焦りを感じるものの――。ビアンカが頬を赤く染めて自身を見上げているのを目にし、ハルは安堵の気持ちを抱くと共に、笑い声を漏らした。
さようなハルの笑い声に、ビアンカは面持ちに不服げなものを表していた。
「むう……。不意打ちは……、無しにしてよ……」
まさかハルから、そのようなことをされると、ビアンカは微塵も思っていなかったのであろう。耳まで朱に染めながら難色の声を発し、ハルを見やる。
「あはは、悪い。嫌だったのかと思って、ビックリしちまったけど。その反応じゃ、満更でも無かったみたいで安心したよ」
ハルは有頂天な喜びを示すように、尚も笑いをビアンカに向けた。
そんなハルを、ビアンカは更に慨嘆の様を呈し、翡翠色の瞳で見据える。そして、まるで悪戯っ子の悪戯に付き合ってしまったような――、「仕方のない人」と内心で思っていることを顕著にした溜息を吐き出してしまう。
「――嫌なわけ……、ないじゃない……」
ビアンカは小さく、蚊の鳴くような声を吐き漏らす。
「私、ハルが大好きよ。昔のハルも、今のハルも、全部――」
ビアンカがぽつりぽつりと、拙く発する言葉。その言葉を聞き、ハルの赤茶色の瞳には溢れた抑えがたい喜びの様子が漂う。
かようなハルの感情を見止めたビアンカは、照れ臭そうな笑みを浮かべ、ハルの利き手である左手を取り、自身の両の手で包み込むように握った。
「どうか、普通の人間として――、幸せになって。ハルが幸せに、安寧に過ごせるように。一緒にいられるように。私、頑張るから……」
ビアンカの声音には、一つの覇気が宿る。それは――、今のハルと共に、いずれは過ごせるようになりたいというビアンカの心中を、ハルに示唆させていた。
ビアンカの想いを察したハルは、自身の左手を握るビアンカの手の甲に右手を添え、それを包み込むように重ねた。ハルの赤茶色の瞳は優しげな色を湛え、ビアンカを愛しげな眼差しで見据える。
「また再会できる日を、楽しみにしているからな」
ハルが言うと、ビアンカは力強く頷く。その面差しには、少女らしい笑みを浮かしていた。
「また、逢いましょう。――今度はここに、『ただいま』って言いに来るからね」
「ああ、待っているよ。その時には、『お帰り』って言って出迎えるからさ」
「うん、お願いね」
ハルの申し出にビアンカは再度頷き、握っていたハルの手を名残惜しそうにして放した。そして――、その身を一歩引き、強い決意を窺わせる翡翠色の瞳でハルを見上げる。
「それじゃあ――。いってきます」
「ああ。いってらっしゃい。気を付けてな」
出立の言葉と共に、床に置いた自身の荷物を手に取って踵を返したビアンカに、ハルは見送りの言葉を送る。ハルの言葉を受け、ビアンカは心が満ち足りた様相を窺わせ、穏やかな一時を過ごしたハルの家を後にするのだった。
◇◇◇
優しいハルの言葉に後押しをされ、ビアンカはエレン王国を立つこととなった。
その旅立ちは――、ビアンカの中で、新たな決意を生んでいた。
――普通の人間として生を受けたハルが、ヒトとしての生を全うできる安寧の時を守る。
ビアンカの決意は、過ぐる日のハルに“優しい嘘”をつかれたとして、心の奥底で諦めに俯いていた気持ちを払拭させ、前を向いて歩き続けさせるための趣意となった。
今は、前を向いて歩こう――。
そうビアンカは心胸し、人気の無い街道を一人歩みを進める。ビアンカの後ろには――、夜闇に星を散らしたような明かりを灯すエレン王国が、彼女を見送るかの如く雄大に構えていた。
このエレン王国での出来事が、後々のビアンカを取り巻く全ての事象に、大きな影響を及ぼすことになるのだった。




